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第一部八章 陰謀
使者と駆け引き
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若神子に現れた尾張織田家の使者の一行は、その翌日には府中に到着した。
使者達は、出迎えた武田家臣・浅利右馬助信種が率いる隊に周囲を物々しく囲まれながら、躑躅ヶ崎館に入る。
そして、正使と副使は、直ちに主殿へと通された。
「――武田左馬助信繁様の御成でござる。お控え下され」
近習の声を受け、織田の正使と副使は深々と平伏する。
顔を伏せた二人の耳に、衣擦れと床を踏む足音が聞こえ、そして静かに腰を下ろす気配がした。
「――お待たせ致した。顔を上げられよ」
張りのある壮年の男の声がふたりにかけられ、使者ふたりはゆっくりと面を上げる。
ふたりの前に、片目を眼帯で覆った精悍な男が背筋を伸ばして座っていた。
ふたりの内、中年の方の男が、先ず口を開いた。
「お初にお目にかかります。拙者は、織田家中が筆頭家老、林佐渡守秀貞にござる。そして、この者は――」
「織田家にて足軽組頭を務めております、木下藤吉郎にござります! 木の下に、藤の花の藤、大吉の吉に野郎の郎と書きまして、木下藤吉郎! どうぞお見知りおきを!」
林秀貞の紹介の言葉を遮って、そう一気に捲し立て、戯けた顔で青々と剃り上げた月代をポンと叩いたのは、副使として控えていた若い男だった。
――何とも調子の良い男だ。
目尻に笑い皺を寄せた剽軽な顔は、まるで猿のようである。
「武田典厩様にござりまするな! 御高名は、遠く尾張の地まで轟いておりまする。文武に優れ、主であり、兄君にあらせられる信玄様の右腕として、欠くべからざる御仁である――と! 先月、あの軍神・上杉輝虎と、互角に渡り合ったという噂も聞き及んでおりまする。そんな御方にお目にかかる事ができ、この木下藤吉郎秀吉、光栄の至りに存じます!」
「――これ! 控えよ、藤吉郎! 無礼であるぞ!」
立て板に水を流すが如く、ペラペラと追従を並べ立てる藤吉郎を、慌てて窘める秀貞。
一方、追従を受けた信繁は、思わず呆気に取られて左目を大きく見開いていたが、気を取り直すように咳払いをして言った。
「……遠く、尾張からのはるばるのご来訪、誠に御苦労様でござる。――して、此度のご用件は、いかな事であろうか?」
――当然、事前に使者の目的は確認済みではあるが、外交の儀礼上、尋ねる必要がある。
秀貞もそれは心得ていて、「はっ」と答えると、もう一度頭を垂れた。
「……先日、信玄公がお倒れになったとの報せが届き、我が殿・織田弾正忠様は、いたくご心配遊ばされておりまして……。我らが、殿の命により、信玄公の御見舞に差し遣わされた次第にござります」
「……ほう」
秀貞の淀みない言葉に、信繁は皮肉気に口の端を歪めた。
「それはそれは。細やかなるお心遣い、深く感謝申し上げる。が……随分とお耳の早い事ですな。我らは、お屋形様の御不調を他国に向かって喧伝した覚えなど、全く無いのだが」
「……」
信繁の、探るような視線を受け、秀貞は表情を固くする。
そんな彼を鋭い目で見据えつつ、信繁は更に言葉を重ねた。
「――此度の件、一体どこからお伺いになったのかな、織田殿は……?」
「……それは――」
「それはもちろん、この甲斐府中に潜ませておる草の者からでござりますよ」
言い淀む秀貞とは対照的に、あっさりと答えたのは、副使の木下藤吉郎であった。
秀貞は、顔を真っ赤にして、藤吉郎に怒鳴る。
「こ――これ、藤吉郎! 滅多な事を言うで――!」
「そうは申しましても、武田様も、先刻ご承知の事でありましょう? 当家の放った草が、この町のそこかしこに潜んでおる事などは。今更取り繕ったところで、無為な事にござる。――ねえ、武田様?」
と、涼しい顔で言ってのけた藤吉郎は、半笑いで信繁の顔を見た。
そのあけすけな物言いに信繁は内心驚いたが、決して表情には出さずに、代わりに薄笑いを貼り付けた。
「はは……随分と真っ直ぐに物を仰る方ですな、木下殿は」
「いやあ、失礼致した。何せ、生まれが尾張の片田舎の百姓なもので……お武家様の薄布にくるんだような物言いには慣れておりませぬゆえ、何とぞご容赦下され。……ウフフフ」
「……いや、お気になさらず」
信繁は、のらりくらりと掴み所の無い藤吉郎の物腰に些か辟易しながら、首を横に振る。
と、
「……ところで」
藤吉郎が、それまで緩めていた表情を一変させると、ズイッと身を乗り出してきた。
「我らは、信玄公に御拝謁する為に、はるばるここまで参ったのですが……。本日、信玄公はいらっしゃらないのですか?」
その細めた目には、先程までのおどけた様子からは一変した、鋭い光が宿っている。
(――そうか)
その目を見た瞬間、信繁は悟った。
(この使者たち……身分とはあべこべに、主と従が逆なのだな)
即ち、本当の意味で主・織田信長の名代を務めるのは、正使の林秀貞ではなく、副使である木下藤吉郎の方なのだ。一見、軽薄で剽軽そうに見える所作も、こちらの軽侮と油断を誘い、少しでも多くの情報と優位を得ようとするが為の欺瞞――。
(木下藤吉郎、決して油断は出来ぬ。――曲者だな)
信繁は藤吉郎の猿のような異相をじっと見据えると、心中秘かに、彼に対する認識を大きく改めるのであった。
使者達は、出迎えた武田家臣・浅利右馬助信種が率いる隊に周囲を物々しく囲まれながら、躑躅ヶ崎館に入る。
そして、正使と副使は、直ちに主殿へと通された。
「――武田左馬助信繁様の御成でござる。お控え下され」
近習の声を受け、織田の正使と副使は深々と平伏する。
顔を伏せた二人の耳に、衣擦れと床を踏む足音が聞こえ、そして静かに腰を下ろす気配がした。
「――お待たせ致した。顔を上げられよ」
張りのある壮年の男の声がふたりにかけられ、使者ふたりはゆっくりと面を上げる。
ふたりの前に、片目を眼帯で覆った精悍な男が背筋を伸ばして座っていた。
ふたりの内、中年の方の男が、先ず口を開いた。
「お初にお目にかかります。拙者は、織田家中が筆頭家老、林佐渡守秀貞にござる。そして、この者は――」
「織田家にて足軽組頭を務めております、木下藤吉郎にござります! 木の下に、藤の花の藤、大吉の吉に野郎の郎と書きまして、木下藤吉郎! どうぞお見知りおきを!」
林秀貞の紹介の言葉を遮って、そう一気に捲し立て、戯けた顔で青々と剃り上げた月代をポンと叩いたのは、副使として控えていた若い男だった。
――何とも調子の良い男だ。
目尻に笑い皺を寄せた剽軽な顔は、まるで猿のようである。
「武田典厩様にござりまするな! 御高名は、遠く尾張の地まで轟いておりまする。文武に優れ、主であり、兄君にあらせられる信玄様の右腕として、欠くべからざる御仁である――と! 先月、あの軍神・上杉輝虎と、互角に渡り合ったという噂も聞き及んでおりまする。そんな御方にお目にかかる事ができ、この木下藤吉郎秀吉、光栄の至りに存じます!」
「――これ! 控えよ、藤吉郎! 無礼であるぞ!」
立て板に水を流すが如く、ペラペラと追従を並べ立てる藤吉郎を、慌てて窘める秀貞。
一方、追従を受けた信繁は、思わず呆気に取られて左目を大きく見開いていたが、気を取り直すように咳払いをして言った。
「……遠く、尾張からのはるばるのご来訪、誠に御苦労様でござる。――して、此度のご用件は、いかな事であろうか?」
――当然、事前に使者の目的は確認済みではあるが、外交の儀礼上、尋ねる必要がある。
秀貞もそれは心得ていて、「はっ」と答えると、もう一度頭を垂れた。
「……先日、信玄公がお倒れになったとの報せが届き、我が殿・織田弾正忠様は、いたくご心配遊ばされておりまして……。我らが、殿の命により、信玄公の御見舞に差し遣わされた次第にござります」
「……ほう」
秀貞の淀みない言葉に、信繁は皮肉気に口の端を歪めた。
「それはそれは。細やかなるお心遣い、深く感謝申し上げる。が……随分とお耳の早い事ですな。我らは、お屋形様の御不調を他国に向かって喧伝した覚えなど、全く無いのだが」
「……」
信繁の、探るような視線を受け、秀貞は表情を固くする。
そんな彼を鋭い目で見据えつつ、信繁は更に言葉を重ねた。
「――此度の件、一体どこからお伺いになったのかな、織田殿は……?」
「……それは――」
「それはもちろん、この甲斐府中に潜ませておる草の者からでござりますよ」
言い淀む秀貞とは対照的に、あっさりと答えたのは、副使の木下藤吉郎であった。
秀貞は、顔を真っ赤にして、藤吉郎に怒鳴る。
「こ――これ、藤吉郎! 滅多な事を言うで――!」
「そうは申しましても、武田様も、先刻ご承知の事でありましょう? 当家の放った草が、この町のそこかしこに潜んでおる事などは。今更取り繕ったところで、無為な事にござる。――ねえ、武田様?」
と、涼しい顔で言ってのけた藤吉郎は、半笑いで信繁の顔を見た。
そのあけすけな物言いに信繁は内心驚いたが、決して表情には出さずに、代わりに薄笑いを貼り付けた。
「はは……随分と真っ直ぐに物を仰る方ですな、木下殿は」
「いやあ、失礼致した。何せ、生まれが尾張の片田舎の百姓なもので……お武家様の薄布にくるんだような物言いには慣れておりませぬゆえ、何とぞご容赦下され。……ウフフフ」
「……いや、お気になさらず」
信繁は、のらりくらりと掴み所の無い藤吉郎の物腰に些か辟易しながら、首を横に振る。
と、
「……ところで」
藤吉郎が、それまで緩めていた表情を一変させると、ズイッと身を乗り出してきた。
「我らは、信玄公に御拝謁する為に、はるばるここまで参ったのですが……。本日、信玄公はいらっしゃらないのですか?」
その細めた目には、先程までのおどけた様子からは一変した、鋭い光が宿っている。
(――そうか)
その目を見た瞬間、信繁は悟った。
(この使者たち……身分とはあべこべに、主と従が逆なのだな)
即ち、本当の意味で主・織田信長の名代を務めるのは、正使の林秀貞ではなく、副使である木下藤吉郎の方なのだ。一見、軽薄で剽軽そうに見える所作も、こちらの軽侮と油断を誘い、少しでも多くの情報と優位を得ようとするが為の欺瞞――。
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