甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
86 / 263
第一部八章 陰謀

小火と懸念

しおりを挟む
 翌日の朝。
 府中で急報を受けた信繁が、与力の武藤昌幸を連れて、押っ取り刀で恵林寺に駆けつけた。

「大事御座いませぬか、兄上?」

 そう、布団の横に腰を下ろした信繁は、部屋の片隅に目を向けながら、心配げな顔をして尋ねる。
 彼が見つめる板張りの床には、黒い跡が残っていた。

「……大した事は無い。勝手に燈台が倒れて、床を焦がしただけだ」

 どこか憮然として答える信玄。

「ただそれだけなのに……わざわざお主らが足を運ぶ事でもない」
「いやいや、ひとつ間違えれば、大変な事になるところでしたぞ」

 信玄の言葉に、焦げた床の傍らに膝をつき、仔細に調べていた昌幸がかぶりを振る。

「万が一、書庫の書類に火が回れば、たちまちにして燃え広がった事でしょう。この程度で済んで幸いでした」
「……お部屋を変えた方が宜しいのではないですか?」

 信繁は、鼻の頭に皺を寄せながら信玄に勧めた。

小火ボヤで済んだとはいえ、部屋中に焦げ臭い匂いが残っておりますし……。それに、昨夜の件が、ただの偶然では無い可能性も否めませぬ」
「……賊か刺客の仕業だとでも言うのか?」

 信繁の言葉に、信玄は眉を上げた。
 そして、血の気の薄い唇を歪めて、薄笑みを浮かべる。

「それは、奇妙な事では無いか? あの後調べたが、特に何を盗られた訳でも無い。それに、儂の命を狙う者がおったとして、何故、寝首をかかずに、小火騒ぎを起こすだけで退散したのだ? ……言っては何だが、付け火をするくらいなら、儂の命を奪う暇など、いくらでもあったはずだぞ」
「確かに、仰る通りではございますが……」

 信玄の反論に、渋い顔をする信繁。
 と、昌幸が口を挟む。

「――それより、お加減はいかがですか、お屋形様」
「……珍しいの、源五郎。お主が、儂の身体を気遣うとは」

 そう、皮肉気な薄笑みを浮かべた信玄に、昌幸は大げさな身振りで手を振る。

「これはしたり! 拙者は何時でも、お屋形様のお身体を案じ、心痛めておるのですが! この武藤喜兵衛昌幸、お屋形様に、その様な非情者と思われていたとは……」
「ハッハッハ……戯言じゃ。赦せ、源五郎」

 昌幸のわざとらしい悲嘆を前に、思わず相好を崩す信玄。

「……まあ、夜になると、時折咳が止まらなくなる事はあるがな。典厩や太郎にまつりごとを任せて、恵林寺ここでのんびりと過ごさせてもらったお陰で、ここ最近は頗る調子が良い。そろそろ、湯治や座禅に飽き始めてきたところよ」
「最近調子が良いといっても、油断してはなりませぬぞ、兄上」

 うずうずした様子の信玄に、信繁はすかさず釘を刺す。

「以前にも申しましたように、京から戻られる法印殿の看立てを受けるまでは、府中に戻る事は罷り成りませぬ。まあ、そのご様子でしたら心配は無さそうですが……。それまでは、どうぞご安静に」
「……厳しい弟だな。まるで、昔の板垣 (信方)のようだ」

 信玄は、取り付く島もない信繁の様子に、辟易としながら苦笑する。
 そして、開け放たれた襖の向こうから覗く庭に目を遣りながら、呟くように訊いた。

「……府中まつりごとの方はどうだ?」
「は。問題はございませぬ」

 信玄の問いかけに、信繁は穏やかな笑顔を見せた。

「お屋形様ご不在の間も、政務を停滞させる事の無いよう、臣下も力を尽くして励んでおりまする。――特に、若殿のご奮励は著しく、日に日に頼もしくなって参りました」
「……そうか。太郎が――」

 信繁の答えに、信玄は何とも言えない表情を浮かべた。

「彼奴は、良くやっているか……」
「はい」

 信玄の呟きに、信繁は大きく頷く。

「はじめの頃は、某に泣き言を漏らす事もありましたが……。最近は、某がおらぬでも、ご立派に務めを果たしておられます。本日、某がここに駆けつけられたのも、若殿に後事を託すのに懸念が無いが故に御座います」
「……」
「ご立派になられましたぞ。……是非とも、ご帰府の際には、若殿に労いのお言葉を賜りますよう――」
「……そうだな。考えておこう」

 複雑な表情ながら、小さく頷いた信玄に、信繁はニッコリと笑って、再度大きく頷いた。



 「……それはそれとして、だ」

 と、信玄は、腕組みをしながら首をコキリと鳴らしながら言った。

「法印は……いつ頃、京から戻るのだろうな。些か遅くはないか?」
「は。――それでございますが……」

 信繁は、信玄の問いかけに、僅かに眉を顰めながら答える。

「先日、京より早馬が参りましたが、その使者が携えてきた書状によると、折悪しく公方様が夏風邪を召されてしまったとの事です。法印殿はその治療にあたるとの事で、こちらに参るのが予定よりも遅れてしまうようで……」
「何と。……ツいておらぬな」

 信繁の報告に、信玄は思わず苦笑いを浮かべた。

「それでは……まだ当分は、読経と座禅に精を出さねばならぬという事か……」
「……申し訳御座いませぬ」

 バツが悪い顔をして頭を下げる信繁に、鷹揚に手を振る信玄。

「……別に、お前が気に病む事でも無い。致し方ない事だ。……だが」

 と、信玄はおずおずと上目遣いで、信繁の顔を窺う。

「さすがに、何時までも伏せったままでは身体がなまる。……たまには、気晴らしに鷹狩りにでも行きたいのだが……いかんか?」
「……鷹狩り、で御座るか……?」

 信玄の申し出に、信繁は戸惑い顔で、顎に手を当てた。
 ――確かに、信玄が言う通り、いつまでも寺の一室と石和の湯治場を行き来するだけの毎日では、身体も――そして、心も鈍ってしまうだろう。
 ……とは言っても、鷹狩りはかなり激しい運動である。万が一、鷹狩りの最中に信玄の容態が急変してしまったら――。
 暫しの間、瞑目して考え込んでいた信繁だったが、その目を開くと、静かにかぶりを振った。

「……申し訳御座いませぬが、さすがに鷹狩りは――」

 信繁が、そこまで口を開いた時である。

 ――ひゅんッ

 三人の耳に、甲高い風切り音が聴こえた。次いで、乾いた衝突音。

「ッ!」

 三人は、音が鳴った方に目を遣り――身体を強張らせた。
 信玄の布団のすぐ側の板床に、黒く塗られたクナイが突き立っていたからだ。

「な――何事ッ!」

 昌幸が声を上げると同時に、天井から何かが降ってきた。
 ドスンという重い音が響く。
 それは――柿渋色の忍び装束を纏い、顔を頭巾で隠した人間だった。

「――曲者ッ!」
「……」

 乱破の姿をした闖入者は、無言のまま背中の刀を抜くと、呆気に取られて布団の上で固まっている信玄に向けて、その刃を振り上げた――!
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。 現在1945年夏まで執筆

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...