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第一部八章 陰謀
書状と在処
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油皿の芯に灯された火に照らされた信玄の顔は青白かった。その呼吸は細く浅く、時折、笛の音のような高い音が混じっている。
だが、病疲れの為か、彼の眠りは深く、目を醒ます気配は感じられない。
「……」
天井裏からその顔をジッと見下ろす佐助の脳裏に、やにわにかつての光景が浮かび上がってきた。
慎ましくも楽しかった幼少の頃。優しかった母。厳しくも、強く、子煩悩だった父。野山を共に駆け回って遊んだ友たち――。
……そのささやかながらも穏やかだった日々を壊し、心の中だけの風景に変えてしまった元凶。
それが、自分のすぐ下で、無防備な姿を晒しているのだ。
――佐助の呼吸が、僅かに乱れた。
(――今は、積年の恨みを雪ぐ、絶好の機会……)
一瞬、彼の胸中に浮かんだ想い。
その想いは、みるみるどす黒く膨れ上がり、彼の思考を蝕んでいく。
(……ここで、オレが少し手を動かせば――)
無意識に、彼の右手が懐をまさぐり、指先が硬く冷たいクナイに触れると、彼の呼吸が一段と荒さを増した。
「…………」
そして、その掌が、クナイの柄を強く握り込んだ――その時、
信玄の顔を照らす燭台の炎が、激しく揺れた。
「――!」
ハッと我に返り、佐助は懐に伸ばした手を引く。そして、己を落ち着かせる為に、細く長く息を吐いた。
(……いかん。オレとした事が……柄にも無く、我を忘れていた)
束の間瞬いた燭台の光は、復仇に濁りつつあった佐助の心を晴らすのには充分だった。
佐助は、軽く唇を噛むと、ぶんぶんと頭を振る。
(『乱破に心は無いと知れ』――骨の髄まで叩き込んだ掟の筈だが、危うく忘れるところであったな)
彼は、息を細く長く吐いて完全に平常心を取り戻すと、再び身を屈めた。そして、開けた小さな穴に目を押し付ける。
(……今のお前は、武田典厩の“眼”だ。“眼”は、ものなど考えぬ。ただただ、与えられた役目を果たせ――佐助)
と、佐助は自分に言い聞かせるのだった。
(ふむ……)
天井板に開けた小さな穴から、信玄の寝所の様子を一通り観察した佐助は、むくりと身体を起こすと、鼻の頭を弄りながらじっと目を閉じる。思案に耽る時の彼の癖だ。
今見た寝所の様子を思い返しながら、目当てのものの在処を推測しようとする。
(書状を収めるのならば、普通であれば書棚なのだろうが……、武田典厩が探せと命じてきた書状とやらが、源五郎の言う様に秘匿性の高いものならば、人目に付きやすいところには置かぬであろう。信玄以外の眼には触れず、且つ、彼奴が安心して眠る事が出来る隠し場所とは……?)
と、僅かの間、佐助は瞑目したまま黙考していたが、
(……よし)
心を決めて目を開いた。
(……考えても埒が明かぬな。ここはひとつ――信玄本人に教えてもらう事にするか)
そして、彼は直ちに行動に移す。
クナイを取り出し、刃先を当てると、音を立てぬように慎重に天井板の一枚を剥がしにかかる。
すぐに天井板は外れ、佐助は外した板を少しだけずらして、三寸 (約9cm)ほどの隙間を作る。
そして、彼は再び懐に手を伸ばし、長さ五寸 (約15cm)足らずの竹の筒と、栓の嵌まった小壺を取り出した。
(……よし)
佐助は小壺の栓を抜き、竹筒を咥えると、その先を小壺に浸した。そして、静かに中の液体を吸い上げる。
そして、竹筒を咥えたまま天井裏で腹這いになると、狙いをつけ、竹筒を思い切り吹いた。
筒の先から液体が飛び出し、燭台のすぐ側の床に命中し、広がった。粘ついた液体の微かな撥ね音がしたが、深い睡眠の内にいる信玄が目を醒ます様子は無い。
佐助は微かに頷くと、今度は懐から細い紐の束を取り出した。その端をクナイの柄先の輪に通し、固く結びつける。
(……さて)
そして、彼はクナイを構え、慎重に狙いをつけた。
細かく腕の角度と身体の傾きを調節していた佐助の動きが止まり、次の瞬間、素早い動きで手首を捻り、クナイを放った。
その標的は、信玄――の傍らに立つ燈台の細い脚。
次の瞬間、
かつんっ
という乾いた音を立てて、燭台の脚をクナイが掠めた。
狙いを外したのではない。
――佐助の狙い通りだ。
掠めたクナイの衝撃で、平衡を喪った燈台はぐらつき、バタリと横倒しに倒れた。
上部の油皿が投げ出され、中に溜まっていた少量の油と、火が点いたままの灯心が床に落ちる。
その転がった先には、先程佐助が吹き、撒き散らかしておいた液体――。
それは、極めて燃性の高い油だった。
ぼっ
灯心の火が床上の油に接触した瞬間、火は青い炎と化し、高く燃え上がった。
一瞬、昏い闇に覆われていた寝所が、昼間のように明るくなる。
すかさず、佐助は大声で叫んだ。
「――火事だッ!」
次の瞬間、閉じられていた信玄の眼がカッと開く。
彼は布団を跳ね上げて身を起こすと、傍らで燃え盛る炎を見て、愕然とした表情を浮かべる。
そして、無意識に彼は、視線を先程まで自分が臥せていた敷き布団の方へと向けた。
(……そこか)
と、息を殺して、天井裏から信玄の反応を観察していた佐助は、大きく頷いた。
そして、紐を手繰り寄せて回収したクナイと栓を閉め直した小壺を懐にしまうと、ずらした天井板を元に戻し、素早くこの場から離れる。
――見るべきものは見た。
であれば、それ以上の欲はかかずに、直ちに退散するのが、乱破の鉄則である。
佐助は、天井裏の梁の間を縫い、音も立てずに進みながら、微かに口の端を上げる。
(――間違いない。信玄が隠している書状とやらは、彼奴の横たわる布団の下だ)
だが、病疲れの為か、彼の眠りは深く、目を醒ます気配は感じられない。
「……」
天井裏からその顔をジッと見下ろす佐助の脳裏に、やにわにかつての光景が浮かび上がってきた。
慎ましくも楽しかった幼少の頃。優しかった母。厳しくも、強く、子煩悩だった父。野山を共に駆け回って遊んだ友たち――。
……そのささやかながらも穏やかだった日々を壊し、心の中だけの風景に変えてしまった元凶。
それが、自分のすぐ下で、無防備な姿を晒しているのだ。
――佐助の呼吸が、僅かに乱れた。
(――今は、積年の恨みを雪ぐ、絶好の機会……)
一瞬、彼の胸中に浮かんだ想い。
その想いは、みるみるどす黒く膨れ上がり、彼の思考を蝕んでいく。
(……ここで、オレが少し手を動かせば――)
無意識に、彼の右手が懐をまさぐり、指先が硬く冷たいクナイに触れると、彼の呼吸が一段と荒さを増した。
「…………」
そして、その掌が、クナイの柄を強く握り込んだ――その時、
信玄の顔を照らす燭台の炎が、激しく揺れた。
「――!」
ハッと我に返り、佐助は懐に伸ばした手を引く。そして、己を落ち着かせる為に、細く長く息を吐いた。
(……いかん。オレとした事が……柄にも無く、我を忘れていた)
束の間瞬いた燭台の光は、復仇に濁りつつあった佐助の心を晴らすのには充分だった。
佐助は、軽く唇を噛むと、ぶんぶんと頭を振る。
(『乱破に心は無いと知れ』――骨の髄まで叩き込んだ掟の筈だが、危うく忘れるところであったな)
彼は、息を細く長く吐いて完全に平常心を取り戻すと、再び身を屈めた。そして、開けた小さな穴に目を押し付ける。
(……今のお前は、武田典厩の“眼”だ。“眼”は、ものなど考えぬ。ただただ、与えられた役目を果たせ――佐助)
と、佐助は自分に言い聞かせるのだった。
(ふむ……)
天井板に開けた小さな穴から、信玄の寝所の様子を一通り観察した佐助は、むくりと身体を起こすと、鼻の頭を弄りながらじっと目を閉じる。思案に耽る時の彼の癖だ。
今見た寝所の様子を思い返しながら、目当てのものの在処を推測しようとする。
(書状を収めるのならば、普通であれば書棚なのだろうが……、武田典厩が探せと命じてきた書状とやらが、源五郎の言う様に秘匿性の高いものならば、人目に付きやすいところには置かぬであろう。信玄以外の眼には触れず、且つ、彼奴が安心して眠る事が出来る隠し場所とは……?)
と、僅かの間、佐助は瞑目したまま黙考していたが、
(……よし)
心を決めて目を開いた。
(……考えても埒が明かぬな。ここはひとつ――信玄本人に教えてもらう事にするか)
そして、彼は直ちに行動に移す。
クナイを取り出し、刃先を当てると、音を立てぬように慎重に天井板の一枚を剥がしにかかる。
すぐに天井板は外れ、佐助は外した板を少しだけずらして、三寸 (約9cm)ほどの隙間を作る。
そして、彼は再び懐に手を伸ばし、長さ五寸 (約15cm)足らずの竹の筒と、栓の嵌まった小壺を取り出した。
(……よし)
佐助は小壺の栓を抜き、竹筒を咥えると、その先を小壺に浸した。そして、静かに中の液体を吸い上げる。
そして、竹筒を咥えたまま天井裏で腹這いになると、狙いをつけ、竹筒を思い切り吹いた。
筒の先から液体が飛び出し、燭台のすぐ側の床に命中し、広がった。粘ついた液体の微かな撥ね音がしたが、深い睡眠の内にいる信玄が目を醒ます様子は無い。
佐助は微かに頷くと、今度は懐から細い紐の束を取り出した。その端をクナイの柄先の輪に通し、固く結びつける。
(……さて)
そして、彼はクナイを構え、慎重に狙いをつけた。
細かく腕の角度と身体の傾きを調節していた佐助の動きが止まり、次の瞬間、素早い動きで手首を捻り、クナイを放った。
その標的は、信玄――の傍らに立つ燈台の細い脚。
次の瞬間、
かつんっ
という乾いた音を立てて、燭台の脚をクナイが掠めた。
狙いを外したのではない。
――佐助の狙い通りだ。
掠めたクナイの衝撃で、平衡を喪った燈台はぐらつき、バタリと横倒しに倒れた。
上部の油皿が投げ出され、中に溜まっていた少量の油と、火が点いたままの灯心が床に落ちる。
その転がった先には、先程佐助が吹き、撒き散らかしておいた液体――。
それは、極めて燃性の高い油だった。
ぼっ
灯心の火が床上の油に接触した瞬間、火は青い炎と化し、高く燃え上がった。
一瞬、昏い闇に覆われていた寝所が、昼間のように明るくなる。
すかさず、佐助は大声で叫んだ。
「――火事だッ!」
次の瞬間、閉じられていた信玄の眼がカッと開く。
彼は布団を跳ね上げて身を起こすと、傍らで燃え盛る炎を見て、愕然とした表情を浮かべる。
そして、無意識に彼は、視線を先程まで自分が臥せていた敷き布団の方へと向けた。
(……そこか)
と、息を殺して、天井裏から信玄の反応を観察していた佐助は、大きく頷いた。
そして、紐を手繰り寄せて回収したクナイと栓を閉め直した小壺を懐にしまうと、ずらした天井板を元に戻し、素早くこの場から離れる。
――見るべきものは見た。
であれば、それ以上の欲はかかずに、直ちに退散するのが、乱破の鉄則である。
佐助は、天井裏の梁の間を縫い、音も立てずに進みながら、微かに口の端を上げる。
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