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第一部八章 陰謀
変装と潜入
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日が沈み、夜の闇にとっぷりと覆われた恵林寺の境内――。
「ううむ……これは堪らん。ちと、厠へ行ってくる」
「あ……ま、待て! 俺も……俺を先に行かせてくれ!」
そう仲間に言い置いて、青ざめた顔をした武士ふたりが持ち場を離れた。
ふたりは腹を押さえながら、心なしか内股で外の厠へと急ぐ。
だが、それは彼らだけでは無かった。
厠の前には、既に数人の武士達が蒼白な顔を並べて、順番を待っている。
「な……何じゃ。貴様らもか……!」
「ぐ……ぐう……、も、もうイカン……。は、早く出ろ!」
限界を迎えたらしい年嵩の武士が、目を血走らせて厠の扉を叩きながら怒鳴るが、中からの返事は、生々しい排泄音と、苦悶の唸り声だけだった。
「な……何が、どうなっておるんじゃ。皆揃って……!」
厠待ちの列の中から、唸り声と混じって、そんな呟きが聞こえた。
その疑問に対し、年嵩の武士は、縋り付く厠の扉を叩きながら、血を吐くような声で言う。
「そ……そんなもの、決まっているだろうが……! さっき、夕餉の後に食った瓜のせいだ――うぐう!」
彼は、そこまで言うのが限界だった。ぶり返してきた鋭い腹の痛みに耐えかね、彼は脂汗を浮かべながら、その場にしゃがみ込んでしまう。
「……ひ、昼間に、あの瓜売りから分捕った瓜が……悪くなっていた……そ、そうとしか……!」
「うううう……」
「は……はよう、早うしてくれ……頼む、ううううぅ……」
厠の前には、だんだんと硫黄のような臭いが漂い始め、いよいよ地獄の様相を呈してきた――。
「……ふふ、ちゃんと味わって食って頂いたようで、何よりだ」
そんな武士達の様を、境内の大樹の陰に潜んだ男が、ほくそ笑みながら見ていた。
「安心せい。腹の中のものを一切合切出し切れば、その内、腹の痛みも治まる……」
そう呟く佐助は、昼間の瓜売りの変装姿から、寺の修行僧へと装いを変えている。
――昼間、瓜売りに扮した佐助が、半ば脅された格好で警護の武士達に売り払った瓜は、ただの瓜ではなかった。
彼の故郷の山で採れる、“オニツノタケ”という毒茸の煮汁を灰汁と混ぜたものに一晩漬けた、特製の瓜だった。
煮詰めたオニツノタケの毒は、混ぜた灰汁によって大部分中和され、命を奪う程の効果は無いが、摂取した者の腹を下させ、厠に釘付けにするには充分であった。
ここまで、首尾は上々。……だが、仕事の肝はこれからである。
「……さて、この頭の分くらいは、成果を挙げねばな……」
そう呟くと、佐助は右手を頭に当てた。青々とした坊主頭が、ペチリと乾いた音を立てる。
彼は僧形に扮する為、自分の頭を剃り上げたのであった。
佐助は大きく息を吐くと、手を軽く前で組み、落ち着いた足取りで木の陰から離れる。
そして、厠の前で列を為して唸る武士達の横を通り過ぎながら、
「……お務め、御苦労様にございます」
と、涼しい顔で会釈をし、穏やかに合掌してみせたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
佐助は、寺の修行僧を装い、堂々と本殿の中へと侵入した。
時折、警護の武士とすれ違うが、寺坊主になりきった彼の挙措に、疑いの目を向ける者はいなかった。……というより、皆一様に青ざめた顔で腹に手を当てており、修行僧の顔など、じっくりと検める余裕が無い様子だったと言う方が正しいか。
――だが、
(……ここから先は無理か)
廊下の曲がり角に身を潜め、秘かに窺った奥の書院の前には、明らかに境内を見回る者たちとは違う、鋭い目付きの男がふたり、廊下を塞ぐ様に立っていた。
恐らく、信玄直付きの近習だろう。
一片の油断も見受けられない、男達の佇まいを一目見て、佐助は即座に強行突破を断念した。
そして、同時に確信する。
(信玄は……この奥か)
佐助は微かに頷くと、廊下を引き返した。そして、途中にあった部屋の襖を少しだけ開け、素早く身を滑り込ませる。
佐助はガランとした部屋の中を見回し、部屋の角の柱に足をかけると、僧衣の裾を翻し、身軽に跳び上がった。
「……よし」
そのまま天井の梁に手をかけると、彼は懐から出したクナイで天井板を剥がした。そして開けた隙間に、その身体を捩じ込もうとする。
――だが、その途中で肩が引っかかってしまった。
しかし、佐助の顔に、焦燥の色は浮かばない。
「……ちっ」
彼は、小さく舌打ちをすると、左腕一本で隙間の縁にぶら下がると、右肩を前後に大きく揺すった。
すると――、
ごきっ
という乾いた音がして、右肩の関節が外れた。いや、外れたのではなく、自分で外したのだ。
常人ならば、痛みで悲鳴のひとつもあげようものだが、佐助は眉ひとつ動かさない。
彼は、右腕をブラブラさせたまま、左腕のみで己の身体を持ち上げ、天井の隙間を通り抜けた。そして、天井裏によじ登ると、左手で右肩を押さえ、思い切り力を込める。
ごきり
再び嫌な音を鳴らして、右肩の関節が嵌まる。
佐助は、稼働を確かめるように右肩をぐるぐると回すと、天井裏の梁を伝って、足音も立てずにゆっくりと移動し始めた。
――どのくらい、天井裏を歩いただろう。
佐助は不意に足を止めると、じっと耳を澄ました。
「……ここか」
彼は、低い声で呟くと、クナイを取り出し、天井板に、音を立てないよう慎重に突き立てた。
そして、ゆっくりとクナイを回転させ、錐のように深く抉ってゆく。
すると、クナイの先から、弱い光が漏れてきた。クナイが天井板を貫通したのだ。
「……」
佐助は、無言でクナイを引き抜くと屈み込み、開けた穴に片目を付けた。
彼の居る天井裏の真下は広い部屋で、その中央には大きな布団が敷かれているのが見える。
そして、その布団に、髭を蓄えた僧形の男が寝ていた。
燈台の灯りに照らし出された、その窶れた容貌は、忘れるはずがない。
彼は、やにわに高鳴る己の胸の鼓動を感じながら、掠れた声でその名を呟いた。
「信玄……!」
「ううむ……これは堪らん。ちと、厠へ行ってくる」
「あ……ま、待て! 俺も……俺を先に行かせてくれ!」
そう仲間に言い置いて、青ざめた顔をした武士ふたりが持ち場を離れた。
ふたりは腹を押さえながら、心なしか内股で外の厠へと急ぐ。
だが、それは彼らだけでは無かった。
厠の前には、既に数人の武士達が蒼白な顔を並べて、順番を待っている。
「な……何じゃ。貴様らもか……!」
「ぐ……ぐう……、も、もうイカン……。は、早く出ろ!」
限界を迎えたらしい年嵩の武士が、目を血走らせて厠の扉を叩きながら怒鳴るが、中からの返事は、生々しい排泄音と、苦悶の唸り声だけだった。
「な……何が、どうなっておるんじゃ。皆揃って……!」
厠待ちの列の中から、唸り声と混じって、そんな呟きが聞こえた。
その疑問に対し、年嵩の武士は、縋り付く厠の扉を叩きながら、血を吐くような声で言う。
「そ……そんなもの、決まっているだろうが……! さっき、夕餉の後に食った瓜のせいだ――うぐう!」
彼は、そこまで言うのが限界だった。ぶり返してきた鋭い腹の痛みに耐えかね、彼は脂汗を浮かべながら、その場にしゃがみ込んでしまう。
「……ひ、昼間に、あの瓜売りから分捕った瓜が……悪くなっていた……そ、そうとしか……!」
「うううう……」
「は……はよう、早うしてくれ……頼む、ううううぅ……」
厠の前には、だんだんと硫黄のような臭いが漂い始め、いよいよ地獄の様相を呈してきた――。
「……ふふ、ちゃんと味わって食って頂いたようで、何よりだ」
そんな武士達の様を、境内の大樹の陰に潜んだ男が、ほくそ笑みながら見ていた。
「安心せい。腹の中のものを一切合切出し切れば、その内、腹の痛みも治まる……」
そう呟く佐助は、昼間の瓜売りの変装姿から、寺の修行僧へと装いを変えている。
――昼間、瓜売りに扮した佐助が、半ば脅された格好で警護の武士達に売り払った瓜は、ただの瓜ではなかった。
彼の故郷の山で採れる、“オニツノタケ”という毒茸の煮汁を灰汁と混ぜたものに一晩漬けた、特製の瓜だった。
煮詰めたオニツノタケの毒は、混ぜた灰汁によって大部分中和され、命を奪う程の効果は無いが、摂取した者の腹を下させ、厠に釘付けにするには充分であった。
ここまで、首尾は上々。……だが、仕事の肝はこれからである。
「……さて、この頭の分くらいは、成果を挙げねばな……」
そう呟くと、佐助は右手を頭に当てた。青々とした坊主頭が、ペチリと乾いた音を立てる。
彼は僧形に扮する為、自分の頭を剃り上げたのであった。
佐助は大きく息を吐くと、手を軽く前で組み、落ち着いた足取りで木の陰から離れる。
そして、厠の前で列を為して唸る武士達の横を通り過ぎながら、
「……お務め、御苦労様にございます」
と、涼しい顔で会釈をし、穏やかに合掌してみせたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
佐助は、寺の修行僧を装い、堂々と本殿の中へと侵入した。
時折、警護の武士とすれ違うが、寺坊主になりきった彼の挙措に、疑いの目を向ける者はいなかった。……というより、皆一様に青ざめた顔で腹に手を当てており、修行僧の顔など、じっくりと検める余裕が無い様子だったと言う方が正しいか。
――だが、
(……ここから先は無理か)
廊下の曲がり角に身を潜め、秘かに窺った奥の書院の前には、明らかに境内を見回る者たちとは違う、鋭い目付きの男がふたり、廊下を塞ぐ様に立っていた。
恐らく、信玄直付きの近習だろう。
一片の油断も見受けられない、男達の佇まいを一目見て、佐助は即座に強行突破を断念した。
そして、同時に確信する。
(信玄は……この奥か)
佐助は微かに頷くと、廊下を引き返した。そして、途中にあった部屋の襖を少しだけ開け、素早く身を滑り込ませる。
佐助はガランとした部屋の中を見回し、部屋の角の柱に足をかけると、僧衣の裾を翻し、身軽に跳び上がった。
「……よし」
そのまま天井の梁に手をかけると、彼は懐から出したクナイで天井板を剥がした。そして開けた隙間に、その身体を捩じ込もうとする。
――だが、その途中で肩が引っかかってしまった。
しかし、佐助の顔に、焦燥の色は浮かばない。
「……ちっ」
彼は、小さく舌打ちをすると、左腕一本で隙間の縁にぶら下がると、右肩を前後に大きく揺すった。
すると――、
ごきっ
という乾いた音がして、右肩の関節が外れた。いや、外れたのではなく、自分で外したのだ。
常人ならば、痛みで悲鳴のひとつもあげようものだが、佐助は眉ひとつ動かさない。
彼は、右腕をブラブラさせたまま、左腕のみで己の身体を持ち上げ、天井の隙間を通り抜けた。そして、天井裏によじ登ると、左手で右肩を押さえ、思い切り力を込める。
ごきり
再び嫌な音を鳴らして、右肩の関節が嵌まる。
佐助は、稼働を確かめるように右肩をぐるぐると回すと、天井裏の梁を伝って、足音も立てずにゆっくりと移動し始めた。
――どのくらい、天井裏を歩いただろう。
佐助は不意に足を止めると、じっと耳を澄ました。
「……ここか」
彼は、低い声で呟くと、クナイを取り出し、天井板に、音を立てないよう慎重に突き立てた。
そして、ゆっくりとクナイを回転させ、錐のように深く抉ってゆく。
すると、クナイの先から、弱い光が漏れてきた。クナイが天井板を貫通したのだ。
「……」
佐助は、無言でクナイを引き抜くと屈み込み、開けた穴に片目を付けた。
彼の居る天井裏の真下は広い部屋で、その中央には大きな布団が敷かれているのが見える。
そして、その布団に、髭を蓄えた僧形の男が寝ていた。
燈台の灯りに照らし出された、その窶れた容貌は、忘れるはずがない。
彼は、やにわに高鳴る己の胸の鼓動を感じながら、掠れた声でその名を呟いた。
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