甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部九章 愛憎

酌と美酒

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 「おう、良く参ったな、次郎」

 脇息にもたれかかり、盃に満たされた酒を呷りながら、上機嫌な様子で信虎が手招きをした。その顔は朱で染めたように真っ赤になっている。
 彼の肩に、袷を淫らにはだけた遊女がしなだれかかり、妖艶な微笑を浮かべている。
 襖の前で平伏していた信繁は、顔を上げてその痴態を目にするや微かに顔を顰めたが、すぐに表情を戻した。

「……失礼致します」

 もう一度小さく頭を下げると、ゆっくりと立ち上がり、信虎の居室に入る。
 と、信虎の眉間に皺が寄った。

「――何じゃ、兵部。貴様も居ったのか」

 その声色に、あからさまな嫌悪の響きが混じる。
 だが、その嫌悪をぶつけられた当人である虎昌は、澄ました顔で頷くと、

「畏れ入り申す。拙者も同席させて頂きますぞ」

 と、キッパリと言い放ち、信虎の返事も聞かずに、ズカズカと部屋の中へと踏み入った。
 信虎は虎昌の不遜な態度を目の当たりにし、こめかみに血管を浮かせたが、

「……フン、勝手にせい」

 不機嫌に吐き捨てると、盃を一気に飲み干した。
 遊女が、干された盃に酒を注ぐ間に、信繁と虎昌は、信虎の前に着座する。
 そして、遊女に目を向け、顎をしゃくった。

使殿のお相手、御苦労であった。――もう良い。お前達は、下がっておれ」
「おい、次郎ッ! 何を勝手な事――!」

 信繁に対し、声を荒げる信虎。
 幼少の砌、父の怒声は、耳にするだけで肝が縮む思いを覚えた“恐怖”そのものだった。――だが、今の自分は、あの頃の弱い自分では無い。信繁は気を奮い立たせると、父に負けじと鋭い視線を彼に送った。

「父上、申し訳御座いませぬ。ですが、これからのお話は重大なものとなります故、何とぞ人払いをお赦し頂きたい」
「……ほう」

 信繁の言葉を聞いた信虎は、険しい顔を向けた後、ニヤリと薄笑んだ。
 彼は盃に口をつけ、一口啜ると、自分の肩にもたれかかっていた遊女を乱暴に押しのけた。

「きゃ……っ!」
「お前、次郎の申していた事が聞こえなんだか! さっさと失せい!」
「ひ……ひ――っ」

 先程までとは打って変わった信虎の態度を前に、遊女は怯えた表情を浮かべた。そのまま、はだけた袷を整える余裕もなく、まろび出るようにして部屋から出ていく。
 走り去る遊女の足音がだんだんと遠ざかる間、黙って座っているままだった三人だったが、場を完全な静寂が包むと、信虎が信繁の前に盃を突き出した。

「注げ、次郎」
「――はっ」

 ぞんざいな信虎の命に、信繁は従順に従った。
 彼は、信虎の前に置かれた徳利を手に取るが、

「違う!」

 苛立った信虎の叱責に、驚いて目を上げる。
 信虎は、獰猛な虎を思わせる目で信繁を睨み据えながら、彼の傍らを指さして怒鳴った。

「こんな不味い酒ではないわ! お主が持ってきた酒の方を注がんか、馬鹿者が!」
「……失礼致しました」

 信繁は低い声で詫びると、自分が持ってきた大徳利の栓を抜いた。――たちまち、酒の芳醇な芳香が、部屋の中に満ちた。

「ほう……」

 その香りを嗅いだ信虎が、思わず相好を崩す。

「お主が、わざわざ持ってきただけの事はありそうじゃな。良い酒の香りがする」
「畏れ入ります」

 信虎の言葉に軽く頭を下げながら、彼の盃に酒を注ぎ込む信繁。トクトクと、小気味よい音を立てながら、白濁した酒が盃を満たしていく。

「ふむ……」

 やがて、杯を満たした濁り酒の香りを嗅ぎ、信虎は思わず舌なめずりをした。
 そして、盃の端に口をつけ、一気に呷る。

「……ほほう。これは美味いのう」

 一気に干した杯を再び信繁に向けて差し出しながら、信虎は満足げに言った。そして、無言で酒を注ぐ信繁に尋ねる。

「正直、驚いたわ。ワシがいる間の甲斐で、ここまでの酒を飲んだ事は無い。……何処で造った酒なのじゃ?」
「……残念ながら、我が国の産では御座いませぬ」

 微かに苦笑を浮かべながらの信繁の答えに、信虎は訝しげに眉を顰める。
 そんな父の表情も構わず、信繁は淡々と言葉を紡いだ。

「――これは、越後の酒に御座ります」
「……越後じゃと?」

 信虎は、信繁の言葉に、驚きの表情を浮かべる。

「がははは! 越後と言えば、川中島でお主らが煮え湯を飲まされたという、あの上杉輝虎めの領土ではないか? お主、敵国の酒を斯様に有り難がって持って参ったのか?」
「はい」

 信虎の嘲笑に眉一つ動かさず、信繁は即答した。
 そのあっさりとした態度に、信虎が意外そうな表情を浮かべる。
 信繁は、そんな信虎を前に、静かに言葉を継いだ。

「人に敵味方は居ろうとも、酒には敵も味方も御座いませぬ。……美味いものは美味い。ただ、それだけに御座る」
「……ふん!」

 面白く無さそうな顔をした信虎は、乱暴に盃を置いた。
 そして、酒に酔ってどろんとした目で信繁の顔をジッと見る。

「何を言うかと思えば、つまらぬ事を……もう良い。さっさと本題に入れ、次郎」
「……」
「お主が、わざわざ一目を忍んでここに参ったのは、ワシと酒を酌み交わす為などでは無かろう? ――兄と共謀して、無理矢理逐い出した父などとは、な」
「……それは」
「くくく……、隠さずとも良いぞ。お主の肚の中など、ワシはとうに見通しておるわ」

 信虎は、皮肉を込めた笑いを浮かべながら、ズイッとその怪偉な顔を信繁に近づけ、酒臭い息を吹きつけながら言った。

「で……、どうなのだ? ――お主らは、いつ頃、駿河に攻め込むつもりなのじゃ?」
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