甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部九章 愛憎

建前と本音

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 「お主らは、いつ頃、駿河に攻め込むつもりなのじゃ?」

 ――まさか、これ程までに直接的に、信虎の方から切り出されるとは思っていなかった信繁は、すっかり虚を衝かれ、思わず虎昌と目を合わせた。
 虎昌の顔にも、隠しきれない驚愕と憤激が浮かんでいる。
 一方の信虎は、訝しむように眉を顰めた。

「……む? 何じゃ、その顔は? ――よもや、太郎から、まだ何も聞いておらぬのか?」

 父の問いかけに、信繁は強張った表情のまま、小さく頷いた。

「は……。兄上からは、何も聞かされては……おりませぬ」

 嘘ではない。
 実際に、まだ信繁自身は、信玄からは何も聞いていない。
 直接話をされたのは嫡男義信だけであり、その直後に信玄が倒れたので、他の者に話をする余裕は無かったはずである。
 信繁は、口中の渇きで縺れる舌を動かしながら、言葉を紡ぐ。

「誼を通じておる今川を攻めるなどと……。その様な話は、当家では一切上がってはおりませぬが……」
「……何じゃそれは。何をモタモタしておったのだ、あの愚図が……」

 信繁の答えを聞いた信虎は、あからさまに不機嫌になり、大徳利から手酌で酒を注ぐと一気に呷った。

「ワシが、彼奴に今川攻めを持ちかけてから、もう二年近くにもなろうというに……。未だ、何の方策も出してはおらぬというのか? あれだけ、書状で催促をしておったのに、たわけた奴じゃ」
「……」

 恵林寺の信玄の寝所で見付けた、信虎からの書状は、一番古くても一年前の日付だった。信虎の話が正しければ、更にその一年前から、信玄は今川攻めを父から求められていた事になる。

(……兄上も、悩んでおったのだ。今川を攻めるべきか否かを。二年もの間、一人きりで……)

 ――恐らく、信玄自身も、同盟国であり、血の縁も深い今川家に攻めかかる事に関して、少なからぬ抵抗を覚えていたのだろう。
 だから、ひっきりなしに届く信虎の催促を躱しながら、二年をやり過ごしていたのだが、いよいよ断り切れなくなり、遂にあの夜、義信に話をした――そういう事だったのだろう。

(……儂に、一度打ち明けて頂ければ、お気も軽くなっただろうに)

 信繁は、二年もの間ひとりで抱え込んで苦しんでいたであろう兄の事を思い、また、それに気付けなかった自分自身に対して無性に悔しさを覚え、グッと奥歯を噛み締めた。
 ――なれば、
 信繁は、気を引き締めると静かに息を吸い、目の前の父を見据える。

「……父上。貴方は何故、今川を攻める事を、斯様に強く兄上にお奨めなさったのですか?」
「……フン。当然であろう? 昨今の情勢を鑑みればな」

 信虎は、信繁の言葉を「そんな事も解らぬのか?」とばかりに鼻で笑った。

「先年、駿河の今川治部大輔 (義元)が桶狭間で討死してしもうて、その後を継いだ彦五郎 (氏真)の奴の不甲斐なさよ。即座に親父の仇を討ちに行きもせずに、日々をのうのうと過ごすだけ。既に三河は、松平の若造によって散々に食い散らかされとる。じきに、遠江はおろか、駿河も飲み込まれるであろう。そうなる前に、死に体の今川を武田が食ってしまえと言ったまでよ」

 彼の言い分は、信玄が隠し持っていた書状に書かれていた通りだった――
 だが、したたかに酩酊しつつあった信虎の舌は、そこで止まらなかった。
 自分の高説と血管を巡る酒気に酔い、すっかり気をよくした信虎は、隠していた本音を思わず漏らす。

「それにのう……治部の奴めは、義父であるこのワシを鬱陶しがって、碌な扱いをせんかった。『御舅殿』と持ち上げるばかりで、禄も渋り、飼い殺しに等しい扱いであった。じゃから、こちらからサッサと隠居してやって、京都に流れたという訳じゃが……」

 そう言うと、信虎は顔を顰めて盃を呷ると、苛立たしげに膳に叩きつけた。

「――その様な、薄情で恩知らずな家など、とっとと滅んで然るべきよ。貴様らに、その引導を渡す役目を担わせてやろうというのじゃ。光栄に思うが良いぞ」
「は……?」

 信虎の酷い言い草に、信繁は、思わず目を丸くした。

「父上……。それではまるで、父上は、御自身の私怨を晴らす為に、我らを利用しようとしている様に聞こえるのですが……」
「ふん! それがどうした?」

 信虎は、信繁の言葉をあっさり肯定した。が、さすがに言い過ぎたと思ったのか、表情をやや和らげると、言葉を付け加える。

「……と言っても、お主達にも全く旨みが無い話という訳でもあるまい。――駿河を取れば、海が手に入る」
「海……」
「そうじゃ」

 信虎は頷いた。

「海を手にすれば、山道を征くよりも、物資を容易く、しかも大量に運搬できる。それに、湊での交易によって莫大な利益を得られる。このような山国に引き籠もっておっては、到底得られぬ程の利を、な」
「……」

 ……確かに、その信虎の指摘は正しい。船での輸送は、荷駄での陸上輸送よりもずっと効率がいいし、交易の要となる湊を掌中に収めれば、そこから上がる交易品取引の利益や、徴収できる関税の額は莫大なものになる。
 だが――、

「ど……道有公!」

 上ずった声を上げたのは、それまでずっと黙って座っていた虎昌だった。
 彼は、真っ青な顔を歪めて、信虎に食ってかからんばかりに詰め寄る。

「お説はご尤もやもしれませぬ。し……しかし、それでは、嶺様……今川家の姫を娶っておられる若殿の立場が無くなってしまいます!」
「若殿? ……ああ、確か、今は義信とか言うたか」

 虎昌の言葉に、信虎は僅かに目を開いたが、すぐに口の端を吊り上げて嘲笑わらった。

「ふん! 家の大事を前に、嫡男の立場、論ずる価値は無いわ! さっさと離縁させて、駿河に送り返しでもすれば良かろう! その後で、然るべき家の娘を宛がってやれば良い。それだけで済む話じゃ!」
「そ……それは、些か乱暴では? 第一、若殿は嶺様と離縁する気など――」
「無い、とな? ふむ……ならば」

 信虎の目に、剣呑な光が宿った。

「義信を廃嫡の上、奥方共々どこぞの寺か何処かに押し籠め、なお逆らうようなら詰め腹を切らせれば良い」
「……ッ!」

 信虎の放言に、信繁と虎昌の顔が蒼白になった。
 慌てて、虎昌が言い募る。

「そ……その様な事、出来るはずもありませぬ! そんな事をすれば、家中の動揺が――!」
「――嫡男だろうが何だろうが、国主に逆らう者はよ」

 飯富の怒声を中途で遮り、信虎は皮肉気な薄笑みを浮かべながら言った。
 そして、歯を剥き出し、餓虎の如き眼光でふたりを見据えながら、嗄れた声を張り上げる。

「嫡男だからといって、何の手立ても講じずに泳がせておった国主の末路がどういうものなのかは、他ならぬお主らが一番良く知っておろう? ……まあ、その教訓を、最も骨身に沁みて思い知らされたのは――このワシだがな!」
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