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第一部九章 愛憎

老臣と旧主

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 驚愕で目を見開いた信繁の頬に、ぴちゃりと音を立てて、雫が弾けた。
 信繁は呆然としつつ、指で頬を拭う。
 どろりとした生温かい液体の感触に、背筋が凍る思いで、指先に目を落とす。
 ――指先は、真っ赤に染まっていた。

「ひょ――」

 信繁は、呆然として、彼の前に立ち塞がった背中に叫んだ。

「兵部――!」
「……ぐ……ぐう……」

 身を挺して、信虎の振り下ろした太刀の剣閃から信繁を守った虎昌は、左肩から左乳の上までを太刀に斬り割られ、口から夥しい血を吐く。
 だが、その目には獰猛なまでに爛々とした光が宿り、眼前の信虎を真っ直ぐに見据えている。
 その眼光にたじろぎながらも、信虎は歯を剥き出し、怒鳴りつけた。

「ひょ、兵部! 貴様、邪魔をするなァッ!」
「……じゃ……『邪魔をするな』? ……それは……、こちらの言葉ぞ!」

 信虎の恫喝に、眦を決して叫び返す虎昌。その瞬間、斬り裂かれた傷口から血が噴き出すが、それにも構わず、飯富は言葉を継いだ。

「ど……道有公……! 貴方様こそ……武田家の未来の為に、険しき道を進むお屋形様達の邪魔をするでない!」
「な……何じゃ、兵部ッ! このワシに、その様な不遜な口を――」
「――もう……」

 虎昌は苦痛に顔を歪め、荒い息を吐きながらも、左腕を真っ直ぐ伸ばし、信虎の顔面をがっしりと掴んだ。
 突然の狼藉に、信虎は驚きと怒りで目を剥きながら、怒号を上げる。

「き――貴様ぁ! このワシに対して……無礼であろうが! ええい、放せ! さっさと、この汚い手を放さぬかァッ!」
「……断る」

 唾を飛ばしながら喚く信虎に向けて、静かに頭を振った虎昌は、ゆっくりと右手を伸ばし、腰に差した脇差の柄を掴んだ。
 カチリと鯉口を切る音と、スラリという鞘走りの音が、辺りに響く。
 依然として顔面を掴まれたままの信虎は、虎昌が抜いた脇差の刃が反射した銀色の光に、今度は恐怖の色をその双眸に浮かべる。

「――ぬ……んッ!」

 その意図を察した信虎は、思わず顔色を変える。
 そして、虎昌の身体に深く斬り入った太刀を抜こうと、柄を掴む両手に力を籠めるが、骨にまで食い込んだ太刀はびくとも動かない。

「く……クソッ!」

 今度は、己の顔面を掴む虎昌の左手を引き剥がそうと、その二の腕を掴む。――だがそれは、数多の戦場を駆け抜け、数えきれないほどの死線を潜り抜けてきた虎昌の膂力の前には、無駄な足掻きでしかなかった。
 と、信虎は、上ずった声を上げる。

「ま――待て、兵部! 貴様、主に何をするつもりだ! 止めよ――!」
「……道有公」

 焦燥に満ちた信虎の声に僅かに微笑を浮かべた虎昌は、こみ上げる血で喉を泡立たせながら、掠れ声で言葉を紡いだ。

「せめて……嘗ての……臣として……この、飯富兵部少輔虎昌……死出の旅のお供を仕りまするぞ」
「! や――止め――!」
「……御免!」

 虎昌は叫び、渾身の力を込めて、右手の脇差を前へと突き出す。

 ぐずり

 ――刃が肉に食い込む鈍い音が、生々しさを湛えて、空気を揺らした。

「ぐ……! んんむ……」

 信虎は呻き声を上げると、足を縺れさせながら後ずさる。その腹には、虎昌の脇差が深々と突き立っている。

「ぐぐ……ぐううう……!」

 そしてそのまま、顔を歪めて、バタリと仰向けに倒れた。
 一方の虎昌も、再び大量の血を吐くと、がくんと膝を落とし、その場にくずおれようとする。

「――兵部!」

 弾かれたように腰を浮かした信繁が、その身体を受け止めた。

「兵部! しっかりせい! 兵部!」

 信繁は、彼の耳元で叫びながら、自分の手が血に塗れる事も厭わず、左肩から心臓の上にかけてパックリと開いた傷口を押さえる。
 だが、傷口から溢れ出る真っ赤な鮮血は止まらない。

「……くっ! 待っておれ、兵部! すぐに、薬師を――!」
「……良いのです、典厩様……」

 廊下に向けて叫ぼうとする信繁の手に、己の手を重ねて、虎昌は静かに首を横に振った。

「もう……この傷では助かりませぬ……」
「……兵部……」
「……そう、お嘆きなさいませぬな」

 虎昌は、荒い息を吐きながらも、信繁に向けてにこりと微笑みかけた。

「拙者は……満足でござります……。この、老いさばらえた命ひとつで……武田家を……若殿を……お屋形様を救う事が出来た。……本望です……」
「……兵部――」
「典厩様……」

 虎昌は、白く膜を張り始めた目で信繁の顔を真っ直ぐに見つめながら、懇願する様に言った。

「……どうか……どうか、これからの武田家を……若殿を……お頼み……申す……」
「――おう! 勿論だとも!」

 信繁は、隻眼から涙を流しながら、大きく頷きかけた。

「必ずや――儂は、太郎を、兄上を輔け、武田家を盛り立てていく! ……だから、安心せい、兵部ッ!」
「……」

 信繁の言葉に、虎昌は満足げな微笑を浮かべて目を瞑り――そして、動かなくなった。

「……っ」

 虎昌の最期を見届けた信繁は、静かに瞑目する。
 そして、そっと彼の身体を床に横たえ、すっと立ち上がると、倒れたもうひとりの男の元に向かう。

「……父上」
「……ぐ……何じゃ」

 信繁に呼びかけられ、浅い息を吐いて脇差が突き立ったままの腹を両手で押さえていた信虎は、虚ろな目を向けた。――その表情にも、ありありと死相が浮かんでいる。
 信繁は、その傍らに膝をつき、震える声で言った。

「申し訳……ございませぬ、父上……」
「ふふっ……何を今更……」

 信虎は、濁った目で信繁を睨みつけると、顔を歪めて嗤う。

「血が止まらぬ……肝を裂かれたようじゃ……。これでは……長くはあるまい……」
「……」
「……ふふ……そんな顔を……するな、次郎よ……」

 信虎は、息も絶え絶えに言葉を紡ぎながら、手を伸ばして、信繁の肩を掴んだ。

「次郎……先程、お前は言っておったな。……ワシの事を、『武田家にとって害となる者は、断固として排除する』――とな……」
「……はっ。――確かに、申しました」
「……なれば」

 と、信虎は、その目に力を込めて、じっと信繁を見据えて訊いた。

「太郎……お前の兄が武田家に害なす者となったら……一体、どうする?」
「……!」

 信虎の問いかけに、信繁は僅かに目を見開いたが、すぐに頷いて答える。

「その際には……兄上といえど……武田家の為に――」
「……そう、か」

 信虎は、信繁の答えに小さく頷き、そっとその頬に手を当てた。

「……ならば、良い。……その覚悟を以て……これからも生きてゆけ。……
「……」

 頬に当てられた、父の節くれ立った手に己の手を添えて、信繁は今際の際にある父の顔を見つめる。
 信虎は、それまでとは異なる、険の取れた微笑みを浮かべ、震える声でゆっくりと言葉を紡いだ。

「ワシは……空の上から、その様を見させて……もらうとしよう……」
「……はっ」

 信繁は、一筋の涙を零しながら、大きく頷いた。

「……見ていて下され。これからも……父上」
「……ふう……」

 信虎は、大きな息を吐くと、白濁し始めた虚ろな目を彷徨わせながら、呟く。

「最期に……た……太郎の……面も……拝んでやり……たかっ……」
「…………父……上……?」
「……」


 呼びかける信繁の声も、信虎の耳には、もう届かなかった――。
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