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第一部九章 愛憎
訃報と告知
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その日の未明、将軍家副使・武田無人斎道有――信虎の死は、正使である細川兵部大輔藤孝には詳細を伏せ、ただ“頓死”したとのみ伝えられた。
血に塗れた衣服を替え、身なりを整えて彼の部屋を訪れた信繁からその報を聞いた瞬間、藤孝はピクリと片眉を上げたが、彼が驚いた仕草をみせたのは、それだけだった。
彼はすぐに表情を戻すと、ただ一言「……相分かり申した」とだけ答え、後事は武田家に一任する旨を伝える。
武田家の前当主にして、現当主信玄の父だとはいえ、今の立場は歴とした将軍家副使である信虎の突然の死に対し、さぞや苛烈な追及があるものと覚悟をしていた信繁は、あまりにあっさりとした藤孝の態度に拍子抜けした。
――だが、同時に悟る。
(ああ……成程。どうやら……将軍家でも、父上は厄介者扱いだったらしいな――)
恐らく……信虎が今回の副使に選ばれたのは、信虎の自薦があっただけではなく、将軍家の意向も多分に含まれていたのだろう。
十三代将軍足利義輝が、今川家から離れて流浪の身であった信虎を御相伴衆として召し抱えたは良いが、その後、あまりにも傲慢で尊大な信虎を持て余し、その扱いに困っていたに違いない。
だから、此度を好機として、見舞の使者という体で信虎を武田家に送り込み、そのまま彼の身を“実家”に引き取らせようとしたのではないか――。
信虎の訃報を聞いた後、思わず“安堵”の表情を浮かべる藤孝の様子からも、それは明白だった。
(で、あれば――)
信繁は素早く考えを巡らし、藤孝に向かって言った。
「――細川様。武田道有様は、確かに公方様が差し遣わされた副使でございますが、同時に、某――そして、我が兄の父にござります」
「……うむ。確かに……」
僅かに「何を今更、分かりきった事を」と言いたげな表情を浮かべた藤孝を前に、慇懃な態度を保ったままの信繁は、静かに言葉を重ねる。
「……もし、差し支えなければ、父の葬儀を当家で挙げても宜しいでしょうか? ――そして、出来れば葬儀の前に、父を荼毘に付したいのですが……」
「……荼毘に?」
藤孝は、信繁の言葉に、怪訝な表情を浮かべた。
「はっ」
信繁は小さく頷くと、言葉を継いだ。
「……無論、恵林寺に居る兄の了解を得た上で、ですが。――まだ残暑の残る中、父の御遺体を何時までもそのままにしておく訳にはいきませぬ。葬儀の前に荼毘に付し、その遺灰を分けて、一部を当家代々の墓に納める事をお赦し頂ければ、彼岸の父も喜ぶか、と……」
「……ふむ、左様か」
藤孝は、信繁の説明に再び片眉を上げた。薄い口髭を撫でつけながら、暫し思案に耽る様子を見せ、そして大きく頷いた。
「……宜しい。帰京後、公方様には、拙者からその旨を確とお伝え致す。まあ、事後報告とはなり申すが、事態が事態ゆえ、公方様も否やとは仰いますまい。――どうぞ、左馬助殿の御心のまま、差配なされよ」
「寛大なる御厚情を賜り、忝うございます」
「いやいや」
藤孝は、深々と頭を下げる信繁に向かって鷹揚に手を振ると、髭を撫でるふりをして口元を隠しながら言葉を継いだ。
「……さても孝行者の息子殿を持ち、道有殿も幸せ者ですな……」
「ッ! ――」
藤孝が何気無いように放った一言を耳にした瞬間、平伏した信繁の目が吊り上がった。
彼は、身体の中がカッと熱くなり、直ちに傍らの刀を引っ掴んで藤孝の懐に飛び込もうとする憤激の衝動を、歯を食いしばって堪える。
そして、床についた両手をグッと握り締め、
「……はっ」
と、微かに震える声で答えたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
躑躅ヶ崎館で細川藤孝への報告を済ませた後、すぐに信繁は馬を駆り、塩山の恵林寺へと向かった。
まだ日の出の時間だったが、兄・信玄は既に起床していて、信繁が通された本堂の一室に、すぐその姿を見せる。
信玄は、相変わらず青白い顔をしていたが、以前よりも大分元気な様子で、機嫌も悪くなさそうだった。
「おう、次郎。今朝は随分と早いな。てっきり、公方様の使者達と一緒に参るのかと思っておったが」
寝間着姿の信玄は、弟の顔を見て微笑むと、そう言いながら上座に腰を下ろした。
本日、典医の板坂法印と共に将軍家からの使者が恵林寺に来る事は、信玄の耳にも当然入っている。
――勿論、使者ふたりの名と素性も……。
「して……次郎よ。どうだった、父上の様子は」
信玄の何気ない一言に、信繁の心臓は鷲掴みにされたように縮み上がる。
そんな弟の様子にも気が付かず、信玄はどこか嬉しそうな様子で、湯呑みに満ちて仄かに湯気を立てる茶を一啜りし、言葉を継いだ。
「……もう、二十余年経つか……。随分とお変わりになったのであろうか。……それとも、変わっておられなかったか?」
「…………はい。やはり、見目は大分……。ですが、雰囲気は、以前と変わりなく……」
信繁は、鉛のように重たい舌を必死で動かしながら、信玄の問いに答える。……そんな事よりも、兄に伝えねばならぬ事があるのに、それを口にする事が出来ない。
一方の信玄は、信繁の言葉に相好を崩した。
「そうか……! それは、お目にかかるのが楽しみだ。父上――使者殿が御出になるのは、昼過ぎくらいかのう?」
「……それは――」
信玄の屈託のない様子を前に、信繁は思わず言葉を詰まらせる。
そんな信繁の表情を見た信玄は、怪訝な表情を浮かべた。
「……どうした、次郎? 府中で……何かあったのか?」
「……」
信繁は、自分の顔面が蒼白になるのをひしひしと感じて、思わず顔を伏せた。
――覚悟は、とうに決めていたはずなのに、いざ父の訃報――しかも、ほぼ自分が手を下したに等しい父の死を兄に伝えねばならぬ事に、今更ながら言いようのない畏れを感じ、信繁はその身を震わせる。
……だが、告げねばならぬ。
それは、信玄の弟であり、武田家の副将である、自分自身が果たさねばならぬ責務なのだ。
そう、信繁は心の中で復唱しながら顔を上げ、対面する信玄の顔をじっと見つめた。
「――!」
弟の、怯えながらも決然とした表情を見た信玄も、ただならぬ事が起こった事を悟った。彼は表情を引き締めて、信繁の口から言葉が紡がれるのをじっと待つ。
そして、信繁は縺れて意に沿わぬ舌を叱咤しつつ、静かに話し始めた。
「兄上……。父上は……もう、兄上がお会いになる事は……叶いませぬ……」
「……どういう事だ?」
静かに訊き返す信玄の声も、緊張から微かに震える。――まるで、薄々、信繁の言葉の先を察しているようだった。
「それは……」
信繁は、震えてカチカチと音を立てる歯をグッと噛み締めると、兄に向け、遂にその事を告げる。
「父上が、昨晩……お亡くなりに……お亡くなりに、なられたからにござります――」
血に塗れた衣服を替え、身なりを整えて彼の部屋を訪れた信繁からその報を聞いた瞬間、藤孝はピクリと片眉を上げたが、彼が驚いた仕草をみせたのは、それだけだった。
彼はすぐに表情を戻すと、ただ一言「……相分かり申した」とだけ答え、後事は武田家に一任する旨を伝える。
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――だが、同時に悟る。
(ああ……成程。どうやら……将軍家でも、父上は厄介者扱いだったらしいな――)
恐らく……信虎が今回の副使に選ばれたのは、信虎の自薦があっただけではなく、将軍家の意向も多分に含まれていたのだろう。
十三代将軍足利義輝が、今川家から離れて流浪の身であった信虎を御相伴衆として召し抱えたは良いが、その後、あまりにも傲慢で尊大な信虎を持て余し、その扱いに困っていたに違いない。
だから、此度を好機として、見舞の使者という体で信虎を武田家に送り込み、そのまま彼の身を“実家”に引き取らせようとしたのではないか――。
信虎の訃報を聞いた後、思わず“安堵”の表情を浮かべる藤孝の様子からも、それは明白だった。
(で、あれば――)
信繁は素早く考えを巡らし、藤孝に向かって言った。
「――細川様。武田道有様は、確かに公方様が差し遣わされた副使でございますが、同時に、某――そして、我が兄の父にござります」
「……うむ。確かに……」
僅かに「何を今更、分かりきった事を」と言いたげな表情を浮かべた藤孝を前に、慇懃な態度を保ったままの信繁は、静かに言葉を重ねる。
「……もし、差し支えなければ、父の葬儀を当家で挙げても宜しいでしょうか? ――そして、出来れば葬儀の前に、父を荼毘に付したいのですが……」
「……荼毘に?」
藤孝は、信繁の言葉に、怪訝な表情を浮かべた。
「はっ」
信繁は小さく頷くと、言葉を継いだ。
「……無論、恵林寺に居る兄の了解を得た上で、ですが。――まだ残暑の残る中、父の御遺体を何時までもそのままにしておく訳にはいきませぬ。葬儀の前に荼毘に付し、その遺灰を分けて、一部を当家代々の墓に納める事をお赦し頂ければ、彼岸の父も喜ぶか、と……」
「……ふむ、左様か」
藤孝は、信繁の説明に再び片眉を上げた。薄い口髭を撫でつけながら、暫し思案に耽る様子を見せ、そして大きく頷いた。
「……宜しい。帰京後、公方様には、拙者からその旨を確とお伝え致す。まあ、事後報告とはなり申すが、事態が事態ゆえ、公方様も否やとは仰いますまい。――どうぞ、左馬助殿の御心のまま、差配なされよ」
「寛大なる御厚情を賜り、忝うございます」
「いやいや」
藤孝は、深々と頭を下げる信繁に向かって鷹揚に手を振ると、髭を撫でるふりをして口元を隠しながら言葉を継いだ。
「……さても孝行者の息子殿を持ち、道有殿も幸せ者ですな……」
「ッ! ――」
藤孝が何気無いように放った一言を耳にした瞬間、平伏した信繁の目が吊り上がった。
彼は、身体の中がカッと熱くなり、直ちに傍らの刀を引っ掴んで藤孝の懐に飛び込もうとする憤激の衝動を、歯を食いしばって堪える。
そして、床についた両手をグッと握り締め、
「……はっ」
と、微かに震える声で答えたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
躑躅ヶ崎館で細川藤孝への報告を済ませた後、すぐに信繁は馬を駆り、塩山の恵林寺へと向かった。
まだ日の出の時間だったが、兄・信玄は既に起床していて、信繁が通された本堂の一室に、すぐその姿を見せる。
信玄は、相変わらず青白い顔をしていたが、以前よりも大分元気な様子で、機嫌も悪くなさそうだった。
「おう、次郎。今朝は随分と早いな。てっきり、公方様の使者達と一緒に参るのかと思っておったが」
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本日、典医の板坂法印と共に将軍家からの使者が恵林寺に来る事は、信玄の耳にも当然入っている。
――勿論、使者ふたりの名と素性も……。
「して……次郎よ。どうだった、父上の様子は」
信玄の何気ない一言に、信繁の心臓は鷲掴みにされたように縮み上がる。
そんな弟の様子にも気が付かず、信玄はどこか嬉しそうな様子で、湯呑みに満ちて仄かに湯気を立てる茶を一啜りし、言葉を継いだ。
「……もう、二十余年経つか……。随分とお変わりになったのであろうか。……それとも、変わっておられなかったか?」
「…………はい。やはり、見目は大分……。ですが、雰囲気は、以前と変わりなく……」
信繁は、鉛のように重たい舌を必死で動かしながら、信玄の問いに答える。……そんな事よりも、兄に伝えねばならぬ事があるのに、それを口にする事が出来ない。
一方の信玄は、信繁の言葉に相好を崩した。
「そうか……! それは、お目にかかるのが楽しみだ。父上――使者殿が御出になるのは、昼過ぎくらいかのう?」
「……それは――」
信玄の屈託のない様子を前に、信繁は思わず言葉を詰まらせる。
そんな信繁の表情を見た信玄は、怪訝な表情を浮かべた。
「……どうした、次郎? 府中で……何かあったのか?」
「……」
信繁は、自分の顔面が蒼白になるのをひしひしと感じて、思わず顔を伏せた。
――覚悟は、とうに決めていたはずなのに、いざ父の訃報――しかも、ほぼ自分が手を下したに等しい父の死を兄に伝えねばならぬ事に、今更ながら言いようのない畏れを感じ、信繁はその身を震わせる。
……だが、告げねばならぬ。
それは、信玄の弟であり、武田家の副将である、自分自身が果たさねばならぬ責務なのだ。
そう、信繁は心の中で復唱しながら顔を上げ、対面する信玄の顔をじっと見つめた。
「――!」
弟の、怯えながらも決然とした表情を見た信玄も、ただならぬ事が起こった事を悟った。彼は表情を引き締めて、信繁の口から言葉が紡がれるのをじっと待つ。
そして、信繁は縺れて意に沿わぬ舌を叱咤しつつ、静かに話し始めた。
「兄上……。父上は……もう、兄上がお会いになる事は……叶いませぬ……」
「……どういう事だ?」
静かに訊き返す信玄の声も、緊張から微かに震える。――まるで、薄々、信繁の言葉の先を察しているようだった。
「それは……」
信繁は、震えてカチカチと音を立てる歯をグッと噛み締めると、兄に向け、遂にその事を告げる。
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