111 / 263
第二部一章 進撃
遠山と織田
しおりを挟む
信繁が率いる武田軍は、飯田城を出た後、街道に沿って南下した。
駒場から浪合 (現在の長野県下伊那郡阿智村)を経て国境を越えて美濃の恵那郡に入った武田軍は、飯田を出て三日後に岩村城 (現在の岐阜県恵那郡岩村町)まで至る。
現在の東濃一帯を治めるのは、源平の合戦で源氏方として活躍した加藤左衛門少尉景廉が、美濃国恵那郡遠山荘 (現在の岐阜県恵那市周辺)を褒美として授かった事から始まる遠山氏である。
遠山氏は、鎌倉時代以降にいくつかの氏族に分かれ、長く東美濃を治めており、過去には室町幕府の将軍奉公衆を務める者を輩出するほどの、美濃においては斯波氏に並ぶ名族だった。
だが、天文年間以降、中美濃に勃興した斎藤氏・信濃に勢力を伸ばしてきた甲斐武田氏・三河を掌中に収めた駿河今川氏――そして、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取って以降、みるみる勢力を伸ばしてきた尾張の織田氏らの圧力を受け、その統治は大きく揺らいでいた。
そういったいくつもの外圧に晒された遠山氏の各支族は、各々の地理的状況に応じた独自の対応を迫られる事になる。
美濃岩村城は、そんな遠山氏の一氏族である岩村遠山氏の当主・遠山景任の居城だった。
岩村遠山氏は、天文二十三年 (西暦1554年)に武田晴信に居城である岩村城を攻められた時に降伏し、武田家に半従属していたが、その後の情勢の変化によって、一時は斎藤氏に従ったりもしていた。
更に、近年においては尾張の織田家とも誼を通じており、当主の遠山景任は、数年前に織田信長の叔母であるおつやの方を嫁に迎えるなど、積極的な関係構築を行っていた。
それもあって、永禄年間に入ってからの岩村遠山氏は、武田と織田の両方に属す、いわゆる両属関係を築いていたのだ。
現代の感覚では、同時に別々の主に仕える事を善しとせず、『尻軽』『二股膏薬』と軽んじる傾向がある。
だが、戦国時代当時、特に国境に位置する土地に住む国人衆や豪族といった勢力の中では、そういった立ち位置を取る者は珍しくなかった。
考えてみれば当然の話だ。
ちょっとした選択の誤りで、どんな名家であっても容易く滅ぶ乱世である。生き残る為には、綺麗事など言っていられない。
ふたつ……もしくはそれ以上の勢力が激しく、そして複雑にせめぎ合う国境に生きるのなら尚更だ。
そして、美濃遠山氏は、そんな、武田と織田に両属している己の特殊な立ち位置を存分に活用しようとした。
具体的には、武田と織田の外交の仲立ちを務める事で、自身の存在感と両家への影響力を増そうとしたのである。
遠山氏は、主に織田家側の強い意向を受けて、武田との和平同盟の締結に奔走し、秘密裏に政略結婚の打診もしていた。
その政略結婚で、武田信玄の四男・諏訪四郎勝頼に嫁がせようとしていた信長の養女とは、遠山氏の一支族・苗木遠山氏に嫁いだ織田信長の妹・琴が生んだ娘だった。
もし、この婚姻が成立したならば、遠山氏は武田家と実質的な親族関係を結ぶ事となる。
そうなれば、武田家中はもちろんの事、政略結婚の具として娘を“供出”した織田家中でも、その立場と存在感を大きく増す事が出来る。それを狙って、遠山氏は武田と織田の同盟交渉に奔走しており、昨年の半ばまでは順調に事が運んでいた。
――だが、
去年――永禄七年の夏、そんな状況は一変する。
きっかけは、武田信玄の発病と、その見舞いで甲斐を訪れた武田無人斎道有――信玄の父・武田信虎の急死だった。
その一件以降、それまでは織田家と接近し、今川家と距離を置こうとしていた信玄が、ガラリと外交路線を変更した。
数年前から不穏な空気を孕み始めていた今川家との関係を修復しようとする一方で、それまでは蜜月に近いやり取りをしていた織田家に対しては冷たい態度を取るようになり、信長が送った使者も、信玄との謁見は叶わぬまま、半ば追い立てられるように帰された。
永禄八年に入ってからは、その傾向は一層強くなり、武田側は織田家に対して露骨な対立姿勢を取るようになった。
もちろん、織田家と武田家との婚姻の話も立ち消えとなってしまい、そのせいで遠山氏の織田家中での立場は微妙なものになってしまう。
そして、去る二月頃、岩村遠山氏の当主・遠山景任は、信長からとある打診をされた。
景任と彼の妻との間には、子どもがいなかった。それに目を付けた信長は、彼に自分の子を養子にしたらどうだと言ってきたのだ。
――無論、打診という体裁だが、実際は拒否のできない“命令”だった。
信長からの“打診”に、景任は大いに悩んだ。
さも遠山家の事を気遣っているような物言いだが、信長の狙いが『自分の子を使った岩村遠山家の乗っ取り』である事は明白である。もしも、信長の子を養子に迎える事に応じたら、今度は当主である自身の排除を狙った策が実行に移されるに違いない。
……とはいえ、臣従している以上、主筋である織田家の当主の“打診”を断る事は赦されない。
(ならば、どうするべきか――)
信長から来る返事の催促をのらりくらりと躱しながら、景任は数ヶ月悩み続け、そして遂に決断する。
――それまでの両属状態から脱却し、織田家と決別した上で、西進せんとしている武田家にのみ仕え、その庇護を受ける事を。
駒場から浪合 (現在の長野県下伊那郡阿智村)を経て国境を越えて美濃の恵那郡に入った武田軍は、飯田を出て三日後に岩村城 (現在の岐阜県恵那郡岩村町)まで至る。
現在の東濃一帯を治めるのは、源平の合戦で源氏方として活躍した加藤左衛門少尉景廉が、美濃国恵那郡遠山荘 (現在の岐阜県恵那市周辺)を褒美として授かった事から始まる遠山氏である。
遠山氏は、鎌倉時代以降にいくつかの氏族に分かれ、長く東美濃を治めており、過去には室町幕府の将軍奉公衆を務める者を輩出するほどの、美濃においては斯波氏に並ぶ名族だった。
だが、天文年間以降、中美濃に勃興した斎藤氏・信濃に勢力を伸ばしてきた甲斐武田氏・三河を掌中に収めた駿河今川氏――そして、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取って以降、みるみる勢力を伸ばしてきた尾張の織田氏らの圧力を受け、その統治は大きく揺らいでいた。
そういったいくつもの外圧に晒された遠山氏の各支族は、各々の地理的状況に応じた独自の対応を迫られる事になる。
美濃岩村城は、そんな遠山氏の一氏族である岩村遠山氏の当主・遠山景任の居城だった。
岩村遠山氏は、天文二十三年 (西暦1554年)に武田晴信に居城である岩村城を攻められた時に降伏し、武田家に半従属していたが、その後の情勢の変化によって、一時は斎藤氏に従ったりもしていた。
更に、近年においては尾張の織田家とも誼を通じており、当主の遠山景任は、数年前に織田信長の叔母であるおつやの方を嫁に迎えるなど、積極的な関係構築を行っていた。
それもあって、永禄年間に入ってからの岩村遠山氏は、武田と織田の両方に属す、いわゆる両属関係を築いていたのだ。
現代の感覚では、同時に別々の主に仕える事を善しとせず、『尻軽』『二股膏薬』と軽んじる傾向がある。
だが、戦国時代当時、特に国境に位置する土地に住む国人衆や豪族といった勢力の中では、そういった立ち位置を取る者は珍しくなかった。
考えてみれば当然の話だ。
ちょっとした選択の誤りで、どんな名家であっても容易く滅ぶ乱世である。生き残る為には、綺麗事など言っていられない。
ふたつ……もしくはそれ以上の勢力が激しく、そして複雑にせめぎ合う国境に生きるのなら尚更だ。
そして、美濃遠山氏は、そんな、武田と織田に両属している己の特殊な立ち位置を存分に活用しようとした。
具体的には、武田と織田の外交の仲立ちを務める事で、自身の存在感と両家への影響力を増そうとしたのである。
遠山氏は、主に織田家側の強い意向を受けて、武田との和平同盟の締結に奔走し、秘密裏に政略結婚の打診もしていた。
その政略結婚で、武田信玄の四男・諏訪四郎勝頼に嫁がせようとしていた信長の養女とは、遠山氏の一支族・苗木遠山氏に嫁いだ織田信長の妹・琴が生んだ娘だった。
もし、この婚姻が成立したならば、遠山氏は武田家と実質的な親族関係を結ぶ事となる。
そうなれば、武田家中はもちろんの事、政略結婚の具として娘を“供出”した織田家中でも、その立場と存在感を大きく増す事が出来る。それを狙って、遠山氏は武田と織田の同盟交渉に奔走しており、昨年の半ばまでは順調に事が運んでいた。
――だが、
去年――永禄七年の夏、そんな状況は一変する。
きっかけは、武田信玄の発病と、その見舞いで甲斐を訪れた武田無人斎道有――信玄の父・武田信虎の急死だった。
その一件以降、それまでは織田家と接近し、今川家と距離を置こうとしていた信玄が、ガラリと外交路線を変更した。
数年前から不穏な空気を孕み始めていた今川家との関係を修復しようとする一方で、それまでは蜜月に近いやり取りをしていた織田家に対しては冷たい態度を取るようになり、信長が送った使者も、信玄との謁見は叶わぬまま、半ば追い立てられるように帰された。
永禄八年に入ってからは、その傾向は一層強くなり、武田側は織田家に対して露骨な対立姿勢を取るようになった。
もちろん、織田家と武田家との婚姻の話も立ち消えとなってしまい、そのせいで遠山氏の織田家中での立場は微妙なものになってしまう。
そして、去る二月頃、岩村遠山氏の当主・遠山景任は、信長からとある打診をされた。
景任と彼の妻との間には、子どもがいなかった。それに目を付けた信長は、彼に自分の子を養子にしたらどうだと言ってきたのだ。
――無論、打診という体裁だが、実際は拒否のできない“命令”だった。
信長からの“打診”に、景任は大いに悩んだ。
さも遠山家の事を気遣っているような物言いだが、信長の狙いが『自分の子を使った岩村遠山家の乗っ取り』である事は明白である。もしも、信長の子を養子に迎える事に応じたら、今度は当主である自身の排除を狙った策が実行に移されるに違いない。
……とはいえ、臣従している以上、主筋である織田家の当主の“打診”を断る事は赦されない。
(ならば、どうするべきか――)
信長から来る返事の催促をのらりくらりと躱しながら、景任は数ヶ月悩み続け、そして遂に決断する。
――それまでの両属状態から脱却し、織田家と決別した上で、西進せんとしている武田家にのみ仕え、その庇護を受ける事を。
2
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる