甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

文字の大きさ
112 / 263
第二部一章 進撃

陣触れと飲酒

しおりを挟む
 信濃と美濃の国境を越え、岩村城に到った武田信繁率いる武田軍は、彼らよりも先に飯田を発ち、いち早く岩村城下に到着していた先発隊と合流した。

「おお! お待ち申しておりましたぞ、左馬助さまのすけ様! 四郎様!」

 着陣し、馬を下りた信繁と勝頼に明るい声をかけてきたのは、先発隊を率いていた武田家の譜代衆・秋山伯耆守虎繁だった。

「ああ。峠越えに少々手間取って遅れた。待たせて済まぬな」
「いえいえ、とんでもござらん! 無事の御到着、何よりに御座る!」

 信繁の詫び言に、鎧直垂姿の虎繁は、薄い顎髭を蓄え、日焼けした顔を綻ばせながら大げさにかぶりを振った。
 その豪快な笑顔につられるように微笑みながら、信繁は虎繁に訊ねる。

「お主の方こそ、道中大事無かったか?」
「はっ、もちろん! 御心配には及びませぬ」

 虎繁は、信繁の問いかけに大きく頷いた。
 その言葉に満足げに頷き返した信繁だったが、つと表情を引き締め、抑えた声で虎繁に問いかけた。

「……お主は、東濃の情勢をどう見る?」
「はっ」

 信繁の問いに、虎繁も浮かべていた笑みを消し、真剣な顔で答える。

「ここ岩村に関しては、御安心して頂いて宜しいかと」

 そう言うと、虎繁は背後を振り返り、小高い山の上に建っている岩村城に目を遣った。

「先ほど、本丸まで赴き、城主の遠山大和守 (景任)殿に会って参りましたが……話を聞く限り、尾張の織田と決別しようという決意は相当に固いように見え申した。遠山殿の『武田家中に加わりたい』という言葉は、信用に足るものかと……」
「……拙者も、秋山様と同じ見立てに御座います」

 虎繁の言葉に次いで声を上げたのは、信繁の後に続いて馬を下りた武藤昌幸だった。
 彼は、信繁の傍らに身を寄せると、小さく丸められた紙片を彼に差し出しながら言う。

「先ほど、城内に忍ばせた乱破からの報せです。これによると、城内に籠城の気配は見えぬ様子。秘かに織田方や斎藤方と通じて、我らと事を構えようとする可能性は無いかと」
「……うむ」

 紙片の文字に素早く目を走らせつつ、昌幸の言葉を聞いていた信繁は小さく頷いた。

「確かに、お主らの言う通りのようだ。遠山大和守は、我らの味方で間違いないだろう」
「……では」
「うむ」

 信繁は、虎繁の声に首肯し、昌幸に向けて告げる。

「昌幸、今日はここに陣を張ると、兵たちに触れを出せ。兵装は解いても構わぬが、得物は常に傍らに置き、万が一に備えるように――ともな」
「はっ、早速!」

 信繁の命を受け、与力の昌幸は元気よく応えた。
 と、それを聞いた虎繁が、すかさず信繁に問いかける。

「左馬助様! ところで、酒はいかがいたしましょう? 峠を越えてきた兵たちは、さぞ喉が渇いておる事かと思いまするが……」
「……ははは。さも兵の為と言いたげだが、一番酒を欲しておるのはお主だろう、伯耆?」

 虎繁の言葉に、信繁は思わず苦笑した。
 それに対して、虎繁もニヤリと笑いながら、「お見通しですか」と悪びれる様子も無く答える。
 勿論、これは信繁と年が近く、気心も知れている虎繁ならではの気安い軽口だったのだが――そんな彼の態度を見て生真面目に眉を顰めたのは、勝頼だった。
 彼は、その秀麗な顔に険しい表情を浮かべ、虎繁に言った。

「……秋山。先ほど、典厩様も仰っていただろう? 『万が一に備えるように』と。それにもかかわらず、兵に酒を与えようとするのはいかがなものか?」
「……お言葉ですが、四郎様」

 勝頼の苦言を受けた虎繁は、ほんの軽口に対して揚げ足を取るような真似をされた事に、あからさまに憮然としながらも、努めて静かな口調で言い返す。

「確かに、我らは戦の為にこの地に赴いておりまする。しかしながら、二六時中気を張ったままでは、兵たちの士気は下がる一方の上、下手をすると不満を募らせかねませぬ。……幸い、岩村ここは敵地では御座らぬ。勿論、左馬助様や四郎様の仰る通り、過度な油断は禁物ではありますが、兵たちの士気を保つ為にも、飲酒くらいは赦すべきかと存じます」
「しかし――」
「――ふたりとも、もう良い」

 見かねた信繁が、ふたりの間に割って入った。
 そして、勝頼の顔を見据えながら、静かな声で諭す。

「四郎、伯耆の申す事は概ね正しい。兵も人間だ。ずっと張り詰めたままでは、いたずらに気力を費やしてしまい、いざ戦場いくさばに臨んだ時に十全の力を発揮できなくなるものなのだ。だから、兵に適度な息抜きを与える事は必要なのだと心得よ」
「はっ……」

 信繁の言葉に、勝頼はハッとした表情を浮かべて、虎繁に向けて頭を下げた。

「秋山……若輩者の私が、戦巧者のお主に生意気な口を叩いた。すまぬ」
「あ……い、いえ! 滅相も御座いませぬ!」

 主君の子息に頭を下げられた虎繁は、大いに恐縮しながら、慌てて首を左右に振る。

「そ、それがしこそ、つい頭に血が上ってしまい、四郎様に対して口応えするなどと、大変な無礼を働き申した……。こちらこそ、大変申し訳ございませぬ!」
「……よし」

 信繁は、ふたりの顔を順々に見ながら、ゆっくりと頷くと、再び昌幸に命じた。

「昌幸、兵たちに酒を振る舞う為の酒を出すよう、小荷駄に伝えよ」
「はっ!」
「兵たちにも、今宵は飲酒を赦すと触れを出せ。ただし――」
「畏まって御座います。併せて、『飲み過ぎ厳禁』と付け加えます」

 主の言葉を先読みした昌幸は、してやったりと微笑む。
 そんな利発な昌幸に苦笑いした信繁は、「さて……」と独り言つと、坂道の向こうに聳える岩村城の大手門に目を向けた。

「では、これから儂は、城主の遠山殿に挨拶してくる。伯耆、一緒に来てくれるか?」
「ハッ! もちろんに御座る!」

 名を呼ばれた虎繁は、表情を輝かせ、ピンと背筋を正して応える。
 と、勝頼も慌てて声を上げた。

「典厩様! 私も同道いたします!」
「……いや」

 だが、信繁は勝頼に向けて軽くかぶりを振る。

「お主には、儂が城内に行っている間の留守を頼みたい」
「で、ですが……私は、典厩様をたすける副将です! ですから、留守は馬場らに任せて、私も共に――」
「副将だからこそ、儂はお主に留守を頼むのだ、四郎」

 なおも同道を願い出る勝頼に対し、信繁は落ち着いた声で諭すように言った。

「――これも、万が一の為の備えというものだ」
「万が一の……備え?」
「ああ」

 信繁は、訝しげに訊き返す勝頼の肩に手を置き、言葉を続ける。

「……もし、城内で変事が起こったら、お主が儂に代わって全軍の指揮を執るのだ。――それこそが、“副将”の真の役割というものだぞ」
「……!」

 勝頼は、信繁の言葉に目を大きく見開き、それからキッと唇を真一文字に引き締めてから、「畏まりました」と、大きく頷いたのだった。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

日本が危機に?第二次日露戦争

歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。 なろう、カクヨムでも連載しています。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

電子の帝国

Flight_kj
歴史・時代
少しだけ電子技術が早く技術が進歩した帝国はどのように戦うか 明治期の工業化が少し早く進展したおかげで、日本の電子技術や精密機械工業は順調に進歩した。世界規模の戦争に巻き込まれた日本は、そんな技術をもとにしてどんな戦いを繰り広げるのか? わずかに早くレーダーやコンピューターなどの電子機器が登場することにより、戦場の様相は大きく変わってゆく。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

東亜の炎上 1940太平洋戦線

みにみ
歴史・時代
1940年ドイツが快進撃を進める中 日本はドイツと協働し連合国軍に宣戦布告 もしも日本が連合国が最も弱い1940年に参戦していたらのIF架空戦記

処理中です...