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第二部一章 進撃
陣触れと飲酒
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信濃と美濃の国境を越え、岩村城に到った武田信繁率いる武田軍は、彼らよりも先に飯田を発ち、いち早く岩村城下に到着していた先発隊と合流した。
「おお! お待ち申しておりましたぞ、左馬助様! 四郎様!」
着陣し、馬を下りた信繁と勝頼に明るい声をかけてきたのは、先発隊を率いていた武田家の譜代衆・秋山伯耆守虎繁だった。
「ああ。峠越えに少々手間取って遅れた。待たせて済まぬな」
「いえいえ、とんでもござらん! 無事の御到着、何よりに御座る!」
信繁の詫び言に、鎧直垂姿の虎繁は、薄い顎髭を蓄え、日焼けした顔を綻ばせながら大げさに頭を振った。
その豪快な笑顔につられるように微笑みながら、信繁は虎繁に訊ねる。
「お主の方こそ、道中大事無かったか?」
「はっ、もちろん! 御心配には及びませぬ」
虎繁は、信繁の問いかけに大きく頷いた。
その言葉に満足げに頷き返した信繁だったが、つと表情を引き締め、抑えた声で虎繁に問いかけた。
「……お主は、東濃の情勢をどう見る?」
「はっ」
信繁の問いに、虎繁も浮かべていた笑みを消し、真剣な顔で答える。
「ここ岩村に関しては、御安心して頂いて宜しいかと」
そう言うと、虎繁は背後を振り返り、小高い山の上に建っている岩村城に目を遣った。
「先ほど、本丸まで赴き、城主の遠山大和守 (景任)殿に会って参りましたが……話を聞く限り、尾張の織田と決別しようという決意は相当に固いように見え申した。遠山殿の『武田家中に加わりたい』という言葉は、信用に足るものかと……」
「……拙者も、秋山様と同じ見立てに御座います」
虎繁の言葉に次いで声を上げたのは、信繁の後に続いて馬を下りた武藤昌幸だった。
彼は、信繁の傍らに身を寄せると、小さく丸められた紙片を彼に差し出しながら言う。
「先ほど、城内に忍ばせた草からの報せです。これによると、城内に籠城の気配は見えぬ様子。秘かに織田方や斎藤方と通じて、我らと事を構えようとする可能性は無いかと」
「……うむ」
紙片の文字に素早く目を走らせつつ、昌幸の言葉を聞いていた信繁は小さく頷いた。
「確かに、お主らの言う通りのようだ。遠山大和守は、我らの味方で間違いないだろう」
「……では」
「うむ」
信繁は、虎繁の声に首肯し、昌幸に向けて告げる。
「昌幸、今日はここに陣を張ると、兵たちに触れを出せ。兵装は解いても構わぬが、得物は常に傍らに置き、万が一に備えるように――ともな」
「はっ、早速!」
信繁の命を受け、与力の昌幸は元気よく応えた。
と、それを聞いた虎繁が、すかさず信繁に問いかける。
「左馬助様! ところで、酒はいかがいたしましょう? 峠を越えてきた兵たちは、さぞ喉が渇いておる事かと思いまするが……」
「……ははは。さも兵の為と言いたげだが、一番酒を欲しておるのはお主だろう、伯耆?」
虎繁の言葉に、信繁は思わず苦笑した。
それに対して、虎繁もニヤリと笑いながら、「お見通しですか」と悪びれる様子も無く答える。
勿論、これは信繁と年が近く、気心も知れている虎繁ならではの気安い軽口だったのだが――そんな彼の態度を見て生真面目に眉を顰めたのは、勝頼だった。
彼は、その秀麗な顔に険しい表情を浮かべ、虎繁に言った。
「……秋山。先ほど、典厩様も仰っていただろう? 『万が一に備えるように』と。それにもかかわらず、兵に酒を与えようとするのはいかがなものか?」
「……お言葉ですが、四郎様」
勝頼の苦言を受けた虎繁は、ほんの軽口に対して揚げ足を取るような真似をされた事に、あからさまに憮然としながらも、努めて静かな口調で言い返す。
「確かに、我らは戦の為にこの地に赴いておりまする。しかしながら、二六時中気を張ったままでは、兵たちの士気は下がる一方の上、下手をすると不満を募らせかねませぬ。……幸い、岩村は敵地では御座らぬ。勿論、左馬助様や四郎様の仰る通り、過度な油断は禁物ではありますが、兵たちの士気を保つ為にも、飲酒くらいは赦すべきかと存じます」
「しかし――」
「――ふたりとも、もう良い」
見かねた信繁が、ふたりの間に割って入った。
そして、勝頼の顔を見据えながら、静かな声で諭す。
「四郎、伯耆の申す事は概ね正しい。兵も人間だ。ずっと張り詰めたままでは、徒に気力を費やしてしまい、いざ戦場に臨んだ時に十全の力を発揮できなくなるものなのだ。だから、兵に適度な息抜きを与える事は必要なのだと心得よ」
「はっ……」
信繁の言葉に、勝頼はハッとした表情を浮かべて、虎繁に向けて頭を下げた。
「秋山……若輩者の私が、戦巧者のお主に生意気な口を叩いた。すまぬ」
「あ……い、いえ! 滅相も御座いませぬ!」
主君の子息に頭を下げられた虎繁は、大いに恐縮しながら、慌てて首を左右に振る。
「そ、某こそ、つい頭に血が上ってしまい、四郎様に対して口応えするなどと、大変な無礼を働き申した……。こちらこそ、大変申し訳ございませぬ!」
「……よし」
信繁は、ふたりの顔を順々に見ながら、ゆっくりと頷くと、再び昌幸に命じた。
「昌幸、兵たちに酒を振る舞う為の酒を出すよう、小荷駄に伝えよ」
「はっ!」
「兵たちにも、今宵は飲酒を赦すと触れを出せ。ただし――」
「畏まって御座います。併せて、『飲み過ぎ厳禁』と付け加えます」
主の言葉を先読みした昌幸は、してやったりと微笑む。
そんな利発な昌幸に苦笑いした信繁は、「さて……」と独り言つと、坂道の向こうに聳える岩村城の大手門に目を向けた。
「では、これから儂は、城主の遠山殿に挨拶してくる。伯耆、一緒に来てくれるか?」
「ハッ! もちろんに御座る!」
名を呼ばれた虎繁は、表情を輝かせ、ピンと背筋を正して応える。
と、勝頼も慌てて声を上げた。
「典厩様! 私も同道いたします!」
「……いや」
だが、信繁は勝頼に向けて軽く頭を振る。
「お主には、儂が城内に行っている間の留守を頼みたい」
「で、ですが……私は、典厩様を輔ける副将です! ですから、留守は馬場らに任せて、私も共に――」
「副将だからこそ、儂はお主に留守を頼むのだ、四郎」
なおも同道を願い出る勝頼に対し、信繁は落ち着いた声で諭すように言った。
「――これも、万が一の為の備えというものだ」
「万が一の……備え?」
「ああ」
信繁は、訝しげに訊き返す勝頼の肩に手を置き、言葉を続ける。
「……もし、城内で変事が起こったら、お主が儂に代わって全軍の指揮を執るのだ。――それこそが、“副将”の真の役割というものだぞ」
「……!」
勝頼は、信繁の言葉に目を大きく見開き、それからキッと唇を真一文字に引き締めてから、「畏まりました」と、大きく頷いたのだった。
「おお! お待ち申しておりましたぞ、左馬助様! 四郎様!」
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その豪快な笑顔につられるように微笑みながら、信繁は虎繁に訊ねる。
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虎繁は、信繁の問いかけに大きく頷いた。
その言葉に満足げに頷き返した信繁だったが、つと表情を引き締め、抑えた声で虎繁に問いかけた。
「……お主は、東濃の情勢をどう見る?」
「はっ」
信繁の問いに、虎繁も浮かべていた笑みを消し、真剣な顔で答える。
「ここ岩村に関しては、御安心して頂いて宜しいかと」
そう言うと、虎繁は背後を振り返り、小高い山の上に建っている岩村城に目を遣った。
「先ほど、本丸まで赴き、城主の遠山大和守 (景任)殿に会って参りましたが……話を聞く限り、尾張の織田と決別しようという決意は相当に固いように見え申した。遠山殿の『武田家中に加わりたい』という言葉は、信用に足るものかと……」
「……拙者も、秋山様と同じ見立てに御座います」
虎繁の言葉に次いで声を上げたのは、信繁の後に続いて馬を下りた武藤昌幸だった。
彼は、信繁の傍らに身を寄せると、小さく丸められた紙片を彼に差し出しながら言う。
「先ほど、城内に忍ばせた草からの報せです。これによると、城内に籠城の気配は見えぬ様子。秘かに織田方や斎藤方と通じて、我らと事を構えようとする可能性は無いかと」
「……うむ」
紙片の文字に素早く目を走らせつつ、昌幸の言葉を聞いていた信繁は小さく頷いた。
「確かに、お主らの言う通りのようだ。遠山大和守は、我らの味方で間違いないだろう」
「……では」
「うむ」
信繁は、虎繁の声に首肯し、昌幸に向けて告げる。
「昌幸、今日はここに陣を張ると、兵たちに触れを出せ。兵装は解いても構わぬが、得物は常に傍らに置き、万が一に備えるように――ともな」
「はっ、早速!」
信繁の命を受け、与力の昌幸は元気よく応えた。
と、それを聞いた虎繁が、すかさず信繁に問いかける。
「左馬助様! ところで、酒はいかがいたしましょう? 峠を越えてきた兵たちは、さぞ喉が渇いておる事かと思いまするが……」
「……ははは。さも兵の為と言いたげだが、一番酒を欲しておるのはお主だろう、伯耆?」
虎繁の言葉に、信繁は思わず苦笑した。
それに対して、虎繁もニヤリと笑いながら、「お見通しですか」と悪びれる様子も無く答える。
勿論、これは信繁と年が近く、気心も知れている虎繁ならではの気安い軽口だったのだが――そんな彼の態度を見て生真面目に眉を顰めたのは、勝頼だった。
彼は、その秀麗な顔に険しい表情を浮かべ、虎繁に言った。
「……秋山。先ほど、典厩様も仰っていただろう? 『万が一に備えるように』と。それにもかかわらず、兵に酒を与えようとするのはいかがなものか?」
「……お言葉ですが、四郎様」
勝頼の苦言を受けた虎繁は、ほんの軽口に対して揚げ足を取るような真似をされた事に、あからさまに憮然としながらも、努めて静かな口調で言い返す。
「確かに、我らは戦の為にこの地に赴いておりまする。しかしながら、二六時中気を張ったままでは、兵たちの士気は下がる一方の上、下手をすると不満を募らせかねませぬ。……幸い、岩村は敵地では御座らぬ。勿論、左馬助様や四郎様の仰る通り、過度な油断は禁物ではありますが、兵たちの士気を保つ為にも、飲酒くらいは赦すべきかと存じます」
「しかし――」
「――ふたりとも、もう良い」
見かねた信繁が、ふたりの間に割って入った。
そして、勝頼の顔を見据えながら、静かな声で諭す。
「四郎、伯耆の申す事は概ね正しい。兵も人間だ。ずっと張り詰めたままでは、徒に気力を費やしてしまい、いざ戦場に臨んだ時に十全の力を発揮できなくなるものなのだ。だから、兵に適度な息抜きを与える事は必要なのだと心得よ」
「はっ……」
信繁の言葉に、勝頼はハッとした表情を浮かべて、虎繁に向けて頭を下げた。
「秋山……若輩者の私が、戦巧者のお主に生意気な口を叩いた。すまぬ」
「あ……い、いえ! 滅相も御座いませぬ!」
主君の子息に頭を下げられた虎繁は、大いに恐縮しながら、慌てて首を左右に振る。
「そ、某こそ、つい頭に血が上ってしまい、四郎様に対して口応えするなどと、大変な無礼を働き申した……。こちらこそ、大変申し訳ございませぬ!」
「……よし」
信繁は、ふたりの顔を順々に見ながら、ゆっくりと頷くと、再び昌幸に命じた。
「昌幸、兵たちに酒を振る舞う為の酒を出すよう、小荷駄に伝えよ」
「はっ!」
「兵たちにも、今宵は飲酒を赦すと触れを出せ。ただし――」
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「では、これから儂は、城主の遠山殿に挨拶してくる。伯耆、一緒に来てくれるか?」
「ハッ! もちろんに御座る!」
名を呼ばれた虎繁は、表情を輝かせ、ピンと背筋を正して応える。
と、勝頼も慌てて声を上げた。
「典厩様! 私も同道いたします!」
「……いや」
だが、信繁は勝頼に向けて軽く頭を振る。
「お主には、儂が城内に行っている間の留守を頼みたい」
「で、ですが……私は、典厩様を輔ける副将です! ですから、留守は馬場らに任せて、私も共に――」
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「――これも、万が一の為の備えというものだ」
「万が一の……備え?」
「ああ」
信繁は、訝しげに訊き返す勝頼の肩に手を置き、言葉を続ける。
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