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第二部一章 進撃
籠城と援軍
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「勘太郎殿」
琴は、感情を消したような冷たい声で夫の名を呼ぶと、表情を険しくする。
そして、彼の小袖姿に冷たい目を向けながら、責めるように言った。
「なぜ、貴方はまだそのような平時の格好でおられるのですか?」
「あ、そ、それは……」
琴からの咎めるような問いかけに、直廉は激しく狼狽える。
「ま、まだ……武田方がこの城に攻め寄せてきたとも限らぬし……。なのに、城の主であるワシが鎧を身に着けておったら、城兵どもに要らぬ不安と不審を与えてしまって、予期せぬ事態になるやもしれぬと思ってだな……」
「呆れました。この期に及んで、まだそのような事を考えておられるのですか、貴方は?」
直廉の答えを聞いた琴は、露骨に顔を顰め、木曽川の向こう岸に展開する武田軍の陣容を扇子の先で指した。
「陣列を整えた“敵”が目と鼻の先まで迫っておるというのに、随分と呑気な事でございますこと。このまま敵に門を破られ、本丸まで駆け上がられでもしたらどうするのです? 城主が戦支度も整えぬまま討ち取られたとあらば、貴方の……いえ、苗木遠山の名声は地に堕ちましょう」
「だ、だから、武田が敵になったと断じるのはまだ尚早だと言うておるであろうが……!」
直廉は、琴の言葉に思わず反駁する。
「武田家は、お前の実家の織田家と同じく、我が遠山家の主筋だ。さすがに、何も無しに我らに攻めかかるような真似は――」
「何も無くはないでしょう」
琴は、太刀の刃のような鋭い声で、直廉の言葉を遮った。
そして、びくりと身体を震わせる夫の顔を見据えながら、淡々と言葉を継ぐ。
「実際、我らは岩村遠山や他の支族と違い、今回の武田の動きに恭順の意を示しておりませぬ。それを武田が攻城の口実とする事は、充分に考えられます」
「そ、それは……」
思わず『我らが武田に恭順しなかったのは、お前が頑迷に反対し続けていたからではないか!』と口走りかけた直廉だったが、その機先を制して睨みつけてきた琴に気圧されて口を噤んだ。
そんな彼に、琴はふと表情を和らげて言った。
「……とはいえ、恐るるに及びませぬ。我らには充分な勝機がございます」
「しょ、勝機?」
「ええ」
訊き返した直廉に頷いた琴は、物見台の下にチラリと目を遣り、言葉を継ぐ。
「さすがに、武田方の全軍一万がこの地に押し寄せてきたのなら些か分が悪うございましたが、五千程度であれば、今の御味方の兵数でも充分に持ち堪えられましょう。当方には、この苗木の城というこの上ない地の利も御座いますし」
琴はそう言って、城の本丸とその土台となっている岩肌を扇子で指した。
「この城に籠もれば、十日……いや、二十日は耐えられましょう。その間に、小牧山 (現在の愛知県小牧山市)や犬山 (現在の愛知県犬山市)から送られた兄上の援軍が参れば、逆に武田軍を壊滅させる事も難しくは御座いませぬ」
「……」
直廉は、琴の話を聞きながら、彼女に気取られぬよう、秘かに表情を曇らせる。そして、(……そう上手くはいくまい)と、心の中で独り言ちた。
(稲葉山の斎藤にも警戒せねばならぬ上、今川に攻め寄せられつつある三河松平への助勢も考えねばならぬこの状況で、織田家にこの地へ援軍を送る余裕などあるまい)
断片的だが、各地の情報は直廉の耳にも伝わってきている。
それらの情報から現在の勢力情勢を考えると、織田信長からの援軍など到底望めない事は明らかであった。
確かに、琴の言う通り、ここ苗木の城は要害である。物見からもたらされた“五千”という武田の兵数が真であれば、仮に籠城戦になったとしても、すぐに攻め落とされる事は無いだろう。
……だが、援軍が来ないのであれば、何日持ち堪えようと意味が無い。籠城戦とは、援軍が来るまで耐え抜く為の戦いであり、援軍が来ないのであれば、いずれ来る破滅への時間稼ぎにしかならないからだ。
――ならば、はじめから抵抗する事無く、武田方に恭順した方が良い。
直廉や家臣たちの多くはそう考え、一時は岩村遠山氏らと同様に武田に降るつもりだったのだが――いざ恭順しようという段になってから、織田信長の妹で、この城の実質的な支配者である琴の頑強な反対に遭い、そのまま結論を出せぬまま現在に至っている。
(……琴は、自分が上総介様の妹だから、織田家がどんな情勢だろうと必ず援軍を送ってくれるものと信じ切っておるのだ。……愚かな事よ)
「……何か?」
「あっ……! い、いや……」
思わず吐いた小さな溜息を琴に耳聡く聞き咎められた直廉は、慌てて首を左右に振った。
そして、疑わしげな目を向ける妻から、気まずげに目を逸らす。
「な……何でもない」
「……そうですか」
琴は、夫の態度に訝しげな様子で首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
その代わりに、扇子で物見台の階段を指し、直廉を促す。
「――それでは、貴方は今すぐ戦支度を整えて下さいませ。そして、門の守りを固め、陣鐘と法螺貝を鳴らすのです」
「こ、琴! しかし、それは――」
直廉は、武田と戦おうという琴の考えを何とか改めさせねばと、声を張り上げた。
――と、その時、
「と、殿!」
ひとりの兵が、上ずった声で叫びながら物見台の階段を駆け上がってくる。
そして、直廉と一緒に琴が居る事に気付いてギョッとした表情を浮かべながらも、その場に膝をついて深々と頭を下げた。
「殿……そ、そして、奥方様……。三の丸から報せが……武田方から、使者が参ったとの事です!」
「……使者ですって?」
琴は、家臣の言葉にそう問い返すと、不興を露わにした。
「今更、何を告げに来ると……?」
「そ、それは恐らく……当方に、武田家への帰順を促す為かと……」
「帰順? くだらない」
家臣の答えに、琴は嫌悪感を露わにする。
「我ら苗木遠山の衆は、岩村共とは違います。帰順など、するはずもありません!」
「……」
激昂する彼女の横で、直廉が何か言いたげに口を開きかけたが、妻の顔をチラリと盗み見ると、結局何も言わずに押し黙った。
そんな彼にも気付かぬ様子で、琴は家臣に言う。
「そのような使者に会う必要などありません。門前で追い返しなさい!」
と、そこで彼女は口元に凄惨な笑みを浮かべた。
「……いえ、ここは、我らの士気の高さを示す為に、使者の耳を削いでやるのも良いやもしれ――」
「い、いえ! 奥様、それはなりませぬ!」
琴の酷薄な指示に、家臣は慌てて頭を振る。
そして、彼が上ずった声で告げた武田の使者の名に、直廉はもちろん、琴ですら驚愕の表情を浮かべるのだった。
「み、耳を削ぐなど以ての外! な、なぜなら……参られた使者は、武田家の秋山伯耆守様と、遠山大和守様の奥方様――つや様にございますゆえ!」
琴は、感情を消したような冷たい声で夫の名を呼ぶと、表情を険しくする。
そして、彼の小袖姿に冷たい目を向けながら、責めるように言った。
「なぜ、貴方はまだそのような平時の格好でおられるのですか?」
「あ、そ、それは……」
琴からの咎めるような問いかけに、直廉は激しく狼狽える。
「ま、まだ……武田方がこの城に攻め寄せてきたとも限らぬし……。なのに、城の主であるワシが鎧を身に着けておったら、城兵どもに要らぬ不安と不審を与えてしまって、予期せぬ事態になるやもしれぬと思ってだな……」
「呆れました。この期に及んで、まだそのような事を考えておられるのですか、貴方は?」
直廉の答えを聞いた琴は、露骨に顔を顰め、木曽川の向こう岸に展開する武田軍の陣容を扇子の先で指した。
「陣列を整えた“敵”が目と鼻の先まで迫っておるというのに、随分と呑気な事でございますこと。このまま敵に門を破られ、本丸まで駆け上がられでもしたらどうするのです? 城主が戦支度も整えぬまま討ち取られたとあらば、貴方の……いえ、苗木遠山の名声は地に堕ちましょう」
「だ、だから、武田が敵になったと断じるのはまだ尚早だと言うておるであろうが……!」
直廉は、琴の言葉に思わず反駁する。
「武田家は、お前の実家の織田家と同じく、我が遠山家の主筋だ。さすがに、何も無しに我らに攻めかかるような真似は――」
「何も無くはないでしょう」
琴は、太刀の刃のような鋭い声で、直廉の言葉を遮った。
そして、びくりと身体を震わせる夫の顔を見据えながら、淡々と言葉を継ぐ。
「実際、我らは岩村遠山や他の支族と違い、今回の武田の動きに恭順の意を示しておりませぬ。それを武田が攻城の口実とする事は、充分に考えられます」
「そ、それは……」
思わず『我らが武田に恭順しなかったのは、お前が頑迷に反対し続けていたからではないか!』と口走りかけた直廉だったが、その機先を制して睨みつけてきた琴に気圧されて口を噤んだ。
そんな彼に、琴はふと表情を和らげて言った。
「……とはいえ、恐るるに及びませぬ。我らには充分な勝機がございます」
「しょ、勝機?」
「ええ」
訊き返した直廉に頷いた琴は、物見台の下にチラリと目を遣り、言葉を継ぐ。
「さすがに、武田方の全軍一万がこの地に押し寄せてきたのなら些か分が悪うございましたが、五千程度であれば、今の御味方の兵数でも充分に持ち堪えられましょう。当方には、この苗木の城というこの上ない地の利も御座いますし」
琴はそう言って、城の本丸とその土台となっている岩肌を扇子で指した。
「この城に籠もれば、十日……いや、二十日は耐えられましょう。その間に、小牧山 (現在の愛知県小牧山市)や犬山 (現在の愛知県犬山市)から送られた兄上の援軍が参れば、逆に武田軍を壊滅させる事も難しくは御座いませぬ」
「……」
直廉は、琴の話を聞きながら、彼女に気取られぬよう、秘かに表情を曇らせる。そして、(……そう上手くはいくまい)と、心の中で独り言ちた。
(稲葉山の斎藤にも警戒せねばならぬ上、今川に攻め寄せられつつある三河松平への助勢も考えねばならぬこの状況で、織田家にこの地へ援軍を送る余裕などあるまい)
断片的だが、各地の情報は直廉の耳にも伝わってきている。
それらの情報から現在の勢力情勢を考えると、織田信長からの援軍など到底望めない事は明らかであった。
確かに、琴の言う通り、ここ苗木の城は要害である。物見からもたらされた“五千”という武田の兵数が真であれば、仮に籠城戦になったとしても、すぐに攻め落とされる事は無いだろう。
……だが、援軍が来ないのであれば、何日持ち堪えようと意味が無い。籠城戦とは、援軍が来るまで耐え抜く為の戦いであり、援軍が来ないのであれば、いずれ来る破滅への時間稼ぎにしかならないからだ。
――ならば、はじめから抵抗する事無く、武田方に恭順した方が良い。
直廉や家臣たちの多くはそう考え、一時は岩村遠山氏らと同様に武田に降るつもりだったのだが――いざ恭順しようという段になってから、織田信長の妹で、この城の実質的な支配者である琴の頑強な反対に遭い、そのまま結論を出せぬまま現在に至っている。
(……琴は、自分が上総介様の妹だから、織田家がどんな情勢だろうと必ず援軍を送ってくれるものと信じ切っておるのだ。……愚かな事よ)
「……何か?」
「あっ……! い、いや……」
思わず吐いた小さな溜息を琴に耳聡く聞き咎められた直廉は、慌てて首を左右に振った。
そして、疑わしげな目を向ける妻から、気まずげに目を逸らす。
「な……何でもない」
「……そうですか」
琴は、夫の態度に訝しげな様子で首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
その代わりに、扇子で物見台の階段を指し、直廉を促す。
「――それでは、貴方は今すぐ戦支度を整えて下さいませ。そして、門の守りを固め、陣鐘と法螺貝を鳴らすのです」
「こ、琴! しかし、それは――」
直廉は、武田と戦おうという琴の考えを何とか改めさせねばと、声を張り上げた。
――と、その時、
「と、殿!」
ひとりの兵が、上ずった声で叫びながら物見台の階段を駆け上がってくる。
そして、直廉と一緒に琴が居る事に気付いてギョッとした表情を浮かべながらも、その場に膝をついて深々と頭を下げた。
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「今更、何を告げに来ると……?」
「そ、それは恐らく……当方に、武田家への帰順を促す為かと……」
「帰順? くだらない」
家臣の答えに、琴は嫌悪感を露わにする。
「我ら苗木遠山の衆は、岩村共とは違います。帰順など、するはずもありません!」
「……」
激昂する彼女の横で、直廉が何か言いたげに口を開きかけたが、妻の顔をチラリと盗み見ると、結局何も言わずに押し黙った。
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「そのような使者に会う必要などありません。門前で追い返しなさい!」
と、そこで彼女は口元に凄惨な笑みを浮かべた。
「……いえ、ここは、我らの士気の高さを示す為に、使者の耳を削いでやるのも良いやもしれ――」
「い、いえ! 奥様、それはなりませぬ!」
琴の酷薄な指示に、家臣は慌てて頭を振る。
そして、彼が上ずった声で告げた武田の使者の名に、直廉はもちろん、琴ですら驚愕の表情を浮かべるのだった。
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