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第二部二章 駆引
出陣と病
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それから程なくして、苗木城の南岸に展開していた武田軍は、苗木城主遠山直廉の臣従の意志を確認した後、速やかに展開していた陣を畳み、未の刻 (午後二時)過ぎ頃から木曾街道を西に進み始めた。
街道と呼ばれているとはいえ、当時の木曾街道は獣道に毛が生えた程度の整備しかされていない。
その隘路を、既に日が中天を過ぎた未の刻過ぎから五千の兵で進むのは些か性急であったが、統制の取れた武田軍の将兵の中で、その下知に異論を唱える者はいなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「なんと……! もう進軍し始めたというのか?」
一方、その武田軍の急な出立の報に驚いたのは、苗木城主・遠山勘太郎直廉であった。
彼は、己の居室で慌ただしく軍装を調えながら、訝しげに首を傾げる。
「何を斯様にお急ぎになるのか……? 今からでは、十中八九街道の途中で野営する事になるであろうに……」
「左様で御座いますな……」
主が上げた疑問の声に、報せを齎した初老の家臣も頷いた。
「もう季節は秋ですからな。昼の長さは日に日に短くなっておりますゆえ、酉の刻 (午後六時)前には、森深い木曾街道沿いは夜闇に覆われます。野営の準備の事を考えれば、行軍できる時間は一刻 (二時間)強ほどしか取れぬかと」
「うむ……」
直廉は、家臣の言葉に戸惑いつつも首肯する。
「何事かあったのだろうか?」
「まあ、武田様は甲斐から遥々お越しになられた御方故、単にこの辺りの地理に疎いだけかもしれませぬが……」
家臣は、直廉の問いかけに苦笑を交えながら答えた。
その、武田軍への仄かな皮肉を含んだ答えに、少し不快げな様子で眉を顰めた直廉だったが、あえて聴こえなかったふりをして問いを重ねる。
「……我が軍は、あとどのくらいで出陣できそうか?」
「はっ」
家臣は、直廉の問いかけに、僅かに頭を下げてから答えた。
「武田軍と事を構える事も考慮して、かねてより兵どもに戦支度をさせていた事が幸いしました。殿の御支度さえ調えば、あと四半刻もかからずに城を出る事が出来るかと」
「そ、そうか……」
直廉は、家臣の言葉にバツ悪げな顔をしながら、小姓が差し出した籠手にそそくさと腕を通す。
「で、では、支度を急がねばな。一刻も早く城を出て、武田様の軍に合流せねば……」
「勘太郎殿」
焦りながら籠手の紐を結ぼうとした直廉の耳に、自分の名を呼ぶ女の声が届いた。
ハッとして顔を上げた直廉の目に映ったのは、開いた襖の間から自室に入ってきた妻の姿だった。
彼女が甲冑姿の兵を数名引き連れている事に気付いた直廉の胸中に、何とも言えぬ嫌な予感が過ぎる。
「……何用だ、琴? このように、今のワシは戦支度でとても忙しいのだが」
「……」
訝しみながら尋ねる直廉に、琴は無言のままで冷たい目を向けた。
そんな彼女に不気味なものを感じながら、直廉は彼女の後ろに控えた兵たちの顔を一瞥する。
そして、そこに並んでいるのが、琴が尾張から輿入れした際について来た、元織田家の臣ばかりである事に気付き、顔を青ざめさせた。
そんな彼の表情の変化を見た琴は、口の端を吊り上げ、冷たい微笑を湛えながら、再び口を開く。
「……勘太郎殿、病の調子はいかがですか?」
「……なに?」
直廉は、唐突な琴の問いかけに当惑しながら訊き返した。
「どういう意味だ? ワシは別に、どこも患ってはおら――」
「いいえ」
琴はふるふると頭を振りながら、直廉の言葉を途中で遮った。
そして、夫の胸元に白い指を突きつけながら、怜悧な響きを湛えた声で言う。
「勘太郎殿は、重い病を患っておられます。その精神に」
「な――!」
直廉は、琴の言葉に唖然とし、それから顔面を朱に染めて怒声を上げた。
「琴! お主、ワシ……己が夫の事を気触れだと申すかッ! 如何にお主でも、ワシに対して斯様に無礼な……」
だが、彼の激昂した声は、途中で窄むように消える。
琴の背後に控える兵たちが、一斉に刀の鯉口を切ったからだ。
「き、貴様ら……謀反を……?」
「人聞きの悪い事をおっしゃらないで下さいな」
目を大きく見開き、震える声で尋ねる直廉に、琴は袖で口元を隠しながら嗤う。
「ただ……勘太郎殿には、病人らしく臥せっていて頂きたいだけですわ。――我が苗木遠山の兵が、かの武田左馬助の首級を上げるまでの間に」
「な……?」
琴の言葉に愕然とした直廉は、目を飛び出さんばかりに見開きながら、琴の顔に指を突きつけた。
「た……たわけた事を申すな! た、武田様の首を獲るだと? そのような事が出来るはずが無いであろうが! 気触れておるのはワシではなく、お主の方だ、琴!」
「はて、『そのような事が出来るはずが無い』? どうして、そう思われるのですか?」
直廉の怒声に、琴はわざとらしく首を傾げてみせる。
「今から五年前――永禄三年 (西暦1560年)の桶狭間の戦では、我が兄上が率いる三千の織田軍が、十倍近い今川軍を打ち破り、総大将である今川治部大輔 (義元)の首を見事討ち取ったのです。それに比べれば、此度の当方と武田の兵力差は、たかだか二倍半ほど……。兄上の成された事に比べれば、遥かに容易い事かと」
「戦の事を何も知らぬ女子の分際で、賢しらに言うな!」
あまりにも楽観的な琴の物言いに絶望を感じながら、直廉は更に声を荒げた。
「桶狭間のような奇跡が、戦場で何度も起こると思うでない! 戦は、斯様に容易いものなどではないわ!」
彼は、そう吐き捨てるように叫ぶと、琴と彼女の後ろに控えた兵たちを鋭い目で睨みつける。
そして、大きく腕を横に振って、更に強い口調で言った。
「どけ! ワシはこれから出陣する。もちろん、武田様の首を獲りにではなく、武田様への助勢の為にな!」
そう高らかに叫んだ直廉は、もう一度琴の顔を一瞥すると、少し声の調子を抑えて言葉を継ぐ。
「……今の話は、聞かなかった事にする。分かったら、そこを退け」
「……」
直廉の言葉を聞いた琴は、憮然とした表情を浮かべながらも、おとなしく襖の脇へ身をずらした。
そんな彼女に倣うように、背後の兵たちも道を開ける。
それを見た直廉は、小さく息を吐くと、それまで彼の身を守るように立っていた初老の家臣と小姓に声をかけた。
「……行くぞ!」
「「は、はっ!」」
直廉の声に、ふたりも上ずった声で答える。
そして、琴と兵たちに油断の無い視線を向けながら、歩き始めた主の後に続いた。
直廉が琴の横を通り過ぎ、襖をくぐろうとした――その時、
「……ぐぅっ!」
「ぎゃあっ……!」
彼の背後でくぐもった悲鳴が聞こえた。
「ッ!」
それを聞いて咄嗟に振り返ろうとした直廉だったが――その首筋に、冷たい刃が当てられたのに気付き、ハッと動きを止める。
「……貴様らぁ!」
自分の首に突きつけられた刀の刃にこびりついた赤黒い鮮血と、断ち切られた首の断面から夥しい血を噴き出しながら頽れる家臣と小姓の亡骸を見た直廉は、怒りに満ちた叫びを上げた。
そんな夫を冷たい目で見据えた琴は、その顔に薄笑みを浮かべながら、殊更に優しい声で告げる。
「さあ……おとなしく病の床にお臥せ下さいませ、勘太郎殿。……さもなければ、貴方にも頓死して頂かねばならなくなりますわ」
街道と呼ばれているとはいえ、当時の木曾街道は獣道に毛が生えた程度の整備しかされていない。
その隘路を、既に日が中天を過ぎた未の刻過ぎから五千の兵で進むのは些か性急であったが、統制の取れた武田軍の将兵の中で、その下知に異論を唱える者はいなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
「なんと……! もう進軍し始めたというのか?」
一方、その武田軍の急な出立の報に驚いたのは、苗木城主・遠山勘太郎直廉であった。
彼は、己の居室で慌ただしく軍装を調えながら、訝しげに首を傾げる。
「何を斯様にお急ぎになるのか……? 今からでは、十中八九街道の途中で野営する事になるであろうに……」
「左様で御座いますな……」
主が上げた疑問の声に、報せを齎した初老の家臣も頷いた。
「もう季節は秋ですからな。昼の長さは日に日に短くなっておりますゆえ、酉の刻 (午後六時)前には、森深い木曾街道沿いは夜闇に覆われます。野営の準備の事を考えれば、行軍できる時間は一刻 (二時間)強ほどしか取れぬかと」
「うむ……」
直廉は、家臣の言葉に戸惑いつつも首肯する。
「何事かあったのだろうか?」
「まあ、武田様は甲斐から遥々お越しになられた御方故、単にこの辺りの地理に疎いだけかもしれませぬが……」
家臣は、直廉の問いかけに苦笑を交えながら答えた。
その、武田軍への仄かな皮肉を含んだ答えに、少し不快げな様子で眉を顰めた直廉だったが、あえて聴こえなかったふりをして問いを重ねる。
「……我が軍は、あとどのくらいで出陣できそうか?」
「はっ」
家臣は、直廉の問いかけに、僅かに頭を下げてから答えた。
「武田軍と事を構える事も考慮して、かねてより兵どもに戦支度をさせていた事が幸いしました。殿の御支度さえ調えば、あと四半刻もかからずに城を出る事が出来るかと」
「そ、そうか……」
直廉は、家臣の言葉にバツ悪げな顔をしながら、小姓が差し出した籠手にそそくさと腕を通す。
「で、では、支度を急がねばな。一刻も早く城を出て、武田様の軍に合流せねば……」
「勘太郎殿」
焦りながら籠手の紐を結ぼうとした直廉の耳に、自分の名を呼ぶ女の声が届いた。
ハッとして顔を上げた直廉の目に映ったのは、開いた襖の間から自室に入ってきた妻の姿だった。
彼女が甲冑姿の兵を数名引き連れている事に気付いた直廉の胸中に、何とも言えぬ嫌な予感が過ぎる。
「……何用だ、琴? このように、今のワシは戦支度でとても忙しいのだが」
「……」
訝しみながら尋ねる直廉に、琴は無言のままで冷たい目を向けた。
そんな彼女に不気味なものを感じながら、直廉は彼女の後ろに控えた兵たちの顔を一瞥する。
そして、そこに並んでいるのが、琴が尾張から輿入れした際について来た、元織田家の臣ばかりである事に気付き、顔を青ざめさせた。
そんな彼の表情の変化を見た琴は、口の端を吊り上げ、冷たい微笑を湛えながら、再び口を開く。
「……勘太郎殿、病の調子はいかがですか?」
「……なに?」
直廉は、唐突な琴の問いかけに当惑しながら訊き返した。
「どういう意味だ? ワシは別に、どこも患ってはおら――」
「いいえ」
琴はふるふると頭を振りながら、直廉の言葉を途中で遮った。
そして、夫の胸元に白い指を突きつけながら、怜悧な響きを湛えた声で言う。
「勘太郎殿は、重い病を患っておられます。その精神に」
「な――!」
直廉は、琴の言葉に唖然とし、それから顔面を朱に染めて怒声を上げた。
「琴! お主、ワシ……己が夫の事を気触れだと申すかッ! 如何にお主でも、ワシに対して斯様に無礼な……」
だが、彼の激昂した声は、途中で窄むように消える。
琴の背後に控える兵たちが、一斉に刀の鯉口を切ったからだ。
「き、貴様ら……謀反を……?」
「人聞きの悪い事をおっしゃらないで下さいな」
目を大きく見開き、震える声で尋ねる直廉に、琴は袖で口元を隠しながら嗤う。
「ただ……勘太郎殿には、病人らしく臥せっていて頂きたいだけですわ。――我が苗木遠山の兵が、かの武田左馬助の首級を上げるまでの間に」
「な……?」
琴の言葉に愕然とした直廉は、目を飛び出さんばかりに見開きながら、琴の顔に指を突きつけた。
「た……たわけた事を申すな! た、武田様の首を獲るだと? そのような事が出来るはずが無いであろうが! 気触れておるのはワシではなく、お主の方だ、琴!」
「はて、『そのような事が出来るはずが無い』? どうして、そう思われるのですか?」
直廉の怒声に、琴はわざとらしく首を傾げてみせる。
「今から五年前――永禄三年 (西暦1560年)の桶狭間の戦では、我が兄上が率いる三千の織田軍が、十倍近い今川軍を打ち破り、総大将である今川治部大輔 (義元)の首を見事討ち取ったのです。それに比べれば、此度の当方と武田の兵力差は、たかだか二倍半ほど……。兄上の成された事に比べれば、遥かに容易い事かと」
「戦の事を何も知らぬ女子の分際で、賢しらに言うな!」
あまりにも楽観的な琴の物言いに絶望を感じながら、直廉は更に声を荒げた。
「桶狭間のような奇跡が、戦場で何度も起こると思うでない! 戦は、斯様に容易いものなどではないわ!」
彼は、そう吐き捨てるように叫ぶと、琴と彼女の後ろに控えた兵たちを鋭い目で睨みつける。
そして、大きく腕を横に振って、更に強い口調で言った。
「どけ! ワシはこれから出陣する。もちろん、武田様の首を獲りにではなく、武田様への助勢の為にな!」
そう高らかに叫んだ直廉は、もう一度琴の顔を一瞥すると、少し声の調子を抑えて言葉を継ぐ。
「……今の話は、聞かなかった事にする。分かったら、そこを退け」
「……」
直廉の言葉を聞いた琴は、憮然とした表情を浮かべながらも、おとなしく襖の脇へ身をずらした。
そんな彼女に倣うように、背後の兵たちも道を開ける。
それを見た直廉は、小さく息を吐くと、それまで彼の身を守るように立っていた初老の家臣と小姓に声をかけた。
「……行くぞ!」
「「は、はっ!」」
直廉の声に、ふたりも上ずった声で答える。
そして、琴と兵たちに油断の無い視線を向けながら、歩き始めた主の後に続いた。
直廉が琴の横を通り過ぎ、襖をくぐろうとした――その時、
「……ぐぅっ!」
「ぎゃあっ……!」
彼の背後でくぐもった悲鳴が聞こえた。
「ッ!」
それを聞いて咄嗟に振り返ろうとした直廉だったが――その首筋に、冷たい刃が当てられたのに気付き、ハッと動きを止める。
「……貴様らぁ!」
自分の首に突きつけられた刀の刃にこびりついた赤黒い鮮血と、断ち切られた首の断面から夥しい血を噴き出しながら頽れる家臣と小姓の亡骸を見た直廉は、怒りに満ちた叫びを上げた。
そんな夫を冷たい目で見据えた琴は、その顔に薄笑みを浮かべながら、殊更に優しい声で告げる。
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