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第二部二章 駆引
報告と懸念
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「……左様か」
苗木城を眼前に臨む木曽川の南岸に陣を構えた武田軍。
その中央に設けられた本陣の帷幕の中で、先ほど苗木城より帰陣したばかりの秋山伯耆守虎繁から報告を聞いた武田典厩信繁は、小さく息を吐きながら顎を撫でた。
「では……苗木城の遠山勘太郎は、我が方につく事に決めたのだな」
「はっ、左様に御座りまする」
床几に腰かけた信繁の前で膝をついた虎繁は、晴れ晴れとした顔で首肯する。
「途中までは、どちらにつくか決めかねていたようですが、拙者とつや殿の説得と、持参した土産が効いたようで、最後にははっきりと当方への臣従の意志を見せてくれました」
そう言うと、彼は一通の書状を取り出し、信繁に差し出した。
「――こちらが、勘太郎殿よりお預かりした誓詞に御座る。お検め下され」
「……」
無言で虎繁の手から書状を受け取った信繁は、懸紙を外して中の本紙を取り出し、一気に開く。
そして、真っ白な紙に黒々と書き綴られた文を読み、末尾に捺された遠山直廉の署名と血判を確認し、小さく頷いた。
「……確かに、遠山勘太郎からの誓詞に間違いないな」
そう言うと、信繁は斜め前に控える自分の与力に声をかける。
「昌幸、お主も読んでみよ」
「拝見いたします」
そう言いながら恭しく一礼した武藤昌幸は、信繁の手から直廉の誓詞を受け取り、鋭い眼差しで書面に目を通した。
「……なるほど」
昌幸は読み終えた書状を丁寧に折り畳みながら、信繁に頷きかける。
「確かに、秋山殿の申された通りのようですね。遠山勘太郎殿は、我らに味方すると……」
「…………?」
虎繁は、昌幸の言葉に妙な引っかかりを感じて、訝しげに首を傾げた。
だが、信繁はそんな彼の表情の変化に気付かぬ様子で、穏やかな声をかける。
「伯耆、使者の役目、大儀であった」
「……はっ! あ、いえ、滅相も御座らぬ」
信繁からかけられた労りの言葉に恐縮しながら、虎繁は頭を振った。
「正直なところ、思ったよりもすんなりと事が進んで、拍子抜けいたしました。何せ、苗木城へ向かう前は、交渉はもっと拗れるであろうと覚悟しておったので……」
「それはやはり……遠山殿の奥方の?」
「……まあな」
虎繁は、昌幸の言葉に苦笑いを浮かべながら、小さく頷く。
「琴殿は、御気性もさる事ながら、立場的にも武田家とは決して相容れぬ存在だからな。実のところ、勘太郎殿はともかく、あの奥方殿を翻意させるのは並大抵の事ではないと、ずっと気鬱であったわ」
苗木城へ向かう時の事を思い出したのか、頬を引き攣らせた虎繁は、気苦労で凝った肩を揉みながら、「……だが」と言葉を継いだ。
「いざ相対してみたら、琴殿は意外にあっさりと態度を軟化させてな。……まあ、確かに嫌味と皮肉めいた言葉はいくつか浴びせられたが、覚悟していたよりは遥かに軽かった」
「それは……その程度で良かったというか何というか……」
辟易しながらも安堵している様子の虎繁に何と声をかければいいか分からず、困り顔になる昌幸。
そんな昌幸の反応が面白くて、思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、信繁は虎繁に尋ねた。
「奥方の抵抗が思ったよりも少なかったのは、やはり――」
「左様に御座る」
信繁の言わんとする事を察した虎繁は、先んじて大きく頷く。
「今回の交渉……何よりも大きかったのは、つや殿の存在でしょう」
そう答えた虎繁は、愉快そうに顔を綻ばせながら言葉を継いだ。
「さすがの琴殿も、自分の叔母でもあり義兄嫁でもあるつや殿に諭されては、なかなかに抗いがたい様子でした。もし、つや殿があの場に居らず、拙者ひとりだけでは、今お伝えしている交渉の成果は到底得られなかったでしょうな……」
「そうか……」
虎繁の言葉に、信繁は微笑を浮かべる。――と、訝しげに少し眉を顰め、虎繁に問いかけた。
「ところで……そのつや殿は、どちらに居られるのだ?」
「ああ……」
信繁の問いかけに、虎繁は思い出したように頷くと、背後に聳える岩山を指さしてみせる。
「つや殿は、まだ苗木城にいらっしゃられます」
「苗木城に……?」
虎繁の答えを聞いた信繁と昌幸は、チラリと顔を見合わせた。
ふたりが秘かに交わした目配せにも気付かず、虎繁は詳しい経緯を話し始める。
「本来なら、拙者と一緒に下城するところだったのですが、その直前で琴殿に呼び止められたのです。何でも、『久しぶりに会ったので、ふたりでゆるりと語らい合いたい』との事で……」
「そうか……」
虎繁の言葉を聞いた信繁は、何故か表情を曇らせた。
と、彼の傍らに身を寄せた昌幸が、そっと耳打ちする。
「……つや様に関しては、案ずるには及ばないかと思われます」
「む……しかし……」
昌幸の囁きを耳にして、小さく頷いた信繁だったが、不安を隠せぬ様子で訊き返した。
「だが……そう楽観する事も出来ぬのではないか? おそらく、苗木……いや、琴殿は――」
「……だからこそ、つや様の身は安全なのです」
「……なるほど、確かにな」
信繁は、昌幸の言葉で何事かを察した様子で、焦眉を開いた。
そんな彼にニヤリと微笑みかけた昌幸は、その油断のならない光を放つ目を細めながら、「それに――」と言葉を継ぐ。
「今のつや様には、これ以上無く気の利く侍女がついておりますから、万に一つの心配もござりますまい」
「そうだったな……」
どこか冗談めいた昌幸の言葉に、信繁も相好を崩した。
――と、
「あの……」
含み笑いを見せながら頷き合う信繁と昌幸を見ながら、ひとり蚊帳の外に置かれた格好の虎繁が、焦れながら声を上げる。
「左馬助様! そして喜兵衛! ふたりだけで納得し合うのは結構ですが、少しは拙者にもご説明下さらぬか! 何というか……ひとりだけ爪弾きにされているようで、寂しゅう御座るッ!」
苗木城を眼前に臨む木曽川の南岸に陣を構えた武田軍。
その中央に設けられた本陣の帷幕の中で、先ほど苗木城より帰陣したばかりの秋山伯耆守虎繁から報告を聞いた武田典厩信繁は、小さく息を吐きながら顎を撫でた。
「では……苗木城の遠山勘太郎は、我が方につく事に決めたのだな」
「はっ、左様に御座りまする」
床几に腰かけた信繁の前で膝をついた虎繁は、晴れ晴れとした顔で首肯する。
「途中までは、どちらにつくか決めかねていたようですが、拙者とつや殿の説得と、持参した土産が効いたようで、最後にははっきりと当方への臣従の意志を見せてくれました」
そう言うと、彼は一通の書状を取り出し、信繁に差し出した。
「――こちらが、勘太郎殿よりお預かりした誓詞に御座る。お検め下され」
「……」
無言で虎繁の手から書状を受け取った信繁は、懸紙を外して中の本紙を取り出し、一気に開く。
そして、真っ白な紙に黒々と書き綴られた文を読み、末尾に捺された遠山直廉の署名と血判を確認し、小さく頷いた。
「……確かに、遠山勘太郎からの誓詞に間違いないな」
そう言うと、信繁は斜め前に控える自分の与力に声をかける。
「昌幸、お主も読んでみよ」
「拝見いたします」
そう言いながら恭しく一礼した武藤昌幸は、信繁の手から直廉の誓詞を受け取り、鋭い眼差しで書面に目を通した。
「……なるほど」
昌幸は読み終えた書状を丁寧に折り畳みながら、信繁に頷きかける。
「確かに、秋山殿の申された通りのようですね。遠山勘太郎殿は、我らに味方すると……」
「…………?」
虎繁は、昌幸の言葉に妙な引っかかりを感じて、訝しげに首を傾げた。
だが、信繁はそんな彼の表情の変化に気付かぬ様子で、穏やかな声をかける。
「伯耆、使者の役目、大儀であった」
「……はっ! あ、いえ、滅相も御座らぬ」
信繁からかけられた労りの言葉に恐縮しながら、虎繁は頭を振った。
「正直なところ、思ったよりもすんなりと事が進んで、拍子抜けいたしました。何せ、苗木城へ向かう前は、交渉はもっと拗れるであろうと覚悟しておったので……」
「それはやはり……遠山殿の奥方の?」
「……まあな」
虎繁は、昌幸の言葉に苦笑いを浮かべながら、小さく頷く。
「琴殿は、御気性もさる事ながら、立場的にも武田家とは決して相容れぬ存在だからな。実のところ、勘太郎殿はともかく、あの奥方殿を翻意させるのは並大抵の事ではないと、ずっと気鬱であったわ」
苗木城へ向かう時の事を思い出したのか、頬を引き攣らせた虎繁は、気苦労で凝った肩を揉みながら、「……だが」と言葉を継いだ。
「いざ相対してみたら、琴殿は意外にあっさりと態度を軟化させてな。……まあ、確かに嫌味と皮肉めいた言葉はいくつか浴びせられたが、覚悟していたよりは遥かに軽かった」
「それは……その程度で良かったというか何というか……」
辟易しながらも安堵している様子の虎繁に何と声をかければいいか分からず、困り顔になる昌幸。
そんな昌幸の反応が面白くて、思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、信繁は虎繁に尋ねた。
「奥方の抵抗が思ったよりも少なかったのは、やはり――」
「左様に御座る」
信繁の言わんとする事を察した虎繁は、先んじて大きく頷く。
「今回の交渉……何よりも大きかったのは、つや殿の存在でしょう」
そう答えた虎繁は、愉快そうに顔を綻ばせながら言葉を継いだ。
「さすがの琴殿も、自分の叔母でもあり義兄嫁でもあるつや殿に諭されては、なかなかに抗いがたい様子でした。もし、つや殿があの場に居らず、拙者ひとりだけでは、今お伝えしている交渉の成果は到底得られなかったでしょうな……」
「そうか……」
虎繁の言葉に、信繁は微笑を浮かべる。――と、訝しげに少し眉を顰め、虎繁に問いかけた。
「ところで……そのつや殿は、どちらに居られるのだ?」
「ああ……」
信繁の問いかけに、虎繁は思い出したように頷くと、背後に聳える岩山を指さしてみせる。
「つや殿は、まだ苗木城にいらっしゃられます」
「苗木城に……?」
虎繁の答えを聞いた信繁と昌幸は、チラリと顔を見合わせた。
ふたりが秘かに交わした目配せにも気付かず、虎繁は詳しい経緯を話し始める。
「本来なら、拙者と一緒に下城するところだったのですが、その直前で琴殿に呼び止められたのです。何でも、『久しぶりに会ったので、ふたりでゆるりと語らい合いたい』との事で……」
「そうか……」
虎繁の言葉を聞いた信繁は、何故か表情を曇らせた。
と、彼の傍らに身を寄せた昌幸が、そっと耳打ちする。
「……つや様に関しては、案ずるには及ばないかと思われます」
「む……しかし……」
昌幸の囁きを耳にして、小さく頷いた信繁だったが、不安を隠せぬ様子で訊き返した。
「だが……そう楽観する事も出来ぬのではないか? おそらく、苗木……いや、琴殿は――」
「……だからこそ、つや様の身は安全なのです」
「……なるほど、確かにな」
信繁は、昌幸の言葉で何事かを察した様子で、焦眉を開いた。
そんな彼にニヤリと微笑みかけた昌幸は、その油断のならない光を放つ目を細めながら、「それに――」と言葉を継ぐ。
「今のつや様には、これ以上無く気の利く侍女がついておりますから、万に一つの心配もござりますまい」
「そうだったな……」
どこか冗談めいた昌幸の言葉に、信繁も相好を崩した。
――と、
「あの……」
含み笑いを見せながら頷き合う信繁と昌幸を見ながら、ひとり蚊帳の外に置かれた格好の虎繁が、焦れながら声を上げる。
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