甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部二章 駆引

策謀と戦況

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 「……予定通りだな」

 篝火が煌々と焚かれた本陣に据え置かれた床几に腰を掛け、周囲から上がる喊声と喚声を聞きながら、武田軍の総大将である武田信繁は呟いた。

「はっ」

 彼の声に、傍らに控えた秋山虎繁が答える。

「苗木の衆は、当方が放った種子島 (火縄銃)の一斉射で完全に浮足立った模様。その後に我が方の突撃を受けるや、たちまち陣形を崩したとの事に御座る」
「善し」

 虎繁の報告に小さく頷いた信繁は、総大将の証である軍配を握り直した。
 そして、陣卓子じんたくしの上に広げられた地図に目を落としながら、静かな声で命じる。

「ならば、ただちに鉄砲隊を後方へ退かせよ。これ以上、種子島の出番は無かろう。これからの戦の事も考えて、出来る限り玉薬たまぐすりを節約せねばならぬ」
「左様に御座りまするな。第一、この夜闇の中で盲撃めくらうちしたところで、満足な戦果は望めませぬし、それどころか、同士討ちになりかねませぬゆえ」
「そういう事だ」

 信繁は、虎繁の言葉に大きく頷いた。
 元より、先ほどの火縄銃の斉射は、敵兵の殺傷を目的としたものではなく、その大きな銃声で、攻めかからんとする敵の出鼻と戦意を挫く事こそが主な目的だった。
 その役目を果たした鉄砲隊は、速やかに最前線から安全な陣の内側まで退かせ、火薬と兵の無駄な消耗を避けるべき……それが、信繁と虎繁の一致した見解だった。
 信繁は、頻りに顎髭を指の腹で撫でながら、更に尋ねる。

「……別動隊の四郎は、首尾よく敵の背後に回れたのか?」
「はっ」

 虎繁は、信繁の問いかけに短く答えた。

「先ほど、四郎様からの使番が参りました。近くに住む杣人そまびと案内あないで、無事に敵の背後に回り込めたとの由。今頃、尻尾を巻いて逃げ散ろうとする敵に襲いかかっておられる事でしょう」
「そうか」

 信繁は、虎繁の言葉に満足げな声を上げる。
 彼の脳裏に、別動隊の指揮を執りたいと自ら申し出た時の甥の顔が思い浮かんだ。

「随分と気負っておったからな。張り切り過ぎて無茶をせねば良いのだが……」
「ははは……昨年の箕輪攻めの時のようにですか?」

 信繁の呟きに、虎繁は苦笑する。

「確かに、あの時の四郎様は無謀でしたな。敵将に一騎打ちを挑んで、危うく返り討ちにされかけましたから」

 虎繁は懐かしそうにしみじみと言うと、小さくかぶりを振った。

「まあ、ご心配には及びますまい。箕輪攻めは、四郎様にとっては初陣でしたからな。気負うのも致し方御座らぬ。――ですが、今はあの頃より様々な経験を積まれておられますから、その分、一隊の将としての冷静な判断力もついておられるかと」
「……そうだな」

 虎繁の言葉に、信繁も同意する。
 そんな彼にふっと微笑みかけた虎繁は、「では……」と言って、兜の緒を締めた。
 そして、背筋を伸ばして、信繁に向かって軽く会釈をする。

「……では、典厩様。そろそろ拙者も出ます」
「ああ」

 信繁は、虎繁の言葉に軽く頷いた。

「――先ほどの軍議でも申したが、戦意を喪い、得物を捨てた者をみだりに殺すなよ。恐らく、ほとんどの兵は、子細を知らぬまま、ただ上の命に従って戦場に出て来ただけの者たちだろうからな」

 そう言うと、彼は地図を一瞥する。

「苗木衆の戦力は、これからの斎藤攻めにも必要になる。このような小さな戦での、徒らな戦力の消耗は避けねばならぬ。我らはもちろん、苗木衆もな」
「畏まっております」
「……とはいえ、敵は寡勢とはいえど、『窮鼠猫を嚙む』とも言う。努々油断するなよ……と言っても、“武田の猛牛”には『釈迦に説法』かな?」
「いえ……ご忠告、痛み入り申す」

 虎繁は、微笑む信繁へ慇懃に頭を下げる。
 そんな彼の事を頼もしそうに見た信繁は、冗談めかした口調で言った。

「……ひと段落ついたら、今度こそ皆で酒を酌み交わそうぞ」
「はは……それはよう御座いますな」

 虎繁は、信繁の言葉に相好を崩し、そよいだ風の匂いを嗅いだ。
 風には、硝煙の匂いに混じって、仄かな熟柿の香りが混ざっている。
 その香りに湧いた生唾を飲み込みながら、虎繁は口惜しそうな表情を浮かべた。

「此度の策で、空の酒樽や酒甕を大量に用意せねばならなかった為とはいえ、地面に酒を捨てねばならなかったのはつろう御座った。その分、戦の後で存分に美味い酒を飲んでやらねば、捨てた酒に祟られてしまいまする」
「ははは、酒に祟られてしまうか」

 虎繁の言葉に、信繁は思わず噴き出した。

「面白い冗談を言うのう、お主は」
「……拙者は別に、冗談で言ったつもりでは無いのですが」

 と、愉快そうに笑う信繁に憮然とした顔を向けながらぼやいた虎繁だったが、すぐに表情を引き締めると、再び軽く一礼する。

「それはさておき……行って参りまする、典厩様」
「うむ……頼んだぞ」

 信繁も頷き返し、簡潔な激励の言葉をかけた。
 そして、陣幕をめくって去っていく虎繁の後ろ姿を見送ると、再び目の前に広げられた東美濃の地図に目を落とす。
 地図の数ヶ所には、黒と白の碁石がいくつか置かれていた。

「さて……こちらは至って順調」

 彼は、そう独り言ちながら、黒い碁石に囲まれた数個の白い碁石に目を遣り――それから、地図の右に目を移した。
 地図に書かれた『苗木』の文字の上に、数個の黒い碁石が置かれている。
 信繁は、苗木城の守備兵を示す黒い碁石を見据えながら、手元の碁笥ごけの中から一個の白い碁石を取り出すと、おもむろに黒い碁石の集まりから少し離れた所へ打った。

「そして……」

 碁石から指を離した信繁は、黒石と白石に交互に目を遣りながら、その口元にうっすらと笑みを浮かべる。

「お主の方はどうかな……昌幸よ」
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