甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部四章 衝突

柵と空堀

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 翌日――。

 前日に伊岐津志 (現在の岐阜県加茂市八百津町付近)で野営した武田軍は、日が昇ると共に動き始めた。
 空を厚く覆うどんよりとした灰色の雲の下、保科正俊率いる諏訪衆と伊那衆の混成隊を先頭にした縦長の陣形を組み、平坦な道を木曽川に沿って西へと進む。
 だが、半里 (約二キロ)ほど進んだところで唐突に進軍は止まり、直ちに先頭の保科隊から本陣へ使番が遣わされた。

「敵軍の姿が見えました! 木曽川と古城山の山裾との間を塞ぐように展開しております!」
「ふむ……」

 使番が伝えた正俊の注進に、馬上の信繁は小さく唸る。

「やはり、あの場に陣取るか。昨夜の軍議で我らが予測した通りだな、昌幸よ」
「はっ」

 信繁の声に、傍らの昌幸が小さく頷いた。

「あそこは、せり出した山裾と木曽川に挟まれ、城の虎口こぐちのように一段と狭まった地形になっておりますからな。敵を迎え撃つには絶好の場所でしょう」

 昌幸の言う通り、斎藤軍が陣取っているのは、八百津と兼山の境 (現在の加茂市と金山市の市境付近)――烏峰城がある古城山の北西の山裾と木曽川に挟まれた平地である。
 最も狭い場所では、山裾の端と木曽川岸との間が五十間 (約百メートル)足らずしか無く、正に昌幸の言う通り、虎口のような地形を成していた。
 斎藤軍は、その狭い平地を塞ぐように陣を展開し、到り来る武田軍を迎え撃つ態勢を整えているという。
 しかも――、

「――柵だと?」
「はっ!」

 左目を僅かに見開きながら訊き返した信繁に、使番は大きく頷き、言葉を継いだ。

「斎藤軍は、山裾と川岸の間を横断する形で掘り返し、出た土を手前に積み上げる事で急造の空堀と土塁を築き、更に土塁の上に杭を打ち込み、一重の柵を設けた模様に御座ります!」
「我らの馬での進行を少しでも妨げる為か」

 信繁は、使番の言葉に呟くと、昌幸の方に首を向けて尋ねる。

「……空堀と柵の事、昨夜放った小物見の報告にあったか?」
「いえ……」

 昌幸は、信繁の問いかけに小さくかぶりを振った。

「そのような報告は受けてはおりませぬ。かといって、小物見がそのような大掛かりな代物を見逃すはずは無いでしょうから、恐らく昨夜の未明から今朝にかけての間に急拵えしたものかと……」
「そうか……」

 僅かに眉を顰めながらの昌幸の答えに、信繁は顎髭を撫でながら小さく頷く。
 恐らく、昌幸の言葉の通りだろう。
 予め柵用に加工した丸太や鋤を持ち寄って、大勢の兵たちが一斉に取りかかれば、五十間ほどの幅を隔てる空堀と柵など、一刻とかからずに設置できよう。

「もちろん、あくまで急拵えのものでありましょうから、城や砦に設けられた空堀や柵に比べれば脆いでしょう。我らが一斉に攻めかかれば、ひとたまりも無いかと思われます」

 そう楽観的な予測を述べる昌幸だったが、すぐに表情を曇らせ、「ですが……」と続けた。

「……それは、斎藤軍も重々承知している事かと。――かの竹中半兵衛などは特に。なのに、そのような一時凌ぎに過ぎぬ小細工を敢えて弄するというのは……」
「真の狙いが別にあるという事だな」
「……恐らく」

 信繁の言葉に、昌幸は小さく頷く。

「あくまで、柵と空堀は、その半兵衛めの真の目論見から我らの注意を逸らす為の目くらましに過ぎぬかと。もっとも、その目論見が何なのかは……現時点では判然とはしませぬが」
「ふむ……」

 昌幸の意見を聞いた信繁は、顎髭を指で撫でながら、深く考え込んだ。
 ――その時、

「――典厩様! 喜兵衛!」

 と、唐突にふたりの話に割り入ってきたのは、黒毛の馬に乗った保科正俊だった。
 陣列の先頭の自隊から全速力で駆けてきたせいで、すっかり息を乱している乗騎の手綱を引いて落ち着かせながら、正俊は緊迫した声を上げる。

「申し訳御座らぬ、典厩様! 一度使番を遣わしましたが、追って直接お伝えたい事が出来たゆえ、急ぎ馳せ参じ申した!」
「如何した、甚四郎ッ?」

 先備さきぞなえを指揮しているはずの正俊が、わざわざ本陣まで馬を駆けさせてきた事を訝しみつつ、信繁は尋ねた。
 それに対して、正俊は馬上で軽く会釈をしてから答える。

「空堀と柵の件は使番が報じたかと思いまするが、それだけでは御座らんかった! 斎藤軍は、柵の向こう側に鉄砲隊を配置している模様に御座る! その数、実に数百は下らぬかと!」
「何……?」
「数百……!」

 正俊の報告を聞いた信繁と昌幸は、思わず顔を見合わせた。
 そんなふたりに、正俊は興奮した様子で捲し立てる。

「恐らく、敵は柵と空堀で我らの騎馬での突進の勢いを削いだ上で、柵の向こうから鉄砲を撃ちかけようという気なので御座ろう! であれば、闇雲に攻めかかるだけでは我らの損害も少なからぬ事になるかと……」
「だろうな……」

 信繁は、正俊の言葉に難しい顔をしながら頷いた。
 そんな彼に、昌幸がおずおずと声をかける。

「典厩様、畏れながら……」
「……昌幸」

 だが、昌幸の声を遮るように、信繁が声を上げた。
 そして、鋭い目を昌幸に向けながら、静かな声で命じる。

「後詰から、大井三河守の隊を呼び出せ」
「……なるほど!」

 信繁の指示を聞いた昌幸が、パッと顔を綻ばせた。

「確かに、三河様の隊なら、あの柵に対処するにはうってつけ――」

 昌幸がそう言いかけたその時――、

『オオオオオオオオ――ッ!』

 西の方――即ち、武田軍の先備さきぞなえの方から、大勢が上げる咆哮と腹に響く地響きが上がり、ハッとした三人は互いの顔を見合わせる。

「今のは……?」
「鬨の声……だと?」

 上がった大音声に当惑する信繁と昌幸。
 そして、

「バカな……ッ!」

 驚愕の表情を浮かべた正俊は、思わず声を荒げる。

「何故、先備さきぞなえの大将であるそれがしがここに居るというのに、勝手に敵へ攻めかかったッ? 妄りに動くなと、固く申し伝えておったというに……!」

 と、その時、

「御注進! 御注進ッ!」

 先備さきぞなえより送られた新たな使番が、信繁たちの前に駆け寄ってきた。
 使番は、信繁たちの前で馬を下りると、地面に膝をつき、緊張した顔で報せを伝える。

「諏訪衆を預かる小原丹後守様より、典厩様へ御報告! 『我ら諏訪衆、これより先陣仕り候』――以上!」
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