甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部四章 衝突

指揮と不満

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 ――ここ数日、小原丹後守継忠は、不満を抱いていた。

 先日起こった、苗木城主遠山直廉夫人・琴が差し向けた親織田派の苗木衆との戦闘。
 その際、苗木衆を率いていた矢口信濃守茂武と一騎討ちに及び、左腕を負傷した諏訪四郎勝頼が甲斐に戻る事になり、苗木城中で開かれた軍議の場で、残った諏訪衆を誰が指揮するかが話し合われた。
 継忠は、勝頼の直臣である自分が諏訪衆を任されるものと、当然のように考えていた。
 ――だが、軍議で諮られた結果、諏訪衆は彼ではなく、勝頼の与力である保科弾正忠正俊に預けられる事になったのだ。

 とはいえ、これは特段不自然な事では無い。
 正俊は、勝頼が城主となる前まで高遠城を預かっていた前城主であったし、信濃先方衆として百二十騎を率いる大身の侍大将でもある。
 更に、その武勲は、武田家中でも抜きんでており、戸石城攻めや西上野攻略の際に多大な貢献を果たした“攻め弾正”真田弾正忠幸綱、海津城主として奥信濃と越後上杉家に睨みを利かせる難役を信玄から一任されている“逃げ弾正”香坂弾正忠虎綱と並んで、“槍弾正”として“武田の三弾正”のひとりとして数えられている。
 だから、正俊が勝頼から諏訪衆の指揮を引き継ぐ事は極めて当然の措置であり、現に、信繁をはじめとした武田軍の面々に異論を挟む者はいなかった。
 小原継忠も、正俊の実績と立場は重々承知しており、『武田家の将』として、信繁の下した決定に納得は出来る。――だが、それでも、『勝頼の直臣』としては、不満を覚えざるを得なかった。
 ましてや、『高遠諏訪家の旧臣』としては、尚更だった――。


 元々、継忠も正俊も、高遠諏訪家の臣だった。
 継忠の諱の“継”は、高遠諏訪家の当主であった高遠頼継の“継”を与えられたものである。
 一方の正俊も、筆頭家老として高遠諏訪家に仕えていた。
 だが、天文二十一年 (西暦1552年)八月に高遠頼継が武田晴信 (後の信玄)に攻め滅ぼされた時、継忠も正俊も相次いで武田家に降る事になる。
 その後、武田家臣として忠勤に励む継忠だったが、彼はずっと、同じ旧臣である正俊に一方的な対抗心を抱いていた。
 無論、戦場での武功では正俊に及ぶべくも無いが、彼は自身が得手としている内政によって武田家に貢献する事で、正俊の戦働きに対抗しようとしたのである。

 そして、昨年――即ち、永禄七年 (西暦1564年)に諏訪勝頼が高遠城主に任じられた際に、彼の直臣となるよう信玄から直々に命じられたのだ。
 継忠に白羽の矢が立ったのは、彼自身の内政官吏としての能力が評価された事もあったが、それ以上に、高遠諏訪家の旧臣である彼が高遠とその周辺の地理や人脈に通じている事に拠るところが大きかった。
 彼自身もその事実に薄々気付いてはいたものの、武田家の四男であり、将来有望である勝頼の直臣に取り立てられた事を素直に喜んだのだった。

 当時、嫡男義信との仲が冷え込んでいた信玄には、逆に四男の勝頼へ期待をかけている節があった。
 その空気を敏感に察知していた勝頼の近臣たちは、「ひょっとすると、お屋形様は若殿 (義信)ではなく、四郎様に武田家の家督を継がせる心積もりなのではないか……?」と、仄かな希望を抱く。
 万が一、直属の主君である四郎が武田家の家督を継ぎ、“武田勝頼”となった暁には、自分たちが“武田宗家の直臣”となる事が出来る――そのような事を夢見ていたのだった。

 ――しかし、その年の秋に労咳の発作で倒れた信玄が回復して以降、彼と嫡男義信の仲は目に見えて改善した。
 病み上がりという事もあって、信玄は以前ほど政務に携わらなくなった。その代わりに、嫡男である義信が、叔父である信繁や信廉の助けを借りつつ、陣代としてまつりごとを執る事が増えたのである。
 その事を、周囲の家臣たちは『家督継承に備えた予行演習』と捉え、信玄が義信に家督を継がせる事を決めた証だと確信しており、また、実際にその通りであった。
 ――それはつまり、勝頼が武田家の家督を継ぐ可能性が大いに減じた事に他ならない。
 その事実に、勝頼の直臣の一部は、表には出さぬまでも、心の底では深い失望を抱く者が少なくなかったのである。

 だが、継忠は、その事には大して失望していなかった。
 何故なら、彼は勝頼を補佐する今の自分の立場に満足していたからであり、また、当の勝頼自身が、自分ではなく兄の義信が武田家の家督を継ぐ事を誰よりも喜んでいるのを、一番近くで見て知っていたからである。
 継忠にとって勝頼は、主君というよりは、むしろ年の離れた弟のようなものだった。
 勝頼の近くに仕えるようになってから、まだ一年半ほどしか経ってはいないものの、平時に彼が見せる思慮深さや優しさと、戦の際に露わにする勇猛さの両方を、継忠は好ましく思っていた。
 ――魅了されていると言ってもいい。
 だから、継忠にとって重要な事は、股肱の臣として勝頼に仕える事自体であり、彼が武田家の家督を継ぐか否かは、別にどちらでも良かったのである。


 そんな彼にとって、離脱した勝頼の代わりに諏訪衆の指揮を執る事は、この上なく重要な務めであるという認識だった。
 ……それにもかかわらず、諏訪衆の指揮は継忠ではなく、よりにもよって、彼と同じ高遠諏訪氏の旧臣であり、秘かに対抗心を燃やしている保科正俊に委ねられたのだ。
 彼にとっては、到底受け入れがたい事である……とはいえ、総大将が下した沙汰には従わざるを得ない。
 ――それでも、継忠は心中穏やかではいられなかった。

 そんな鬱屈した思いを抱えたまま今日を迎えた継忠に、思わぬ好機が巡ってきた。
 一町 (約百十メートル)ほど先に、彼らの進行を妨げるように設けられているのは、一重の柵。その後ろには、黒光りする火縄銃や長槍を携えた斎藤軍の足軽が控えている。
 見たところ、柵はいかにも急拵えのもののようで、資材が間に合わなかったのか、ところどころ横木ではなく、杭の間に太縄を渡してあるだけの箇所もあった。
 柵の前には空堀を掘っているようだが、その深さと幅も充分なものではないように見える。

「……」

 それをつぶさに見た継忠の心中に、ふとある考えが浮かんだ。
 自分たち諏訪衆を含めた先備を率いる保科正俊は、敵の状況を伝える為に、直接本陣の信繁の元に向かっていて不在だ。
 そして今、継忠の周囲にいるのは、本来自分が指揮を執るはずだった、高遠城所属の諏訪衆たち……。

「――高遠諏訪のつわものたちよ!」

 遂に決断した彼は、おもむろに叫びながら、腰の刀を抜き放ち、頭上高く掲げた。
 突然呼びかけられた諏訪衆の面々は、驚いた顔をしながら継忠に注目する。
 そんな彼らの顔を睥睨した継忠は、掲げた刀の剣先を斎藤軍に向け、割れんばかりの大音声で叫んだ。

「これより、我ら諏訪衆は、武田家の先陣として敵に当たる! ――者ども、前方の敵に向け、存分に攻めかかり、我ら諏訪衆の力を存分に見せつけてやるのだッ! かかれえいっ!」
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