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第二部六章 軍師
策と無策
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翌日――。
信繁は、夜が明けると同時に貴舩神社に置いていた本陣を引き払い、木曽川西岸に陣を構える安藤守就と対峙する保科正俊隊の他に、烏峰城への抑えとして残した一隊以外の手勢を率いて、東へと進んだ。
烏峰城の南を回り込むようにして、一里 (約四キロメートル)ほどの距離を進軍した武田軍は、半刻 (約一時間)ほどで目的地の八王子山の麓へと到る。
信繁は、山の西に広がる僅かな平地に本陣に置く事にし、その周囲に各隊を展開した。
設陣の為に目まぐるしく動き回る兵たちに労りの声をかけながら馬を進めていた信繁は、目の前に聳える小高い山を見上げる。
「思っていたよりも急な山だな」
「はっ」
信繁の呟きに、彼の傍らに付き従っていた昌幸が頷いた。
「然程高い山ではありませぬが、西から攻め上ろうとすれば、鬱蒼と茂った木々が進行と視界を妨げましょう」
そう答えた昌幸だったが、「ですが――」と続け、山の北側を指さす。
「山の北東側は、西とは違って傾斜が緩やかになっています。そこから大勢で攻めかかれれば、一気に山頂まで踏み込めるかと」
「そうか……」
昌幸の説明を聞いた信繁は、顎髭を撫でながら思案する。
「で、あれば……夜闇に乗じて山の北東に回り、夜明けと共に攻め寄せるのが良さそうだが……半兵衛が、それを予測していないはずは無いか」
「……それが……」
「ん?」
信繁は、昌幸の返事に妙な歯切れ悪さを感じ、訝しげに訊き返した。
「どうした? 何かあるのか?」
「あるなら良いのですが……」
表情を曇らせながら、昌幸は信繁の問いかけに答える。
「何も……何も無いのです」
「……何も無い? それは、どういう事だ?」
信繁は、昌幸が口にした奇妙な答えに首を傾げた。
「言葉通りの意味です」
昌幸は、困惑を隠せぬ顔で答える。
「先ほど、山の様子を探らせていた乱破が戻って参りました。その者の報せによると、最も守りを固めなければならぬはずの北東の麓には、兵の姿どころか、柵も土塁も一切無いとの事で……」
「つまり……全くの無防備だと?」
「……そういう事になります」
問い返した信繁に、昌幸は躊躇い混じりに答えた。
それを聞いた信繁は、思案顔になって腕を組んだ。
「確か……『空城計』というものがあったな」
「はい」
信繁の言葉に、昌幸は小さく頷く。
「『空城計』は……唐国の三国時代を書いた史書『三国志』で、『魏の郭沖が蜀漢の軍師・諸葛孔明の功績を称えた』という話の中に出て来たかと」
「それだそれだ。もっとも、儂が『空城計』を知ったのは、『三国志』ではなく『三国志演義』の方だったがな」
そう冗談めかして昌幸に苦笑した信繁は、幼い頃に読んだ『三国志演義』の内容を思い返しながら言葉を継いだ。
「確か……蜀の諸葛孔明が籠もった城に魏の司馬仲達が大軍を率いて攻め寄せてきた際、まともに守っても勝ち目が無いと悟った孔明が、あえて城門を開け放ったという……」
「それを見た仲達が、『孔明が何か策を弄しているに違いない』と深読みし、戦わずに退いた……」
信繁の言葉に続けて呟いた昌幸が、眉を顰める。
「……半兵衛も、その時の孔明と同じ……と?」
「恐らく、な」
昌幸の問いかけに小さく頷いた信繁だったが、「……だが」と続けて難しい顔になる。
「だからといって、安易に『空城計』と断じるのも危険だ。案外と、こちらが『空城計』だと考えて攻め寄せてくるのを逆手に取ろうと、策を講じて待ち構えておるのかもしれぬ」
「……先日の戦のように……という事ですね」
信繁の言葉に、昌幸が苦い顔で答えた。
「半兵衛の狙いがどちらなのか……見極めねばなりませんね」
「ああ。――だが、あまり時間は無いぞ」
そう言った信繁は、おもむろに振り返り、背後に横たわる小山に目を遣る。
その小山――古城山の山頂には、本来の目標である烏峰城がある。
「あまり八王子山に時を費やし過ぎるのはまずい。今は木曽川の西岸まで退いた安藤守就が、稲葉山からの更なる援軍を加えて攻め返してくる前に、何としてでも烏峰城を落としておかねばならぬからな」
「無論、それは存じております」
昌幸は、信繁の言葉に首肯し、それから八王子山の西麓を指さした。
「でしたら……あえて山の西側から強攻するのはいかがでしょうか? 険しい山道といえど、登れぬほどの断崖絶壁ではありませぬゆえ、正攻法で攻めかかる事は可能です。……まあ、あの半兵衛が相手ですから、相応の犠牲が生じる事を織り込む必要はありましょうが」
「犠牲か……」
信繁は、昌幸の言葉を反芻するように呟くと、額に人差し指を当てて軽く目を瞑る。
そのまま考え込んだ信繁は、しばらくしてから静かに目を開けた。
「……よし」
踏ん切りをつけるようにそう呟いた信繁は、固唾を呑んで彼を見つめていた昌幸に顔を向けると、静かに告げる。
「昌幸。明日、儂は山の北東側から八王子山を登り、竹中半兵衛に会いに行く事にする」
「はっ!」
信繁の言葉に、昌幸は表情を引き締めながら応えた。
そして、頭の中で自軍の陣立てを思い浮かべながら、信繁に尋ねる。
「では、先陣をどの隊に任せる事にいたしましょう? やはり、浅利様に――?」
「――いや」
だが、信繁は昌幸の言葉に小さく頭を振った。
それを見た昌幸は、自分の胸を指さしながら顔を輝かせる。
「では――是非とも拙者の隊にお申し付け下され! 必ずやご期待に応えましょ――」
「いや、そうではない」
信繁は、意気軒高な昌幸に苦笑しながら、再び首を横に振った。
「当面、全軍は今の陣立のままで待機だ。動かす必要は無い」
「……は?」
奇妙な信繁の命に、昌幸はポカンと口を開ける。
そして彼は、次に信繁が口にした言葉に仰天させられた。
「儂は、『竹中半兵衛と戦をする』とは言っておらぬ。『竹中半兵衛に会いに行く』と言ったのだ」
「は……?」
「つまり、八王子山に向かうのは、儂ひとりだ」
「は――?」
驚愕のあまり、目を飛び出さんばかりに見開いて絶句する昌幸。
そんな彼にニヤリと笑いかけながら、信繁は言葉を続ける。
「半兵衛と直に話をしに、な」
信繁は、夜が明けると同時に貴舩神社に置いていた本陣を引き払い、木曽川西岸に陣を構える安藤守就と対峙する保科正俊隊の他に、烏峰城への抑えとして残した一隊以外の手勢を率いて、東へと進んだ。
烏峰城の南を回り込むようにして、一里 (約四キロメートル)ほどの距離を進軍した武田軍は、半刻 (約一時間)ほどで目的地の八王子山の麓へと到る。
信繁は、山の西に広がる僅かな平地に本陣に置く事にし、その周囲に各隊を展開した。
設陣の為に目まぐるしく動き回る兵たちに労りの声をかけながら馬を進めていた信繁は、目の前に聳える小高い山を見上げる。
「思っていたよりも急な山だな」
「はっ」
信繁の呟きに、彼の傍らに付き従っていた昌幸が頷いた。
「然程高い山ではありませぬが、西から攻め上ろうとすれば、鬱蒼と茂った木々が進行と視界を妨げましょう」
そう答えた昌幸だったが、「ですが――」と続け、山の北側を指さす。
「山の北東側は、西とは違って傾斜が緩やかになっています。そこから大勢で攻めかかれれば、一気に山頂まで踏み込めるかと」
「そうか……」
昌幸の説明を聞いた信繁は、顎髭を撫でながら思案する。
「で、あれば……夜闇に乗じて山の北東に回り、夜明けと共に攻め寄せるのが良さそうだが……半兵衛が、それを予測していないはずは無いか」
「……それが……」
「ん?」
信繁は、昌幸の返事に妙な歯切れ悪さを感じ、訝しげに訊き返した。
「どうした? 何かあるのか?」
「あるなら良いのですが……」
表情を曇らせながら、昌幸は信繁の問いかけに答える。
「何も……何も無いのです」
「……何も無い? それは、どういう事だ?」
信繁は、昌幸が口にした奇妙な答えに首を傾げた。
「言葉通りの意味です」
昌幸は、困惑を隠せぬ顔で答える。
「先ほど、山の様子を探らせていた乱破が戻って参りました。その者の報せによると、最も守りを固めなければならぬはずの北東の麓には、兵の姿どころか、柵も土塁も一切無いとの事で……」
「つまり……全くの無防備だと?」
「……そういう事になります」
問い返した信繁に、昌幸は躊躇い混じりに答えた。
それを聞いた信繁は、思案顔になって腕を組んだ。
「確か……『空城計』というものがあったな」
「はい」
信繁の言葉に、昌幸は小さく頷く。
「『空城計』は……唐国の三国時代を書いた史書『三国志』で、『魏の郭沖が蜀漢の軍師・諸葛孔明の功績を称えた』という話の中に出て来たかと」
「それだそれだ。もっとも、儂が『空城計』を知ったのは、『三国志』ではなく『三国志演義』の方だったがな」
そう冗談めかして昌幸に苦笑した信繁は、幼い頃に読んだ『三国志演義』の内容を思い返しながら言葉を継いだ。
「確か……蜀の諸葛孔明が籠もった城に魏の司馬仲達が大軍を率いて攻め寄せてきた際、まともに守っても勝ち目が無いと悟った孔明が、あえて城門を開け放ったという……」
「それを見た仲達が、『孔明が何か策を弄しているに違いない』と深読みし、戦わずに退いた……」
信繁の言葉に続けて呟いた昌幸が、眉を顰める。
「……半兵衛も、その時の孔明と同じ……と?」
「恐らく、な」
昌幸の問いかけに小さく頷いた信繁だったが、「……だが」と続けて難しい顔になる。
「だからといって、安易に『空城計』と断じるのも危険だ。案外と、こちらが『空城計』だと考えて攻め寄せてくるのを逆手に取ろうと、策を講じて待ち構えておるのかもしれぬ」
「……先日の戦のように……という事ですね」
信繁の言葉に、昌幸が苦い顔で答えた。
「半兵衛の狙いがどちらなのか……見極めねばなりませんね」
「ああ。――だが、あまり時間は無いぞ」
そう言った信繁は、おもむろに振り返り、背後に横たわる小山に目を遣る。
その小山――古城山の山頂には、本来の目標である烏峰城がある。
「あまり八王子山に時を費やし過ぎるのはまずい。今は木曽川の西岸まで退いた安藤守就が、稲葉山からの更なる援軍を加えて攻め返してくる前に、何としてでも烏峰城を落としておかねばならぬからな」
「無論、それは存じております」
昌幸は、信繁の言葉に首肯し、それから八王子山の西麓を指さした。
「でしたら……あえて山の西側から強攻するのはいかがでしょうか? 険しい山道といえど、登れぬほどの断崖絶壁ではありませぬゆえ、正攻法で攻めかかる事は可能です。……まあ、あの半兵衛が相手ですから、相応の犠牲が生じる事を織り込む必要はありましょうが」
「犠牲か……」
信繁は、昌幸の言葉を反芻するように呟くと、額に人差し指を当てて軽く目を瞑る。
そのまま考え込んだ信繁は、しばらくしてから静かに目を開けた。
「……よし」
踏ん切りをつけるようにそう呟いた信繁は、固唾を呑んで彼を見つめていた昌幸に顔を向けると、静かに告げる。
「昌幸。明日、儂は山の北東側から八王子山を登り、竹中半兵衛に会いに行く事にする」
「はっ!」
信繁の言葉に、昌幸は表情を引き締めながら応えた。
そして、頭の中で自軍の陣立てを思い浮かべながら、信繁に尋ねる。
「では、先陣をどの隊に任せる事にいたしましょう? やはり、浅利様に――?」
「――いや」
だが、信繁は昌幸の言葉に小さく頭を振った。
それを見た昌幸は、自分の胸を指さしながら顔を輝かせる。
「では――是非とも拙者の隊にお申し付け下され! 必ずやご期待に応えましょ――」
「いや、そうではない」
信繁は、意気軒高な昌幸に苦笑しながら、再び首を横に振った。
「当面、全軍は今の陣立のままで待機だ。動かす必要は無い」
「……は?」
奇妙な信繁の命に、昌幸はポカンと口を開ける。
そして彼は、次に信繁が口にした言葉に仰天させられた。
「儂は、『竹中半兵衛と戦をする』とは言っておらぬ。『竹中半兵衛に会いに行く』と言ったのだ」
「は……?」
「つまり、八王子山に向かうのは、儂ひとりだ」
「は――?」
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