甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部六章 軍師

単身と同行

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 その翌日――。

「……のう、昌幸よ」

 申し訳程度に草を払っただけの道を馬に緩々と歩ませながら、信繁は先導するように彼の少し先を歩いている昌幸の背中に向けて声をかける。

「今からでも遅くはない。お主は本陣に戻れ。八王子山へは、儂ひとりだけで充ぶ――」
「お断りいたします!」

 昌幸は、断固とした様子で信繁の声を途中で遮った。
 彼は、いつでも抜き放てるよう、左腰に差した刀の柄に右手を添えて、周囲に油断なく目を配りながら言葉を続ける。

「如何に典厩様の御命令といえど、此度ばかりは従えませぬ! 典厩様おひとりで敵陣の真ん中まで行かせる事など……絶対に!」
「やれやれ……昌幸は心配性だな」

 厳しい口調の昌幸に辟易としながら、信繁は苦笑いを浮かべた。

「そんなに案ずる必要は無い。儂らは、半兵衛と戦をする訳ではない。ただ、話をしに行くだけなのだから」

 そう言いながら、彼はおもむろに腕を広げ、小袖に肩衣を羽織った自分の体に目を落とす。

「……だからこそ、鎧姿ではなく、このような平服で向かっておるのではないか。こちらに戦う意思が無い事を先方へ知らしめる為にな」
「典厩様に戦う意思が無かろうと、半兵衛もそうであるとは限りますまい!」

 信繁の言葉に、昌幸は声を荒げながら振り返った。
 主と同様に小袖を身に纏った昌幸は、不安を隠せぬ顔で信繁に訴えかける。

「今からでも遅くありませぬ。典厩様、お引き返し下さい。半兵衛には、拙者ひとりで会いに行ってまいりますから……」
「それでは意味がない」

 だが、信繁は昌幸の必死の言葉に小さくかぶりを振った。
 そして、心配そうに眉間へ皺を寄せる昌幸の顔を見据えながら、諭すように言う。

「儂が半兵衛と会う事――それが最も肝心なのだ。儂以外の者が行っても無意味……いや、むしろ逆効果だ」
「……拙者如きでは、半兵衛めの為人ひととなりを見極めるには力不足だと?」
「いやいや、そうではない」

 シュンとして項垂れる昌幸に、信繁は慌てて首を横に振った。

「お主の観察眼が儂などよりよっぽど確かな事は、重々承知しておる。……だが、此度の役目は、他の者には務まらぬのだ」

 そう言うと、信繁は自分の胸を指さす。

「――武田家当主の実弟であるこの儂以外には、な」
「……ッ!」

 信繁の言葉を聞いた昌幸は、ハッとして目を見開いた。

「典厩様――それは、まさか……」
「……」

 おずおずと問いかける昌幸に、信繁は微笑みながら静かに頷く。
 それを見た昌幸は、感嘆とも呆れともつかない感情を抱きながら、思わず嘆息する。

「確かに、典厩様のお考えの通りかもしれませぬが……それでも、単身で敵陣に乗り込むのは、さすがに無謀が過ぎるかと……」
「ははは、確かにな」

 昌幸の呆れ顔を見て、思わず愉快げな笑い声を上げた信繁だったが……ふと真面目な表情を浮かべた。

「そういう事だから、安心せよ。だが……それでも、万が一が起こらぬとは言い切れぬ。その際には、お主に軍の指揮を任せたいゆえ、引き返せと言っておるのだが……とても聞きそうにないな」
「当然です」

 諦め顔の信繁に、昌幸は大きく首を縦に振る。

「拙者は、典厩様の一番の側近を自負しておりまするから、どこまでもお供いたしますよ」

 そう言ってニヤリと笑った昌幸は、「それに……」と言葉を継いだ。

「拙者自身も、竹中半兵衛という男には並々ならぬ興味がありますゆえ、この機会に是非とも会ってみたいというのが、正直な気持ちです」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 信繁と昌幸は、八王子山の北東に回り込むように進み、そのまま山頂へ続く細い山道に差し掛かった。
 そこかしこに石塊いしくれが転がる歩きづらい道を苦労して進みながら、昌幸は周囲を見回し、訝しげに首を傾げる。

「ここまで来ても、伏兵どころか虎落もがりのひとつも無いとは……」
「……敵は全て、山の上に固まっておるようだな」

 昌幸の呟きに、信繁は鬱蒼と茂る木々の隙間から見える八王子山の山頂を見上げながら頷いた。

「少ない兵を集中させて本陣の守りを固め、下から攻め上がってくる武田軍われらを山の上から迎え撃とうという算段なのか……」
「……定石ですが、面白みの無い戦法ですね」

 信繁の言葉に同意しつつ、昌幸は訝しげに眉を顰める。

「確かに、その戦法を取れば、ある程度の時間は持ち堪えられましょうが、この山の地形なら、もっと有利に戦える場所がいくらでもありましょう。……たとえば、先ほど通り過ぎた狭隘地の左右に兵を潜ませて奇襲をかけたりとか――」
「そうだな……」

 昌幸の言葉に信繁が考え込んだ――その時、山道の向こうから、地鳴りのような音が微かに聴こえてきた。

「……!」
「っ!」

 その低い音が、複数の騎馬と人が山を下ってくる足音だとすぐに気付いた信繁と昌幸は、表情を引き締める。
 即座に昌幸が信繁に馬を寄せ、腰に差した刀の柄に手をかける――が、信繁が手を翳して、それを制した。

「無用だ。要らぬ敵意を見せて、相手を刺激するな」
「ですが……さすがに……」

 さすがに不安げな表情を見せる昌幸を落ち着かせるように、信繁はゆっくりと頭を振る。

「案ずるな」
「……はっ」

 重ねて信繁に制された昌幸は、不承不承といった顔で、刀の柄から右手を離した。
 その間にも、ふたりに迫る足音はどんどん大きくなり――鎧を纏った兵の一群が現れる。

「――そこのふたり、止まれ!」

 ふたりの行く手を阻むように道を塞いだ兵たちを率いているらしい騎馬武者が、油断なく手槍を構えながら叫んだ。
 騎馬武者は、徒歩の足軽たちに合図をし、怪しい動きを見せたら即時に矢を撃ち放てるよう、信繁たちに向けて弓を構えさせると、険しい声で怒鳴った。

「お主ら……この山の上に、斎藤家家中・竹中半兵衛様が率いる隊が陣張りしている事を知った上で参ったのか?」
「無論、承知の上だ!」

 昌幸は、騎馬武者の問いかけに胸を張って答える。
 騎馬武者は、戦時の最中にそぐわない平服姿の二人組が、妙に堂々と落ち着いた態度でいる事に戸惑う素振りを見せながら、やや声の調子を落として訊ねた。

「はて……? もしや、斎藤の御家中か?」
「いや」

 信繁は、騎馬武者の問いに首を横に振り、ハッキリと答える。

「儂らは、武田家中の者だ」
「「「「――ッ!」」」」

 信繁の答えを聞いた瞬間、兵たちの間に緊張が広がった。
 慌てて弓を握り直した足軽たちは、敵意を剥き出しにした目を信繁たちに向ける。
 と、

「――待て!」

 と一喝して、今にも弓を射かけようとする兵たちを鎮めた騎馬武者は、面頬の奥の目を油断なく光らせながら尋ねた。

「……山の麓に布陣している武田軍から来たという事か? ならば、総大将の武田信繁から遣わされてきた使者――?」
「いや、使者という訳ではないな」

 騎馬武者の声に、信繁は静かに頭を振る。
 それを聞いた騎馬武者は、更に眉を顰めながら首を傾げた。

「使者ではないだと? では、貴様らは何者で、何をしに――」
「儂は」

 騎馬武者の声を遮った信繁は、顎髭を指で撫でながら、落ち着いた声で答える。

「武田軍の総大将・武田左馬助信繁である。貴軍を率いる竹中半兵衛殿と会う為、自ら罷り越した次第だ」
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