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第二部六章 軍師
大将首と報い
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「な――何だと?」
信繁の名乗りを聞いた騎馬武者は、面頬の奥の瞳を丸くし、絶句する。
彼の後ろで矢を番え、槍を構える足軽たちの間からも、当惑と驚愕が入り混じったどよめきが起こった。
「お、おい……今の聞いたか?」
「あ、ああ、た、武……武田なにがしと……」
「……そ、総大将とも言うておったぞ。だが、まさか……」
「ま、間違いない! 武田左馬助とは、武田軍……敵の総大将の名前だ!」
動揺する足軽たちの内のひとりが、興奮して声を上ずらせる。
それを聞いた他の足軽たちは、信じられないという顔をして、馬上の信繁を凝視した。
「な……なぜ、敵の総大将が、鎧も纏わずにこのような場所を歩いておるのだ?」
「た、確か……竹中様に会いに来たと申しておったような……」
「会いに来た? 降伏を勧めに来たの間違いではないのか?」
「い、いや……だからといって、総大将が自ら出向く事などあるか?」
「しかも……供もたったひとりだけとは……無防備にもほどがある……」
「一体何を考えておるのだ、あの武田の総大将とやらは? まさか、自ら死にに来た訳でもあるまいに……」
信繁の意図が分からず、当惑と混乱を隠せぬ様子の斎藤兵。
と、その中のひとりが、ボソリと呟いた。
「……何を考えておるのかは分からぬが……いずれにせよ、これは手柄を挙げる千載一遇の好機なのではないか?」
「……!」
その言葉に、足軽たちはハッとして、互いの顔を見合わせる。
「……確かに」
「考えてみれば、あれは兜首どころか、大将首だ。ここで討ち取れば、手柄も手柄、大手柄だぞ」
「そうすれば、先日の味方の負けが帳消しどころか、勝ちが転がってくるかもしれぬ……!」
そう囁き合いながら、足軽たちは弓矢や長槍を構える手に力を込めながら、じりじりと前に進み出た。
……いや、足軽たちだけではない。
彼らを率いている騎馬武者も、まるで野兎を前にした野犬のように目をぎらつかせながら、腰に差した刀の柄にそろそろと手を伸ばす――。
――と、
「待て!」
殺気を漲らせる斎藤兵たちに鋭い声を浴びせたのは、昌幸だった。
信繁を庇うように前へ進み出た昌幸は、馬上から足軽たちを睨みつけながら、毅然とした声で釘を刺す。
「お主ら、努々妙な気は起こすなよ? 一時の得で、大きな損を被る事になるぞ!」
「……っ!」
昌幸の言葉に、斎藤兵たちがギクリとした顔で動きを止めた。
そんな敵兵に油断なく目を向けながら、昌幸は言葉を継ぐ。
「なにせ、典厩様は、ただの総大将では無いからな。武田家の惣領であらせられる信玄公の御舎弟にして、最も信頼をお寄せになっておられる副将でもある御方だ。そのような御方を、今この場で討ち取ったらどういう事になるか……判らぬほど鈍くはあるまい?」
「……!」
昌幸の言葉に、騎馬武者と足軽たちは冷や水を頭から被ったような顔になった。
それ以上は、昌幸の言葉を聞かずとも判る。
「――もちろん、信玄公御自身も、戦場に立つ武士のひとりだ。たとえ総大将であっても当主の御舎弟であっても、武運が尽きれば討ち取られるという事は、当然ご覚悟なさっておられる。だから、たとえ典厩様がお命を落とされる事になろうとも、敵を恨みに思う事はあるまい」
そう言った昌幸は、依然として自分たちに向けて得物を構え続ける斎藤兵の顔をゆっくりと見渡しながら、「――だがな」と続けた。
「あくまでそれは、互いに命のやり取りをし合う戦のただ中でならば、だ」
「……!」
「あくまで竹中殿と話をする為に、鎧も帯びずに陣を訪れた典厩様を、お主らがその凶刃によって一方的に殺そうというのなら、烈火の如くお怒りになられた信玄公によって相応の報いを受ける事は覚悟しておけよ。いいな?」
「う……」
昌幸の脅しめいた言葉に、斎藤兵たちは思わず気圧される。
と、
「……この者の言う通りだ」
それまで黙っていた信繁が、穏やかな声でそう言いながら、前へ進み出た。
そして、刀の柄を握ったまま固まっている騎馬武者に向け、着ている小袖の襟元を摘まんでみせる。
「見ての通り、我らに害意は無い。先ほども申したように、話をしに来ただけだ。竹中殿まで取り次いでくれると助かる」
「……」
信繁の頼みに、騎馬武者は無言のまましばし考え込んだ後、刀の柄からゆっくりと手を離した。
そして、背後の足軽たちに向け、小さく頭を振る。
「……止めよ」
騎馬武者の命を受けた足軽たちは、落胆と安堵が入り混じった複雑な表情を浮かべながら、構えていた弓や槍を下ろした。
それを見た昌幸が、他の者たちに悟られぬようにこっそりと安堵の息を吐く気配を感じて苦笑しながら、信繁は小さく頷く。
「忝い――」
と、騎馬武者に感謝の意を伝えようとした信繁だったが、そこで初めて相手の名を聞いていない事に気付き、言い淀んだ。
騎馬武者も、信繁の様子から自分が名乗っていなかった事に気付くと、面頬の下で少しバツの悪い表情を浮かべながら、ぼそりと言う。
「――仙石」
「ん?」
訊き返す信繁に軽く会釈をしながら、騎馬武者は改めて名乗った。
「――拙者は、仙石新八郎久勝と申す。今は、竹中様の元で、足軽隊を任されております」
「左様か」
騎馬武者――仙石久勝の名乗りに、信繁は微笑みながら会釈を返す。
「それでは、仙石殿。ご苦労だが、竹中殿の元まで案内を頼む」
「……畏まり申した」
信繁の顔に浮かぶ穏やかな表情に少し呑まれつつ、久勝はコクンと頷いたのだった。
信繁の名乗りを聞いた騎馬武者は、面頬の奥の瞳を丸くし、絶句する。
彼の後ろで矢を番え、槍を構える足軽たちの間からも、当惑と驚愕が入り混じったどよめきが起こった。
「お、おい……今の聞いたか?」
「あ、ああ、た、武……武田なにがしと……」
「……そ、総大将とも言うておったぞ。だが、まさか……」
「ま、間違いない! 武田左馬助とは、武田軍……敵の総大将の名前だ!」
動揺する足軽たちの内のひとりが、興奮して声を上ずらせる。
それを聞いた他の足軽たちは、信じられないという顔をして、馬上の信繁を凝視した。
「な……なぜ、敵の総大将が、鎧も纏わずにこのような場所を歩いておるのだ?」
「た、確か……竹中様に会いに来たと申しておったような……」
「会いに来た? 降伏を勧めに来たの間違いではないのか?」
「い、いや……だからといって、総大将が自ら出向く事などあるか?」
「しかも……供もたったひとりだけとは……無防備にもほどがある……」
「一体何を考えておるのだ、あの武田の総大将とやらは? まさか、自ら死にに来た訳でもあるまいに……」
信繁の意図が分からず、当惑と混乱を隠せぬ様子の斎藤兵。
と、その中のひとりが、ボソリと呟いた。
「……何を考えておるのかは分からぬが……いずれにせよ、これは手柄を挙げる千載一遇の好機なのではないか?」
「……!」
その言葉に、足軽たちはハッとして、互いの顔を見合わせる。
「……確かに」
「考えてみれば、あれは兜首どころか、大将首だ。ここで討ち取れば、手柄も手柄、大手柄だぞ」
「そうすれば、先日の味方の負けが帳消しどころか、勝ちが転がってくるかもしれぬ……!」
そう囁き合いながら、足軽たちは弓矢や長槍を構える手に力を込めながら、じりじりと前に進み出た。
……いや、足軽たちだけではない。
彼らを率いている騎馬武者も、まるで野兎を前にした野犬のように目をぎらつかせながら、腰に差した刀の柄にそろそろと手を伸ばす――。
――と、
「待て!」
殺気を漲らせる斎藤兵たちに鋭い声を浴びせたのは、昌幸だった。
信繁を庇うように前へ進み出た昌幸は、馬上から足軽たちを睨みつけながら、毅然とした声で釘を刺す。
「お主ら、努々妙な気は起こすなよ? 一時の得で、大きな損を被る事になるぞ!」
「……っ!」
昌幸の言葉に、斎藤兵たちがギクリとした顔で動きを止めた。
そんな敵兵に油断なく目を向けながら、昌幸は言葉を継ぐ。
「なにせ、典厩様は、ただの総大将では無いからな。武田家の惣領であらせられる信玄公の御舎弟にして、最も信頼をお寄せになっておられる副将でもある御方だ。そのような御方を、今この場で討ち取ったらどういう事になるか……判らぬほど鈍くはあるまい?」
「……!」
昌幸の言葉に、騎馬武者と足軽たちは冷や水を頭から被ったような顔になった。
それ以上は、昌幸の言葉を聞かずとも判る。
「――もちろん、信玄公御自身も、戦場に立つ武士のひとりだ。たとえ総大将であっても当主の御舎弟であっても、武運が尽きれば討ち取られるという事は、当然ご覚悟なさっておられる。だから、たとえ典厩様がお命を落とされる事になろうとも、敵を恨みに思う事はあるまい」
そう言った昌幸は、依然として自分たちに向けて得物を構え続ける斎藤兵の顔をゆっくりと見渡しながら、「――だがな」と続けた。
「あくまでそれは、互いに命のやり取りをし合う戦のただ中でならば、だ」
「……!」
「あくまで竹中殿と話をする為に、鎧も帯びずに陣を訪れた典厩様を、お主らがその凶刃によって一方的に殺そうというのなら、烈火の如くお怒りになられた信玄公によって相応の報いを受ける事は覚悟しておけよ。いいな?」
「う……」
昌幸の脅しめいた言葉に、斎藤兵たちは思わず気圧される。
と、
「……この者の言う通りだ」
それまで黙っていた信繁が、穏やかな声でそう言いながら、前へ進み出た。
そして、刀の柄を握ったまま固まっている騎馬武者に向け、着ている小袖の襟元を摘まんでみせる。
「見ての通り、我らに害意は無い。先ほども申したように、話をしに来ただけだ。竹中殿まで取り次いでくれると助かる」
「……」
信繁の頼みに、騎馬武者は無言のまましばし考え込んだ後、刀の柄からゆっくりと手を離した。
そして、背後の足軽たちに向け、小さく頭を振る。
「……止めよ」
騎馬武者の命を受けた足軽たちは、落胆と安堵が入り混じった複雑な表情を浮かべながら、構えていた弓や槍を下ろした。
それを見た昌幸が、他の者たちに悟られぬようにこっそりと安堵の息を吐く気配を感じて苦笑しながら、信繁は小さく頷く。
「忝い――」
と、騎馬武者に感謝の意を伝えようとした信繁だったが、そこで初めて相手の名を聞いていない事に気付き、言い淀んだ。
騎馬武者も、信繁の様子から自分が名乗っていなかった事に気付くと、面頬の下で少しバツの悪い表情を浮かべながら、ぼそりと言う。
「――仙石」
「ん?」
訊き返す信繁に軽く会釈をしながら、騎馬武者は改めて名乗った。
「――拙者は、仙石新八郎久勝と申す。今は、竹中様の元で、足軽隊を任されております」
「左様か」
騎馬武者――仙石久勝の名乗りに、信繁は微笑みながら会釈を返す。
「それでは、仙石殿。ご苦労だが、竹中殿の元まで案内を頼む」
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信繁の顔に浮かぶ穏やかな表情に少し呑まれつつ、久勝はコクンと頷いたのだった。
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