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第二部七章 帰陣
書状と噂
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それから数日後――。
木曽川の東岸に展開する武田軍の本陣に、一通の書状が届いた。
「ふむ……」
床几に腰かけて、武田家の当主である信玄の花押が捺された書状を一読した武田信繁は、胡乱気な表情を浮かべて小さく唸ると、傍らに控える武藤昌幸に開いたままの書状を渡した。
信繁から書状を受け取り、その内容に素早く目を通した昌幸は、思案するように顎へ指を当てる。
「これは、つまり――」
「直ちに帰陣せよ、との事だ。――儂だけでも先に、な」
昌幸の言葉に頷きながら答えた信繁は、僅かに眉を顰めながら腕組みをした。
「……美濃での戦が一段落したゆえ、帰陣の命が下るのは分かるが……随分と急だな。出来れば、もう少し周囲の情勢が落ち着くまで留まるつもりだったのだが」
「本格的な冬が来る前に……という、お屋形様の御配慮ではないでしょうか?」
首を傾げる信繁に、昌幸は言う。
「美濃と信濃の国境の山々は、もう雪が降り始めている頃合いです。今の内ならばともかく、真冬になったら、降り積もった雪のせいで国境を越えるのも一苦労になるでしょう。そう考えて、お屋形様は典厩様だけでもお戻りになるように……と」
「そうかもしれぬが……儂だけでも先にというのが引っかかる」
そう答えた信繁は、訝しげに眉を顰めた。
「何事かあったのだろうか……?」
「……そうかもしれませぬ」
信繁の呟きに、昌幸も考え込みながら頷く。
「留守中の領内で何か変事が起こり、お屋形様が典厩様の助力を求めていらっしゃる……その可能性は考えられるかと」
「……うむ」
昌幸の答えを聞いた信繁は、床几から腰を上げた。
「いずれにせよ、お屋形様直々の命だ。直ちに出立の準備をせねばならぬな」
「はっ、畏まりました!」
信繁の言葉に元気よく応えながら、昌幸も立ち上がる。
「そうと決まれば、ここに残る方々へ色々と引き継ぎをせねばなりませぬな。馬場様に保科様に浅利様……ついでに親父殿にも……!」
「ああ、そうだ――」
頷いた信繁は、ふと昌幸に訊いた。
「そういえば……お主はどうする? ここに残るか、それとも儂と共に甲斐へ戻るか?」
「もちろん、典厩様に御一緒させて頂きます!」
信繁の問いに、昌幸は当然といった顔で大きく頷く。
「何せ、拙者は典厩様の与力に御座りますゆえ!」
「だろうな……」
胸を張る昌幸を見て、思わず苦笑する信繁。予測した通りの答えだったが、それでも少し嬉しく感じた。
と、
「……ああ、そうだ」
何かを思いついた様子で、信繁は口髭に指を当てる。
「ちょうど良い。この機会に、あのふたりも甲斐へ連れて行く事にしよう」
「……あのふたり?」
信繁の言葉に一瞬キョトンとした表情を浮かべた昌幸だったが、すぐ答えに思い当たってハッとした。
「ああ……、竹中半兵衛殿と仙石新八郎殿ですか」
「ああ」
昌幸に小さく頷いた信繁は、口髭を撫でながら言葉を継ぐ。
「当家の臣となったのであれば、一度お屋形様にお目通りせねばならぬからな。来年でも良いかと思っておったが、早ければ早いに越した事はあるまい」
「そうですね……」
信繁の言葉に同意した昌幸だったが、ふとその顔に憂いの色が過ぎった。
「……どうした?」
それを見逃さなかった信繁が、訝しげに訊ねる。
信繁の問いかけに対し、
「実は……竹中殿の――」
と、一旦は口を開きかけた昌幸だったが、思い直した様子で「……いえ」と首を横に振った。
「……何でもありませぬ。失礼いたしました」
「……どうした?」
珍しく歯切れの悪い昌幸の答えに、信繁は訝しげな表情を浮かべる。
「半兵衛がどうかしたのか?」
「その……」
信繁の問いかけに躊躇するように言い淀む昌幸だったが、再び首を横に振った。
「いえ……まだ確定した情報ではなく、佐助に裏を取らせている最中なので、まだお話しするのは控えとう御座る。典厩様にも……竹中殿にも」
「半兵衛にも話すのを控えたいという事は、彼奴自身の事ではないという事か」
「……はい」
「……分かった」
昌幸の答えを聞いた信繁は、少し気にするような素振りを見せながらも、小さく頷く。
「お主がそう言うのなら、今は聞かずにおこう」
「……申し訳御座いませぬ」
「だが……佐助の裏取りとやらが済んだら、必ず儂に報せるのだぞ。良いな?」
「はっ……」
信繁の言葉に、昌幸は深く頭を下げた。
「はっきりした事が分かりましたら、必ずやお伝えいたします」
そう答えたものの――頭を垂れた昌幸の顔に浮かんだ表情は昏かった。
彼の脳裏に、昨晩会った佐助が口にした声が過ぎる。
『――これは、稲葉山から兼山湊の船頭の口を経て流れてきた噂なんだが』
そう前置きしてから、佐助が昌幸に告げた情報。
『竹中半兵衛の奥方が自害した……らしい』
……ありえない事ではない。
夫が敵方に降った事で、様々な受難や非難がひとり残された自分の身に今後降りかかるであろう事を憂いた妻が自ら命を絶つ事自体は、乱世においては珍しくない。
珍しくはないが――。
(妻が、自分が武田に降った事で自ら命を絶ったと知ったら……)
そう考えた昌幸の胸が、ズキリと痛んだ。
彼も、つい昨年に嫁を迎えた事で、『愛おしく思う』気持ちがどのようなものかがだんだんと解ってきたところである。
もしも、妻が自分の所為で自ら命を絶ったりしたら……そう考えるだけで、胸が締め付けられるような思いに駆られる。
――だから、そんな悲報を半兵衛に告げる事などは……出来ればしたくない。
(……あくまで、今の時点ではただの噂だ。誤報や虚報……いや、竹中殿の策である可能性すらある)
そう考えながら、昌幸はフルフルと首を横に振った。
(だから……典厩様や竹中様に伝えるのは尚早だ。せめて、佐助の裏取りが終わるまでは黙っておくべきだ……うん)
彼は、自分にそう言い聞かせ、今度は大きく首を縦に振る。
――それが、単なる先延ばしの言い訳に過ぎない事を薄々自覚しながら……。
木曽川の東岸に展開する武田軍の本陣に、一通の書状が届いた。
「ふむ……」
床几に腰かけて、武田家の当主である信玄の花押が捺された書状を一読した武田信繁は、胡乱気な表情を浮かべて小さく唸ると、傍らに控える武藤昌幸に開いたままの書状を渡した。
信繁から書状を受け取り、その内容に素早く目を通した昌幸は、思案するように顎へ指を当てる。
「これは、つまり――」
「直ちに帰陣せよ、との事だ。――儂だけでも先に、な」
昌幸の言葉に頷きながら答えた信繁は、僅かに眉を顰めながら腕組みをした。
「……美濃での戦が一段落したゆえ、帰陣の命が下るのは分かるが……随分と急だな。出来れば、もう少し周囲の情勢が落ち着くまで留まるつもりだったのだが」
「本格的な冬が来る前に……という、お屋形様の御配慮ではないでしょうか?」
首を傾げる信繁に、昌幸は言う。
「美濃と信濃の国境の山々は、もう雪が降り始めている頃合いです。今の内ならばともかく、真冬になったら、降り積もった雪のせいで国境を越えるのも一苦労になるでしょう。そう考えて、お屋形様は典厩様だけでもお戻りになるように……と」
「そうかもしれぬが……儂だけでも先にというのが引っかかる」
そう答えた信繁は、訝しげに眉を顰めた。
「何事かあったのだろうか……?」
「……そうかもしれませぬ」
信繁の呟きに、昌幸も考え込みながら頷く。
「留守中の領内で何か変事が起こり、お屋形様が典厩様の助力を求めていらっしゃる……その可能性は考えられるかと」
「……うむ」
昌幸の答えを聞いた信繁は、床几から腰を上げた。
「いずれにせよ、お屋形様直々の命だ。直ちに出立の準備をせねばならぬな」
「はっ、畏まりました!」
信繁の言葉に元気よく応えながら、昌幸も立ち上がる。
「そうと決まれば、ここに残る方々へ色々と引き継ぎをせねばなりませぬな。馬場様に保科様に浅利様……ついでに親父殿にも……!」
「ああ、そうだ――」
頷いた信繁は、ふと昌幸に訊いた。
「そういえば……お主はどうする? ここに残るか、それとも儂と共に甲斐へ戻るか?」
「もちろん、典厩様に御一緒させて頂きます!」
信繁の問いに、昌幸は当然といった顔で大きく頷く。
「何せ、拙者は典厩様の与力に御座りますゆえ!」
「だろうな……」
胸を張る昌幸を見て、思わず苦笑する信繁。予測した通りの答えだったが、それでも少し嬉しく感じた。
と、
「……ああ、そうだ」
何かを思いついた様子で、信繁は口髭に指を当てる。
「ちょうど良い。この機会に、あのふたりも甲斐へ連れて行く事にしよう」
「……あのふたり?」
信繁の言葉に一瞬キョトンとした表情を浮かべた昌幸だったが、すぐ答えに思い当たってハッとした。
「ああ……、竹中半兵衛殿と仙石新八郎殿ですか」
「ああ」
昌幸に小さく頷いた信繁は、口髭を撫でながら言葉を継ぐ。
「当家の臣となったのであれば、一度お屋形様にお目通りせねばならぬからな。来年でも良いかと思っておったが、早ければ早いに越した事はあるまい」
「そうですね……」
信繁の言葉に同意した昌幸だったが、ふとその顔に憂いの色が過ぎった。
「……どうした?」
それを見逃さなかった信繁が、訝しげに訊ねる。
信繁の問いかけに対し、
「実は……竹中殿の――」
と、一旦は口を開きかけた昌幸だったが、思い直した様子で「……いえ」と首を横に振った。
「……何でもありませぬ。失礼いたしました」
「……どうした?」
珍しく歯切れの悪い昌幸の答えに、信繁は訝しげな表情を浮かべる。
「半兵衛がどうかしたのか?」
「その……」
信繁の問いかけに躊躇するように言い淀む昌幸だったが、再び首を横に振った。
「いえ……まだ確定した情報ではなく、佐助に裏を取らせている最中なので、まだお話しするのは控えとう御座る。典厩様にも……竹中殿にも」
「半兵衛にも話すのを控えたいという事は、彼奴自身の事ではないという事か」
「……はい」
「……分かった」
昌幸の答えを聞いた信繁は、少し気にするような素振りを見せながらも、小さく頷く。
「お主がそう言うのなら、今は聞かずにおこう」
「……申し訳御座いませぬ」
「だが……佐助の裏取りとやらが済んだら、必ず儂に報せるのだぞ。良いな?」
「はっ……」
信繁の言葉に、昌幸は深く頭を下げた。
「はっきりした事が分かりましたら、必ずやお伝えいたします」
そう答えたものの――頭を垂れた昌幸の顔に浮かんだ表情は昏かった。
彼の脳裏に、昨晩会った佐助が口にした声が過ぎる。
『――これは、稲葉山から兼山湊の船頭の口を経て流れてきた噂なんだが』
そう前置きしてから、佐助が昌幸に告げた情報。
『竹中半兵衛の奥方が自害した……らしい』
……ありえない事ではない。
夫が敵方に降った事で、様々な受難や非難がひとり残された自分の身に今後降りかかるであろう事を憂いた妻が自ら命を絶つ事自体は、乱世においては珍しくない。
珍しくはないが――。
(妻が、自分が武田に降った事で自ら命を絶ったと知ったら……)
そう考えた昌幸の胸が、ズキリと痛んだ。
彼も、つい昨年に嫁を迎えた事で、『愛おしく思う』気持ちがどのようなものかがだんだんと解ってきたところである。
もしも、妻が自分の所為で自ら命を絶ったりしたら……そう考えるだけで、胸が締め付けられるような思いに駆られる。
――だから、そんな悲報を半兵衛に告げる事などは……出来ればしたくない。
(……あくまで、今の時点ではただの噂だ。誤報や虚報……いや、竹中殿の策である可能性すらある)
そう考えながら、昌幸はフルフルと首を横に振った。
(だから……典厩様や竹中様に伝えるのは尚早だ。せめて、佐助の裏取りが終わるまでは黙っておくべきだ……うん)
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