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第二部七章 帰陣
妻と暇文
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「甲斐……に御座りまするか?」
本陣宿所の一室に召し出された仙石新八郎は、総大将の武田信繁からの言葉に目を丸くした。
「うむ」
そんな彼に、信繁は顎髭を指で擦りながら小さく頷く。
「仙石殿と竹中殿には、甲斐へ戻る儂らに同道して頂きたい。躑躅ヶ崎館で、我らが主である信玄公と引き合わせたいと思うてな」
「信玄公に……」
信繁の言葉を聞いた久勝は、驚いた顔をした。
そんな彼に、信繁は更に言葉を続ける。
「……まあ、無理にとは言わぬ。ここから甲斐までは遠いし、美濃と信濃の国境の道は険しい。もう、山には雪が降り積もり始める頃合いだしな。だから、信玄公への御目通りは春の雪解けを待ってからでも――」
「あ、いえ……」
久勝は、信繁から気遣いの言葉をかけられた事に少し驚いた顔をしたが、すぐに両手を床につくと、深々と頭を下げた。
「過分の御配慮、痛み入り申す。この仙石新八郎久勝、喜んで典厩様に御同道させて頂き申す!」
「うむ」
信繁は、久勝の弾んだ声を聞いて満足げに頷くと、次いで彼の横に座る半兵衛に目を向ける。
「――竹中殿は、如何なされるかな?」
「あ……」
信繁の問いかけに小さな声を上げたのは、久勝の方だった。
彼は、心配そうな目で傍らの半兵衛をチラリと見ると、おずおずと信繁に言う。
「……拙者は主家が織田に降ったせいで、もう斎藤に身寄りはおりませぬから構いませぬが――そういえば、竹中様にはまだ奥方が……」
「……!」
久勝の言葉にピクリと表情を動かしたのは、信繁の後ろに控えていた武藤昌幸だった。
そんな彼の表情の変化に気付かなかった久勝は、心配そうな顔で言葉を継ぐ。
「ひょっとしたら、竹中様が甲斐に行く事で、殿……いや、斎藤右兵衛大夫 (龍興)殿が、奥方の身に何か良からぬ事をするやも――」
「……いや」
久勝の言葉に、それまで沈黙していた半兵衛が小さく頭を振った。
そして、その整った顔に微笑を浮かべながら、静かな声で答える。
「月……妻の実父は安藤伊賀守 (守就)様だ。たとえ私が武田に降ろうとも、斎藤殿はおいそれと手を出せぬよ」
「確かに、普通に考えればそうですが……」
半兵衛の言葉を聞いた久勝は、それでも表情を曇らせた。
「あの御方が、竹中様に対して抱いている憎悪の感情には並々ならぬものが御座いますから……」
「……たとえ、斎藤殿がそうしようとも構わぬよう、既に手は打ってある」
「手は打ってある……とは?」
「……」
久勝に訊ねられた半兵衛は、ふと目を伏せ、少し間をおいてから静かに答える。
「――月に、暇文 (離縁状)を渡してある」
「……!」
半兵衛の答えに、思わず絶句する久勝。――いや、彼だけではない。その場にいた信繁と昌幸も驚きを隠せぬ様子で目を見開いた。
そんな三人の注目を受ける中、半兵衛は淡々と言葉を継ぐ。
「……私と月は、もう夫婦ではない。故に、たとえ斎藤殿が私に対する脅しとして月を使おうとしても無意味。さしもの斎藤殿も、既に私と月が赤の他人となっていると知れば、無体な真似はすまい」
「……」
「幸い、月はまだ若いし、器量も家柄も良い。今からでも新たな嫁の貰い手はいくらでもあるだろう……」
「そ……」
半兵衛の言葉に、久勝は上ずった声を上げた。
「それで……それでよろしいのですかっ? 竹中様と奥方は、随分と仲睦まじかったではないですか! それなのに、離縁するなど……」
「……」
久勝の言葉に、半兵衛は無言で瞑目する。
「竹中様ッ!」
「……致し方なかろう」
思わず声を荒げる久勝の声に、半兵衛は小さく息を吐きながら、虚ろな笑みを浮かべた。
「今は乱世だ。夫婦といえど、最期まで添い遂げられぬ者などいくらでも居る。……私と月も、そうだったという事だ」
「ですが……!」
半兵衛が口にした答えに納得できぬ様子の久勝だったが、彼が諦め混じりの表情で静かに頭を振ったのを見て、躊躇いながら口を噤む。
ふたりの間を、気まずい沈黙が流れた。
――と、
「……昌幸」
それまで黙ってふたりのやり取りを見ていた信繁が、不意に声を上げる。
「あ……は、はいっ!」
急に名を呼ばれた昌幸は、慌てた様子で返事をした。
そんな彼に顔だけ向けた信繁は、静かな声で訊ねる。
「……斎藤方に、竹中殿の奥方の身柄をこちらに渡してもらうよう交渉する事は出来ぬか?」
「え……っ?」
信繁の問いかけに、昌幸は激しい狼狽を見せた。
いつもの彼らしからぬ反応に、信繁は訝しげな顔をする。
「……どうした?」
「あ……い、いえ……その……」
「……やはり、何事かあるのか? お主が先ほど口にしかけた事が、何か関係しておるのか?」
「そ、それは……あの……」
「――武田様、どうか私の事はお気になさらず」
返事に詰まる昌幸に助け舟を出したのは、半兵衛だった。
彼は、微かに首を横に振ると、その口元に力無い笑みを浮かべ、静かに言う。
「私と妻の事を案じて頂けるのは誠に有難き事ですが、そのような交渉を斎藤方に持ちかけて、今後の戦略の障りになってはいけませぬ。武藤殿も、それを重々解っていらっしゃるから、言葉を濁らせているのです。……これ以上、私事で武藤殿を困らせる訳には参りませぬ」
「い、いや……そういう訳では……」
自分の事を庇う半兵衛に、何とも言えぬ気まずげな表情を浮かべる昌幸。
本当は、斎藤家との外交交渉云々ではなく、半兵衛の妻が既にこの世に居ない事を知っているから返事に詰まっているのだが、それを今ここで正直に話す事も躊躇われる……。
一方の信繁は、「むう……」と唸って、難しい顔で顎髭を擦った。
そして、再び昌幸の方に顔を向け、思いついた新しい策を彼に諮る。
「では……些か乱暴な手段だが、佐助を使って秘かに連れ出させるのはどうだ? まるで拐かしのようだが、この際、手段を選んではおれぬ」
「い、いえ……佐助は……その、今は――」
昌幸は、信繁の言葉に激しく目を泳がせた。
それを見た信繁は、再び怪訝な表情を浮かべるが、つい先ほど彼と交わした会話を思い出し、小さく頷く。
「……ああ、そういえば、佐助には何かの裏取りをさせているのだったな」
「さ、左様に御座ります……ですから、佐助を動かすのは少々……」
「そうか……」
昌幸の答えを聞いた信繁は、少し残念そうな顔をしながら頷いた。
――と、その時、
「御免」
という声と共に、襖が音もなく開く。
その奥に片膝をついて控えていたのは――、
「ただ今戻った」
魚の行商人に変装した佐助であった。
本陣宿所の一室に召し出された仙石新八郎は、総大将の武田信繁からの言葉に目を丸くした。
「うむ」
そんな彼に、信繁は顎髭を指で擦りながら小さく頷く。
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「信玄公に……」
信繁の言葉を聞いた久勝は、驚いた顔をした。
そんな彼に、信繁は更に言葉を続ける。
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「あ、いえ……」
久勝は、信繁から気遣いの言葉をかけられた事に少し驚いた顔をしたが、すぐに両手を床につくと、深々と頭を下げた。
「過分の御配慮、痛み入り申す。この仙石新八郎久勝、喜んで典厩様に御同道させて頂き申す!」
「うむ」
信繁は、久勝の弾んだ声を聞いて満足げに頷くと、次いで彼の横に座る半兵衛に目を向ける。
「――竹中殿は、如何なされるかな?」
「あ……」
信繁の問いかけに小さな声を上げたのは、久勝の方だった。
彼は、心配そうな目で傍らの半兵衛をチラリと見ると、おずおずと信繁に言う。
「……拙者は主家が織田に降ったせいで、もう斎藤に身寄りはおりませぬから構いませぬが――そういえば、竹中様にはまだ奥方が……」
「……!」
久勝の言葉にピクリと表情を動かしたのは、信繁の後ろに控えていた武藤昌幸だった。
そんな彼の表情の変化に気付かなかった久勝は、心配そうな顔で言葉を継ぐ。
「ひょっとしたら、竹中様が甲斐に行く事で、殿……いや、斎藤右兵衛大夫 (龍興)殿が、奥方の身に何か良からぬ事をするやも――」
「……いや」
久勝の言葉に、それまで沈黙していた半兵衛が小さく頭を振った。
そして、その整った顔に微笑を浮かべながら、静かな声で答える。
「月……妻の実父は安藤伊賀守 (守就)様だ。たとえ私が武田に降ろうとも、斎藤殿はおいそれと手を出せぬよ」
「確かに、普通に考えればそうですが……」
半兵衛の言葉を聞いた久勝は、それでも表情を曇らせた。
「あの御方が、竹中様に対して抱いている憎悪の感情には並々ならぬものが御座いますから……」
「……たとえ、斎藤殿がそうしようとも構わぬよう、既に手は打ってある」
「手は打ってある……とは?」
「……」
久勝に訊ねられた半兵衛は、ふと目を伏せ、少し間をおいてから静かに答える。
「――月に、暇文 (離縁状)を渡してある」
「……!」
半兵衛の答えに、思わず絶句する久勝。――いや、彼だけではない。その場にいた信繁と昌幸も驚きを隠せぬ様子で目を見開いた。
そんな三人の注目を受ける中、半兵衛は淡々と言葉を継ぐ。
「……私と月は、もう夫婦ではない。故に、たとえ斎藤殿が私に対する脅しとして月を使おうとしても無意味。さしもの斎藤殿も、既に私と月が赤の他人となっていると知れば、無体な真似はすまい」
「……」
「幸い、月はまだ若いし、器量も家柄も良い。今からでも新たな嫁の貰い手はいくらでもあるだろう……」
「そ……」
半兵衛の言葉に、久勝は上ずった声を上げた。
「それで……それでよろしいのですかっ? 竹中様と奥方は、随分と仲睦まじかったではないですか! それなのに、離縁するなど……」
「……」
久勝の言葉に、半兵衛は無言で瞑目する。
「竹中様ッ!」
「……致し方なかろう」
思わず声を荒げる久勝の声に、半兵衛は小さく息を吐きながら、虚ろな笑みを浮かべた。
「今は乱世だ。夫婦といえど、最期まで添い遂げられぬ者などいくらでも居る。……私と月も、そうだったという事だ」
「ですが……!」
半兵衛が口にした答えに納得できぬ様子の久勝だったが、彼が諦め混じりの表情で静かに頭を振ったのを見て、躊躇いながら口を噤む。
ふたりの間を、気まずい沈黙が流れた。
――と、
「……昌幸」
それまで黙ってふたりのやり取りを見ていた信繁が、不意に声を上げる。
「あ……は、はいっ!」
急に名を呼ばれた昌幸は、慌てた様子で返事をした。
そんな彼に顔だけ向けた信繁は、静かな声で訊ねる。
「……斎藤方に、竹中殿の奥方の身柄をこちらに渡してもらうよう交渉する事は出来ぬか?」
「え……っ?」
信繁の問いかけに、昌幸は激しい狼狽を見せた。
いつもの彼らしからぬ反応に、信繁は訝しげな顔をする。
「……どうした?」
「あ……い、いえ……その……」
「……やはり、何事かあるのか? お主が先ほど口にしかけた事が、何か関係しておるのか?」
「そ、それは……あの……」
「――武田様、どうか私の事はお気になさらず」
返事に詰まる昌幸に助け舟を出したのは、半兵衛だった。
彼は、微かに首を横に振ると、その口元に力無い笑みを浮かべ、静かに言う。
「私と妻の事を案じて頂けるのは誠に有難き事ですが、そのような交渉を斎藤方に持ちかけて、今後の戦略の障りになってはいけませぬ。武藤殿も、それを重々解っていらっしゃるから、言葉を濁らせているのです。……これ以上、私事で武藤殿を困らせる訳には参りませぬ」
「い、いや……そういう訳では……」
自分の事を庇う半兵衛に、何とも言えぬ気まずげな表情を浮かべる昌幸。
本当は、斎藤家との外交交渉云々ではなく、半兵衛の妻が既にこの世に居ない事を知っているから返事に詰まっているのだが、それを今ここで正直に話す事も躊躇われる……。
一方の信繁は、「むう……」と唸って、難しい顔で顎髭を擦った。
そして、再び昌幸の方に顔を向け、思いついた新しい策を彼に諮る。
「では……些か乱暴な手段だが、佐助を使って秘かに連れ出させるのはどうだ? まるで拐かしのようだが、この際、手段を選んではおれぬ」
「い、いえ……佐助は……その、今は――」
昌幸は、信繁の言葉に激しく目を泳がせた。
それを見た信繁は、再び怪訝な表情を浮かべるが、つい先ほど彼と交わした会話を思い出し、小さく頷く。
「……ああ、そういえば、佐助には何かの裏取りをさせているのだったな」
「さ、左様に御座ります……ですから、佐助を動かすのは少々……」
「そうか……」
昌幸の答えを聞いた信繁は、少し残念そうな顔をしながら頷いた。
――と、その時、
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