甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

密事と密使

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 「ところで、お屋形様……」

 顔を上げた信繁は、口元に手の甲を当てて軽い咳をする信玄に向けて声をかけた。

「ひとつお伺いしたいのですが、宜しいですか?」
「うむ……」

 弟の問いかけに、信玄は手の甲を懐紙で拭き取りながら頷く。

「訊きたい事とは何だ、典厩?」
「は……」

 信玄に促され、信繁は軽く頭を下げてから言葉を継いだ。

「他でも御座いませぬ。此度の急な帰陣の御命……何故でしょうか?」
「む……」

 信繁の問いに、信玄は表情を僅かに引き締める。
 彼は、丸めた懐紙を奥近習の曽根昌世に手渡し、それから信廉の方に目を向けた。

「……何だ、逍遥。お前、まだあの事を典厩に話していなかったのか?」
「あ……申し訳御座りませぬ」

 呆れ混じりの信玄の言葉に、信廉は辟易しながら頭を掻く。

「ついつい話しそびれておりました。……いや、忘れていた訳では御座らぬよ。ただ、斎藤家からの降将である竹中半兵衛たちも居合わせておる場で、今はまだ譜代の臣たちにも伏せている例の件を明かして良いものか、些か迷いましてな」
「……まあ、そういえば、確かにそうか」

 信廉の釈明に、信玄は納得した様子で言った。
 信玄の言葉に、上座からは見えぬようにこっそり安堵の息を吐いている信廉の顔を横目で見ながら、信繁は訝しげな声を上げる。

「……『今はまだ譜代の臣たちにも伏せている』? それは、一体何故でしょうか?」
「……うむ」

 信繁の問いかけに小さく頷いた信玄は、「それはな……」と言いながら、昌幸をちらりと見た。
 その視線に気付いた昌幸は、ハッとして腰を浮かせる。

「……ならば、拙者は席を外した方が宜しいでしょうね」
「……そうだな」

 昌幸の言葉に、義信が頷いた。

「お主には悪いが、この件は、ここに居る曽根内匠助以外の臣にはまだ伏せておってな。親族衆の中でも、私や逍遥様くらいしか知らぬのだ。だから、お主にも――」
「……いや」

 義信の言葉を途中で遮ったのは、信玄だった。
 彼は飲み干した茶碗を置きながら、首を左右に振り、言葉を継ぐ。

「源五郎になら、知られても構わぬであろう。ここで知った事をベラベラと吹聴するような口の軽い男ではないしな」

 そう言うと、彼は苦笑いを浮かべながら、「それに……」と続けた。

「……ここで席を外させたところで、此奴はどうにかしてあの件の事を探り出そうとするに決まってるしな。例えば……あの“猿飛”とかいう名の乱破を遣って、とかな」
「さすがはお屋形様」

 信玄の言葉に、昌幸は不敵な笑みを浮かべながら頷いた。

「拙者の考えを全てお見通しのようで、この昌幸、いたく感服いたしました」
「否定するどころか、認めるのか……」

 昌幸のしたり顔に、義信は思わず呆れ声を漏らした。
 そんな彼に「まあまあ」と声をかけた信廉は、信繁に目を向けてニヤリと微笑わらいかける。

「大丈夫ですぞ。源五郎は、典厩様の言う事なら素直に聞きますからな。典厩様が一言『漏らすな』と命じれば、石仏よりも固く黙しましょうぞ」
「逍遥様は良く解っておられる」

 昌幸は、揶揄い混じりの信廉の言葉にもあっさりと首肯してみせた。
 そんな彼の不敵な返答に思わず吹き出した信繁は、信玄に向かって苦笑してみせる。

「……そういう事のようです。昌幸には、後で某が固く口止めしておきますので、どうぞそのままお続け下され」
「うむ、相分かった」

 信繁の言葉に軽く頷き返した信玄は、気を取り直すように咳払いをしてから、口を開いた。

「……典厩よ。お主は、一条院門跡であらせられる覚慶様の事を存じておるか?」
「覚慶様……はい」

 信玄の問いかけに、信繁は小さく頷く。

「確か……さきの公方様 (足利義輝)の御舎弟……」
「うむ。その御方だ」

 信繁の答えに満足げに微笑んだ信玄は、指で顎髭を撫でながら問いを重ねた。

「では……去る五月の変事 (足利義輝暗殺事件)の後、覚慶様がどうなったかも知っておるな?」
「はい。確か……七月に、三好三人衆の目を掻い潜って、幽閉されていた興福寺を脱出して近江へ逃れたと聞いております」
「その通りだ」
「……その覚慶様が、某を美濃から呼び戻した事と係わりがあるという事ですか」
「ああ」

 信玄は、信繁の言葉に頷き、言葉を継ぐ。

「……先月の事だ。快川かいせん和尚から報せが参ったのだ」

 ――快川和尚とは、永禄七年 (西暦1564年)に信玄が美濃崇福寺から招いた高僧・快川紹喜の事である。
 今は、塩山えんざん (現在の山梨県甲州市塩山小屋敷)にある恵林寺の住職を務めている。

「快川和尚は何と?」
「ひとりの男と会ってほしい――と」

 信繁の問いにそう答えた信玄は、やにわに目を鋭くさせた。
 そんな兄の表情から、これから彼が口にしようとしている事の重大さを感じ取った信繁も緊張し、おずおずと尋ねる。

「その男……一体、どのような者なのですか?」
「――近江におわす覚慶様から送られてきた密使だ」
「「……!」」

 信玄の答えに、信繁と昌幸は息を呑み、思わず顔を見合わせた。
 そんな二人の反応を見て、僅かに口の端を緩めた信玄は、ちらりと奥近習の曽根昌世に目配せする。
 無言で頷いた昌世が静かに部屋を辞するのを見送りながら、信玄は信繁に言った。

「ついては、副将のお主にも、一度その密使と会ってもらいたくてな。それでわざわざ美濃から呼び戻した訳だ」
「……そういう事でしたか」

 信玄の説明に納得した信繁は、軽く頭を下げる。

「相分かり申した。それで……その密使殿とは、いつお会いすれば?」
「実は、今日その男を躑躅ヶ崎館ここに呼んでおる」

 そう答えてニヤリと笑った信玄は、襖の向こうに向けて声をかけた。

「――孫次郎!」
「はっ。ただ今」

 短い応えと共に襖が開き、曽根昌世が部屋の中に入ってくる。
 と、見知らぬ顔の壮年の男が、彼の後ろに続いて部屋に足を踏み入れた。

(おそらく、この者が覚慶様の密使……)

 そう考えながら、信繁は壮年の男に油断の無い目を向ける。
 壮年の男は、部屋の下座に腰を下ろし、信玄に向けて深々と頭を下げた。

「武田大膳大夫様、此の度は御目通りをお許し頂きまして、誠に有難う御座ります」
「うむ、御役目大儀である」

 男の挨拶に対し、鷹揚に頷いた信玄は、信繁の顔を一瞥してから言葉を継ぐ。

「……今日は、儂の弟で、当家の副将格でもある典厩が同席しておる。改めて名乗られるが宜しかろう」
「はっ」

 信玄に促され、男は顔を上げた。
 ――年齢は四十ほどだろうか。額が広く、怜悧な顔立ちをしている。
 一目見て、相当に頭の切れる男だと分かった。

「武田典厩様、お初にお目にかかります」

 そう涼やかな声で言った男は、切れ長の目を信繁に向け、己の名を名乗る。

「近江矢島御所より、覚慶様の御使いとして罷り越しました、明智十兵衛光秀と申します。――以後お見知りおきを」
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