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第二部八章 使者
使者と出自
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「明智……」
足利覚慶より遣わされた使者――明智十兵衛光秀が名乗った苗字に、信繁はピクリと眉を上げた。
だが、まずは彼に向けて両手をついて頭を下げる。
「――こちらこそ、お初にお目にかかります。武田左馬助信繁に御座る」
「拙者は、典厩様の与力を務めております、武藤喜兵衛昌幸に御座ります」
信繁に倣って、昌幸も深々と頭を垂れた。
ふたりの名乗りにゆっくりと会釈した光秀は、薄い口髭を生やした口元に微笑みを浮かべる。
「此度の美濃での戦における典厩様の御活躍は、近江の地にも届いておりました。矢島御所におわす覚慶様も、阿修羅の如き戦いぶりだと感嘆しておられましたよ」
「某の事が、前の公方様の弟君の耳にまで届いているとは……恐縮の至りに御座います」
光秀の言葉を聞いた信繁は、照れくさそうに表情を緩めた。もちろん、彼の言葉には社交辞令が多分に含まれているのだろうから、額面通りに受け取るつもりはないが、それでも悪い気はしなかった。
――そう考えたところで、彼はハッとする。
たった一言だけだったが、自分が光秀の言葉を『悪い気はしなかった』と肯定的に受け止めていた事に気付いたからだ。
それは、自分が無意識に光秀の事を好印象を抱いた――いや、抱くように知らず知らずのうちに誘導されていた事に他ならない。
初対面で相手に好意的な印象を抱かせる事が出来れば、以後の交渉を自分の方に有利に進められるものだ。
だが、ただのお世辞や社交辞令を囀るだけでは、相手は容易に自分の事を好意的には見てくれない。言葉遣いや声の調子、ひとつひとつの挙措や動作という複数の要素が相俟つ事で、相手の印象を操る事が可能となるのだ。
つまり、『交渉相手に好印象を抱かせるように仕向ける』というのは、対外折衝を行う者が身につけておくべき“技術”なのである。
信繁は、和やかな表情を見せている光秀が、その技術を極めて高い水準で身につけている有能な男だと確信した。
(……さすが、前公方の弟君が密使として差し向けるだけの事はある)
心の中でそう考えながら、信繁は光秀の術中に易々と嵌らないよう、今一度気を引き締める。
そして、彼の名を聞いた時にふと頭を過ぎった事を、さりげなく本人にぶつけてみた。
「明智殿……つかぬ事をお伺いするが、貴殿は美濃の出ですか?」
「ええ」
信繁の問いかけに、光秀は小さく頷く。
「仰る通り、私は美濃明智城 (現在の岐阜県可児市)の生まれです」
光秀は少し表情を曇らせ、それから言葉を続けた。
「……弘治二年 (西暦1556年)の長良川の戦いで斎藤道三公について戦いましたが、時運なく敗れ、その際に明智城も新九郎 (斎藤義龍)殿の軍に攻め落とされ、一族も離散した為、止む無く越前に逃れました」
彼はそう言うと、当時の事を思い出したように目を瞑り、静かに息を吐く。
そして、目を開けると、落ち着いた声で話を続けた。
「越前では朝倉左衛門督様 (義景)にお仕えしておりましたが、去る七月に覚慶様が興福寺を脱して近江に移った事を知って、その元に馳せ参じた次第です」
「成程……」
光秀の身の上を聞いた信繁は、小さく頷いた。
「いや、申し訳ない。貴殿の姓を聞いて、美濃に明智城という城があった事を思い出し、もしや所縁のある方かと思って尋ねただけに御座います。お気を悪くなされたのなら、何卒ご容赦を……」
「いえいえ、構いませぬ」
頭を下げる信繁に、光秀は微笑を湛えながら首を横に振る。
と、
「明智は……確か、土岐氏一族……」
「はい」
それまで黙っていた昌幸が漏らした呟きを耳聡く聞きつけ、光秀は小さく頷いた。
「我が明智家は、土岐氏支流に御座います。……まあ、代々美濃守護職を務めてきた土岐氏の支流とはいっても、美濃国内における力は大して強くなく、先ほども申しました通り、一族のほとんどは弘治二年の戦いで新九郎殿に滅ぼされました。つまり私は、明智氏最後の生き残りという訳でして……」
「……成程。そういう繋がりですか」
光秀の答えを聞いた信繁は、腑に落ちたといった顔で顎を撫でる。
「確か、快川和尚も美濃土岐氏の出だったはず。その縁で和尚が……」
「御明察の通りに御座ります」
信繁の言葉に、光秀は微笑みながら答えた。
「快川和尚とは以前から面識があり、同じ土岐氏一族という事もあって、何かと親しくさせて頂いておりました。此度も、その誼で信玄公に口利きをして頂いた次第です」
そう言った光秀は、こほんと空咳をしてから、改まった様子で信繁に言う。
「……私の事はこのくらいにして、そろそろ本題に移りとうございますが……宜しいでしょうか?」
「あ……これは失礼仕った」
光秀の言葉に、信繁は姿勢を正した。
そして、彼の顔を真っ直ぐに見つめながら、静かな声で言う。
「それでは、伺うとしよう……本題とやらを」
「恐れ入ります」
信繁に促された光秀は、軽く会釈をしてから話を切り出した。
「典厩様は、今年の五月に京で起こった件をご存じに御座いましょう」
「……無論」
光秀の言葉に、信繁は表情を曇らせながら頷く。
「……去る五月十九日、三好三人衆や松永弾正久秀らが二条御所を急襲し、前の公方様 (足利義輝)の事を弑逆した……そう聞いております」
「その通りに御座います」
信繁の答えに軽く頷き返した光秀は、「では――」と続けた。
「前の公方様の弟君にあらせられる覚慶様の事は、如何でしょうか?」
「……正直、あまり詳しくは存じませぬ」
光秀の問いかけに、信繁は小さく首を横に振ってみせる。
「……七月に幽閉されていた興福寺を脱して、近江に移られたと伺っておりますが……その後の事は分かりませぬ。今は矢島御所という場所にいらっしゃる事も、ついさっきの明智殿のお言葉で初めて知った次第で……」
「典厩様が御存知ないのは無理も御座いませぬ。何せ、覚慶様の御座所は、つい最近まで固く秘められておりましたから」
信繁の答えに、光秀は苦笑を浮かべながら言った。
そんな彼に向けて、昌幸が口を開く。
「……つい最近まで秘められていたという覚慶様の居所を、今明智殿が口にしたという事は……つまり、以前までとは状況が変わったという事ですか?」
「その通り」
昌幸の言葉に、光秀は小さく頷き、それからやにわに表情を引き締めた。
「――今から、その“状況の変化”についてお話いたします」
足利覚慶より遣わされた使者――明智十兵衛光秀が名乗った苗字に、信繁はピクリと眉を上げた。
だが、まずは彼に向けて両手をついて頭を下げる。
「――こちらこそ、お初にお目にかかります。武田左馬助信繁に御座る」
「拙者は、典厩様の与力を務めております、武藤喜兵衛昌幸に御座ります」
信繁に倣って、昌幸も深々と頭を垂れた。
ふたりの名乗りにゆっくりと会釈した光秀は、薄い口髭を生やした口元に微笑みを浮かべる。
「此度の美濃での戦における典厩様の御活躍は、近江の地にも届いておりました。矢島御所におわす覚慶様も、阿修羅の如き戦いぶりだと感嘆しておられましたよ」
「某の事が、前の公方様の弟君の耳にまで届いているとは……恐縮の至りに御座います」
光秀の言葉を聞いた信繁は、照れくさそうに表情を緩めた。もちろん、彼の言葉には社交辞令が多分に含まれているのだろうから、額面通りに受け取るつもりはないが、それでも悪い気はしなかった。
――そう考えたところで、彼はハッとする。
たった一言だけだったが、自分が光秀の言葉を『悪い気はしなかった』と肯定的に受け止めていた事に気付いたからだ。
それは、自分が無意識に光秀の事を好印象を抱いた――いや、抱くように知らず知らずのうちに誘導されていた事に他ならない。
初対面で相手に好意的な印象を抱かせる事が出来れば、以後の交渉を自分の方に有利に進められるものだ。
だが、ただのお世辞や社交辞令を囀るだけでは、相手は容易に自分の事を好意的には見てくれない。言葉遣いや声の調子、ひとつひとつの挙措や動作という複数の要素が相俟つ事で、相手の印象を操る事が可能となるのだ。
つまり、『交渉相手に好印象を抱かせるように仕向ける』というのは、対外折衝を行う者が身につけておくべき“技術”なのである。
信繁は、和やかな表情を見せている光秀が、その技術を極めて高い水準で身につけている有能な男だと確信した。
(……さすが、前公方の弟君が密使として差し向けるだけの事はある)
心の中でそう考えながら、信繁は光秀の術中に易々と嵌らないよう、今一度気を引き締める。
そして、彼の名を聞いた時にふと頭を過ぎった事を、さりげなく本人にぶつけてみた。
「明智殿……つかぬ事をお伺いするが、貴殿は美濃の出ですか?」
「ええ」
信繁の問いかけに、光秀は小さく頷く。
「仰る通り、私は美濃明智城 (現在の岐阜県可児市)の生まれです」
光秀は少し表情を曇らせ、それから言葉を続けた。
「……弘治二年 (西暦1556年)の長良川の戦いで斎藤道三公について戦いましたが、時運なく敗れ、その際に明智城も新九郎 (斎藤義龍)殿の軍に攻め落とされ、一族も離散した為、止む無く越前に逃れました」
彼はそう言うと、当時の事を思い出したように目を瞑り、静かに息を吐く。
そして、目を開けると、落ち着いた声で話を続けた。
「越前では朝倉左衛門督様 (義景)にお仕えしておりましたが、去る七月に覚慶様が興福寺を脱して近江に移った事を知って、その元に馳せ参じた次第です」
「成程……」
光秀の身の上を聞いた信繁は、小さく頷いた。
「いや、申し訳ない。貴殿の姓を聞いて、美濃に明智城という城があった事を思い出し、もしや所縁のある方かと思って尋ねただけに御座います。お気を悪くなされたのなら、何卒ご容赦を……」
「いえいえ、構いませぬ」
頭を下げる信繁に、光秀は微笑を湛えながら首を横に振る。
と、
「明智は……確か、土岐氏一族……」
「はい」
それまで黙っていた昌幸が漏らした呟きを耳聡く聞きつけ、光秀は小さく頷いた。
「我が明智家は、土岐氏支流に御座います。……まあ、代々美濃守護職を務めてきた土岐氏の支流とはいっても、美濃国内における力は大して強くなく、先ほども申しました通り、一族のほとんどは弘治二年の戦いで新九郎殿に滅ぼされました。つまり私は、明智氏最後の生き残りという訳でして……」
「……成程。そういう繋がりですか」
光秀の答えを聞いた信繁は、腑に落ちたといった顔で顎を撫でる。
「確か、快川和尚も美濃土岐氏の出だったはず。その縁で和尚が……」
「御明察の通りに御座ります」
信繁の言葉に、光秀は微笑みながら答えた。
「快川和尚とは以前から面識があり、同じ土岐氏一族という事もあって、何かと親しくさせて頂いておりました。此度も、その誼で信玄公に口利きをして頂いた次第です」
そう言った光秀は、こほんと空咳をしてから、改まった様子で信繁に言う。
「……私の事はこのくらいにして、そろそろ本題に移りとうございますが……宜しいでしょうか?」
「あ……これは失礼仕った」
光秀の言葉に、信繁は姿勢を正した。
そして、彼の顔を真っ直ぐに見つめながら、静かな声で言う。
「それでは、伺うとしよう……本題とやらを」
「恐れ入ります」
信繁に促された光秀は、軽く会釈をしてから話を切り出した。
「典厩様は、今年の五月に京で起こった件をご存じに御座いましょう」
「……無論」
光秀の言葉に、信繁は表情を曇らせながら頷く。
「……去る五月十九日、三好三人衆や松永弾正久秀らが二条御所を急襲し、前の公方様 (足利義輝)の事を弑逆した……そう聞いております」
「その通りに御座います」
信繁の答えに軽く頷き返した光秀は、「では――」と続けた。
「前の公方様の弟君にあらせられる覚慶様の事は、如何でしょうか?」
「……正直、あまり詳しくは存じませぬ」
光秀の問いかけに、信繁は小さく首を横に振ってみせる。
「……七月に幽閉されていた興福寺を脱して、近江に移られたと伺っておりますが……その後の事は分かりませぬ。今は矢島御所という場所にいらっしゃる事も、ついさっきの明智殿のお言葉で初めて知った次第で……」
「典厩様が御存知ないのは無理も御座いませぬ。何せ、覚慶様の御座所は、つい最近まで固く秘められておりましたから」
信繁の答えに、光秀は苦笑を浮かべながら言った。
そんな彼に向けて、昌幸が口を開く。
「……つい最近まで秘められていたという覚慶様の居所を、今明智殿が口にしたという事は……つまり、以前までとは状況が変わったという事ですか?」
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