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第二章 サンクトルまで何ケイム?

諦念と執念

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 飛び出してきたジャスミンは、手にしたスコップを振りかぶって、落とし穴に落ちたアズール・タイガーへと躍りかかる。
 落とし穴へ転落した時に、頭を強く打って脳震盪を起こしたのか、アズール・タイガーの動きは鈍い。

「おうらあああああっ!」

 ジャスミンは大きなかけ声を上げ、巨大な虎の眉間を目がけて、渾身の力を込めてスコップを振り下ろす。
 “ゴッ!”という鈍い音がし、アズール・タイガーの眼球が上ずる。
 ジャスミンは手を休めない。蒼虎の眉間だけを狙って、集中的に打撃を与え続ける。
 やがて――。
 13回目の打撃で、アズール・タイガーがぐるんとひっくり返り、足をふらつかせた後、遂に力尽きて横倒しに倒れる。
 ビクンビクンと身体を痙攣させていたが……、やがて動かなくなった。

「……や、や……」
「よっしゃあ~ッ! 何だかでっかい虎を、獲ったどおおおおっ!」

 パームの歓声を遮り、ジャスミンは大きくガッツポーズを取ったが、

「でも、疲れたぁぁぁっ!」

 と、叫んで、ゴロンと、大の字になって地面に寝転んだ。
 パームは、呆気に取られて、今の激闘を見守っていた。そして、驚愕していた。

「……本当に、こんな罠で狩猟に成功するとは……」

 しかも、半ば伝説の存在と化している猛獣・アズール・タイガーを……である。

「――と、そんな事はどうでも良くて……。ジャスミンさん! 早くこの縄を解いて下さい!」

 パームは、浮かれるジャスミンに訴えかけた。

「あー、ハイハイ。――あ、でも、もう少し粘れば、もう一匹くらいかかるかも――」
「ジャスミンさんッ!」
「あー、ジョーダンだよ、ジョーダン……チッ」
「舌打ちしましたよね、今! め……目が本気でしたよ……」

 ジャスミンは、頬を膨らませながらパームの元に来て、彼の身体を縛るロープの結び目に手を掛ける。

「……せっかく苦労して落とし穴掘ったのに……」
「だったら、今度は自分が囮になればいいじゃないですか……」
「えー? 俺? 無理無理! 俺には、そんなSMシュミ無いし~」
「僕にもありませんよ!」

 ジャスミンにツッコみながら、パームの目は、落とし穴のアズール・タイガーに釘付けになっていた。
 ――と、

「………あれれ~? おかしいな……」

 パームの身体を縛るロープに手をかけたジャスミンの口から、何やら不穏な呟きが漏れた。
 それを耳聡く聞き取ったパームが、恐る恐る尋ねる。

「……ど、どうしたんですか、ジャスミンさん」
「……何か解けない……。いや、でも、ここを引っ張れば直ぐに解けるって、SM嬢のチャミンが言ってたんだけど……おかしいな……どんどん結び目がきつく締まる……」
「ちょ、大丈夫なんですか?」

 ロープの結び目に悪戦苦闘するジャスミンに、凄まじい不安を覚えるパーム。

「ゴチャゴチャ言うな! 気が散るから!」

 苛々して怒鳴るジャスミン。だが、焦れば焦る程、ロープの結び目はきつくきつく締まってしまう。

「……ジャスミンさん、もう解くのは諦めて、ナタかナイフでロープを切った方が……」
「だから、気が散るって! …………ほら! 少し緩んだ! この調子で――」
「――! じゃ……ジャ、ジャスミンさん……!」
五月蠅うるせえなぁっ! だから気が散るって言ってるだろが!」
「ジャス……ミン……さん! 後ろ! 後ろーッ!」
「あ? 後ろ? 何だよ……何があ――」

 パームの、あまりの剣幕に、訝しみながら後ろを振り返る。
 ……ジャスミンの目に、眉間から血を流し、憎悪に溢れギラギラとした光を目に宿した蒼い虎の姿が――!

「……あ、あら~……」

 ジャスミンは、顔を引き攣らせ、

「死んでなかったんですか~……お早いお目覚めで――ッ」

 言い終わる間もなく、彼の身体は、横薙ぎに吹っ飛ばされた。

「――! ジャ、ジャスミンさんッ!」

 パームは、絶叫した。吹っ飛んだジャスミンの身体は、落とし穴の盛り土に激突し、飛び散る土と共に、落とし穴の下へ消える。
 アズール・タイガーは、ジャスミンを吹き飛ばした右前足の爪に付着した彼の血をベロリと舐め――、
 そして、パームの方に振り返った!

「あ……あ……!」

 恐怖で声が出ない。アズール・タイガーが舌なめずりをしながら、悠々とパームに向かって近づいてきたからだ。
 ――どうやら、アズール・タイガーの第一目標は、パームの方らしい。

「――くっ、この……! もう……少し……!」

 パームは、必死にロープから抜けようとする……が、やっとの思いで自由になったのは、わずかに右腕だけ。太いロープは依然、パームの身体を拘束し続けている。
 アズール・タイガーは、そんな彼の姿を愉快そうに見下ろしながら、ゆっくりと近付いていく。
 ――そして、蒼い虎の巨大な顔が、パームの目の前に。
 涎をダラダラ流した口元からは鋭い牙が覗き、生臭い息が、彼の顔にかかった。
 ――絶体絶命。
 パームは、観念し、ギュッと目を瞑る――。
 その時、

「こぉんにゃろうがあぁァァっ!」

 目を閉じた彼の耳に、絶叫と鈍い打撃音が聴こえた。

「……え?」

 パームは、恐る恐る目を開く。
 必死の形相で、スコップを振り回し、アズール・タイガーの背中を殴打し続ける男の姿が目に飛び込んできた。
 パームは、驚きで目を見開きながら絶叫した。

「ジャスミンさんッ!」
「待ってろ! 今ロープ解いて助けてやるからな!」

 切り裂かれたジャスミンのシャツの胸には、じわじわと赤い血が滲み出ている。
 だが彼は、痛みに顔を歪めながらも、スコップを振り下ろす腕を止めない。

「い、いいです! ジャスミンさんだけでも……逃げて下さい!」
「は――?」
「僕は……もういいですから……」
「馬鹿野郎!」

 ジャスミンは怒鳴りつけた。

「何をさっさと諦めているんだ! 最後まで希望を捨てるな! 足掻け!」
「…………!」
「神様にお願いするのは、死んでからゆっくりとすればいいんだ! でもな、息をしている内は、生き延びる事だけを考えろ……潔すぎても、良い事は無いんだよ!」
「――でも……」
「でもも何も無い! んな暇があったら手を動か――!」

 ジャスミンの言葉は途中で途切れた。彼の執拗な打擲ちょうちゃくに苛立ったアズール・タイガーが放った、尻尾の強烈な一振りが、彼を再び吹き飛ばしたのだ。

「ジャスミンさんッ!」

 悲鳴のようなパームの呼びかけにも、ジャスミンは応えられない。その顔を苦痛に歪めて、唸るだけだ。
 アズール・タイガーは、そんな瀕死のジャスミンの様子を一瞥し――

 パームの方へ向き直り、まるで嗤うかのように――
 ニイッと、その牙を剥いた。
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