病弱令嬢の戦略

二合 富由美(ふあい ふゆみ)

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07 絵師とトイレ事情

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「町も臭いましたが、室内も想像以上の悪臭でしたわ」

 馬車に戻ったエリーシアは、ハンカチで口元を押さえていた。
 流石に当人達の前ではマナー違反なので、耐えてはいたが。

 毎日の清掃と着替えをするバルド邸と違い、町は汚物清掃も不十分だし、服などは下着も含めて数ヶ月同じものが当たり前の世界だ。

「理由は分かりますが、やはり御嬢様にはおすすめできないですね」
「でも、領地の現状を知る為には、わたくし自身も我慢や努力が必要でしょ」

 馬車に同乗している側仕えが具申するが、御嬢様の決意も固いらしい。
 【影】としては主の目的と方向性が分かって、内心は安心している。

「細かい予定は部下が打ち合わせを行っていますので、後で御嬢様に御報告いたします」
「御父様に迷惑が掛からない範囲で、早い時期にできるだけ多く見て回りたいわ」

 最高権力者と言えども、地位があるほどスケジュール管理まで自分でできるものではない。

「お急ぎとは思いますが、明日の午前中は絵師のモデルになって頂きます。側仕えはライルとファイアットでございますので」
「あの二人では抜けれないわね。たまには【貴族の勤め】もしないといけないし、仕方ないわ」

 階級社会のつきあい方には、謁見や社交界、パーティや会合などがある。
 謁見などに限らないが、一番の失礼は相手の地位や名前を間違える事だ。
 その場で紹介はされるが、複数人居る場合は直ぐ様覚えきれるとは限らない。
 本人にソノ気がなくても、上位に対しては勿論、下位の者を間違えても【軽く見ている】や【敵視している】と相手や周囲に思われてしまうのだ。

 交通機関の未発達により頻繁に会えず、写真やビデオなどの映像技術の無い世界では、この為に【絵師】が活躍する事となる。

 未成年者の様に交流の無い者は、似顔絵を用いて関係者の顔と名前を予習するしか無い。
 似顔絵が出回っていない場合は、主の会合などに絵師が同行し、当人を見るか屋敷の肖像画を見てこっそりスケッチしている。

 それ以外にも、自分達の栄華を後世に残す為に絵師の育成と雇用に尽力する貴族は少なくない。
 屋敷のエントランスには家主の肖像画が飾られているのが常識だ。
 つまりは、絵師の仕事は貴族などの肖像画を描く事に始まる。

「今日は、絵師の弟子も参加致します」
「絵師の育成があるね」

 最初から上手い絵師など居ない。
 練習なら誰がモデルになっても練習になると思われがちだが、ある程度の技術を持っていても、人物画を描く際には同じ人物を何度も描く事で、その精度が高まる。
 肖像画は誇張や美化が激しすぎると、虚栄心があると思われて当人の評価が下がるので、何度も描いて塩梅を見定める必要もある。
 そして、その様な絵師の育成も貴族の義務である。

 さて、エリーシアが警戒するライルとファイアットは、成人したての分家次男坊と三男坊だ。
 エリーシアの婿養子候補として父親のフェラルドがエリーシアに付けた側仕えなので、下手に弱味を握っても父親に告げ口される恐れがある人物なのだ。

「明日の午後はマナー教育がなかったかしら?」
「今日の外出もありますので『体調が悪くなった』と称して、それを短く切り上げて寝込めば夕方までは時間が取れると存じます」

 日頃は【病弱】として寝ているので、エリーシアのやるべき事は溜まりに溜まっているのだった。
 しかし、最低限の事ができなければ社交界などで家名に泥を塗り、父親に迷惑を掛ける事になる。

 だが、そうやって無理をして再度寝込む事も、これまでやっていたので、今回はソレを使って外出する予定だ。

「ララーシャが身代りで、御嬢様の寝床に入ります」
「あの、金髪の分家の娘ね?」
「この件は、医者のオーベルにも伝えておきます」

 王子様や御姫様が美しいのは、そういった美形をバルドから嫁がせた品種改良によるものだ。
 この国では、アーバン王族と親戚であるバルドバルドを金髪で統一している。
 下級貴族になるほと金髪率は低下するが、貴族であれば問題は無い。
 ただ、平民に金髪が産まれると『不敬だ』『傲慢だ』と処分される事がある。

 先のライルとファイアットもバルドに婿養子に入る見込なので、当然だが金髪の者が多くの分家から選別されて呼ばれている。

 別の国では、また別の髪色で王族を統一している場合もあるのだけど。

「明日の話になりますが、モデルをしながら、これまで覚えていただいたアーバンや側近、大臣などの復習を行います」
「まぁ、ただ座って動かないモデルよりは退屈しなさそうね」
「その後は、他のバルドの方々を覚えて頂かないとなりませんから」

 御嬢様には常に側仕えが付いているので、パーティなどでは耳打ちして教えてくれるが、ソレができない状況もあるので自力での学習が必要となる。

「貴族って子供に優しくないわよねぇ。平民はこんな苦労はないのでしょ?」
「平民の子供には、その分だけ厳しい肉体労働の義務があったり、ひもじい毎日が有るのです。【持てる者の義務】として御励おはげみ下さい」
「そうだったわね」

  先日、スラム近くで見た浮浪者は、痩せていて死んだ様に動かなかった。
 実際に死んでいたのかも知れない。
 自由に思えた平民の子供や若者も、外で遊んではいなかった。

 目的があったとは言え、本当は命の危険もなく半日以上寝て暮らし、労働も飢えもないエリーシアは本当に恵まれているのだ。

「取りあえず、今日は気分が良かったので【馬車で街並みを眺めてきた】という事にしておきましょうか」
「仰せのままに」

 【病弱な御嬢様】にも、それなりに苦労はあるらしかった。

「午後のマナー教育までに、外出に丁度良い部屋着とコートを用意いたしておきます」
「いっその事、使用人服でも良くってよ。あの服は寝間着みたいに、一人で御不浄トイレに行けるから普段も使いたいんだけど?」
「地位のある方が、あの様な服を常用してはなりません。御不浄では、私共がちゃんとお拭き致しますので」

 中世の貴族女性の服装には二種類ある。
 一つは部屋着や寝間着に使われる、現在のワンピースと同種の物。
 もう一つは外出やパーティ等で着られる晴れ着タイプの物で、中世貴族女性を描いた絵画に多いスカートの裾が大きく開いたドレスだ。
 中には、下半身が半球形になった物も少なくはない。

 これは見栄えを良くする為の骨組みボーンが入ったクリノリン/クレムリンと呼ばれるもので、その内側にはパニエなどはなく空洞で、すぐに下着となっている。

 このクリノリンは、螺旋状になっていて上下に伸縮性のあるタイプも有るが、多くはしっかりとした変形しない物だったらしい。
 当時のクリノリン用トイレは、箱や丸椅子状の物でスカートの中にスッポリ入れてしまって、座って用を足していたと言う。
 ショーツも股割れの物で、特に脱がずに利用できた。
 しかし、どのタイプもボーンが邪魔で自分では使用後の拭き取りができないので、侍女に拭いてもらうしかない。
 『出物腫れ物所構わず』と言うので、貴族女性が常に侍女を従えているのは、そう言った理由があるのだろう。
 クリノリンを使用したドレスを着る様な貴婦人が単身で外出すると、そうそうトイレができないのだ。

 まぁ、貴婦人が護衛や侍女を引き連れないで外出や外食などしないものだが。
 もし、貴婦人が単身で徘徊していたら、必ず拉致されて身の代金を要求されるか、身ぐるみ剥がされて、持ち物を売り飛ばされるだろう。

 先日のエリーシアは一人に見えていても、実は数人(十数人)の護衛などが付いていた。
 今回も馬車二台に護衛と使用人付き。
 これが本来の地位ある者の外出なのだ。

 そうして、昼前には屋敷へと戻ったエリーシア達だった。
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