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六章

15、湯宿【1】

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 ああ、よかったです。蒼一郎さんの心臓がお悪いわけではなくて。
 わたしは、蒼一郎さんが手綱を握る馬に乗ってほっとしました。
 乗馬が苦手な人は、馬子が馬を引き、のんびりと坂を上るのですが。

 蒼一郎さんは、ご自分の前にわたしを乗せて馬を走らせたのです。
 荷物を掛けた馬は、馬子が旅館まで引いてくれることになりまた。

 いつもよりも高い視線。遠くまで見渡せて、温泉街が山に囲まれているのがよく分かるの。
 清流から、もくもくと湯気が上がっているんです。

「この川は温泉なんやで」
「入ってもいいんですか?」
「……橋を渡ったり、道を歩く人から丸見えやけど。それでも絲さんがええんやったら、無理には止めへんで」

 蒼一郎さんの言葉に、わたしはぶんぶんと首を振りました。

「嘘やで。ほんまは全力で止める。絲さんの裸を見てええんは俺だけやからな」

 炭酸煎餅を売るお土産物屋さんを越え、ほどなくして着いた旅館は老舗の別館でした。

「この温泉街は基本的には外湯やねんけど。あっちが本温泉。橋の向こうに見えるんが高等温泉。家族風呂やな」

 蒼一郎さんは説明してくださいますが。温泉の仕組みの分からないわたしには、何のことやらさっぱりです。

「まぁ、絲さんが泊まるとこは、旅館に内湯があるから。わざわざ温泉街まで出て外湯に入りに行かんでもええということや」
「はぁ」
「でも、どうしても外の温泉に入りたいんやったら、高等温泉にしとき。せやないと一緒に入られへんから」

 ぼんやりとしか分かりませんが。とりあえず、一人で女湯に入るというのはなさそうです。
 少し興味はあったのですが。

 旅館の仲居さんが案内してくださる別館は、川のほとりのとても静かな場所に建っていました。
 磨き上げられた廊下も階段の手すりも黒光りするほどで、荘厳な雰囲気に緊張します。

 しかもお部屋に女将さんがご挨拶にいらして。蒼一郎さんは慣れていらっしゃるようですが。わたしはどきどきです。

「三條さんが、お嬢さんを連れて泊りにいらっしゃるなんて。珍しいですね」
「まぁ、今後も世話になると思うわ」
「あら。もうそんなにお話が進んでいるんですか? 素敵ですね。ぜひ、今後もご家族でいらしてくださいな」

 女将さんと蒼一郎さんは話が弾んでいます。背筋を伸ばして正座しているわたしは、お茶の入った湯呑みに手を伸ばすことも出来ず。
 女學院の院長先生よりも緊張するんです。

「絲さん、大丈夫か?」

 女将さんや仲居さんがお部屋を出て行ってから、わたしはぱたんと畳に倒れてしまいました。

「大丈夫か? やっぱり長いこと汽車に揺られたから、疲れたんやろな」
「いえ、その……」

 緊張しすぎだなんて言えません。

 だって、これまで泊まったことがあるのは西洋風のホテルだけですもの。
 こんな風にお部屋まで支配人が挨拶に来るなんて、当然ないですし。
 ホテルのロビーでは、お爺さまやお父さまに支配人がご挨拶なさっていましたが。わたしはロビーのソファーに座って、遠くから眺めているだけでよかったの。

 ふかふかのお座布団を枕代わりに、わたしは横になりました。
 立派な格子天井。側を流れる川面が光に煌めいて、きらきらと天井に反射しています。
 まるで水の中にいるみたい。

 鳥の声も、三條のお家よりもよく聞こえて。それに種類も多いみたい。
 テッペンカケタカと鳴くあの鳥は、何だったかしら。

 そんなわたしを、座卓に着いた蒼一郎さんが眺めていらっしゃいます。
 それも、にこにこしながら。

「楽しいですか?」
「うん。楽しいで。絲さんと二人っきりやからな」

 確かにお家では、しょっちゅうお部屋に波多野さん達が入ってきます。お庭にも常に誰かがいますし。
 波多野さんと森内さんも、同じ別館に泊まっているはずですが。
 蒼一郎さんが呼ばない限りは、来ないそうです。
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