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一章
2、颱風の夜【2】
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「堅気のお嬢さんがヤクザを怖がるのなんか、はっきりしとうやん。せやから、こんな仕事は面倒で嫌やったのに」
名原と名乗った男性は、天井をあおいでため息をつきます。
仕事。それはこの家を手に入れて、売却すること。それ以外にありません。
「待ってください。せめて今夜だけは。こんな颱風の中に放り出されては、わたし、生きていけません」
「へ?」
「なんでしたら土下座をしますから」
敢えて暴風雨の夜に立ち退かせるなんて。
ああ、こんな舶来の手拭いに心を奪われたわたしは、なんと愚かなのでしょう。
手拭いを頭から外すと、湿った黒髪が顔に張りつきました。
畳の上で土下座なんて、きっと許してはもらえないわ。縁側でも無理。
わたしは重い雨戸を力任せに開き、少し開いた隙間から表へと飛び出しました。
「おいっ。なにしとんねん。早よ入ってき」
背後から聞こえる名原さんの声が、風の音にかき消されます。
強烈に叩きつける雨は痛く、肌がひりひりするほど。
踏み石から降り、わたしは裸足のままで庭に出ます。そして正座しました。
もう、目を開けていられないほどの雨です。前栽の木々は轟轟と恐ろしい音を立てていますし、遠くでは雷の音も聞こえています。
「どうか……どうか、この颱風が去るまでは……後生ですから、この家にいさせてください」
雨の重さと痛さに、自然と頭が下がります。
庭の土が着物をべったりと汚し、そして地面につけたわたしの髪にもひたいにも泥が付着します。
苔のような黴臭いにおい。
ああ、一晩雨風をしのぐために、こんな惨めな思いをしないといけないなんて。
水しぶきをあげる水たまり。指の爪の間に泥が入り込んで、それでも頭を下げないといけないなんて。
「ええから、戻ってき」
「お願いです。約束をしてください、今夜は追い出さないと」
「そんなん気にせんでええから。とにかく戻れって」
「金欠で貧しい小娘の言葉など、聞く耳をお持ちでないかもしれませんが。それでも重ねてお願いします。
「金欠って……そら、そう言うたけど。自分で言いなや」
雨で滲む視界の中、明滅する部屋を背景に名原さんは今にも泣きそうな顔をしていました。
でも、きっとそれは見間違いね。だって退去を迫るヤクザなんですもの。
再び土下座をしていると、ざっざっという音が近づいてきました。
地面に近い位置の視界に、ずぶ濡れのズボンが見えます。
「貴世子ってゆうたな。強情な子ぉやな。入れって言うとうやろ」
「でも、約束がまだ」
「そんな約束、ようせんわ」
ひどい。なんて鬼畜なの。
わたしは唇を噛みしめました。
いつかは出て行かなければならないと覚悟を決めていました。でも、それがこんな野分の夜でなくてもいいではないですか。
どこまで馬鹿にするんですか。返済能力もない娘に対する慈悲など無用なんですね。
「ほんまに困ったお嬢ちゃんやで」
そう言うと名原さんは、わたしをひょいと抱き上げました。
「かっるいなー。ろくなもん食べてへんのやろ」
「離してくださいっ。もうあなたとは話したくもないです」
「はいはい。口はきかんでもええから。中に入ろな、貴世子ちゃん」
どんなに暴れても、彼の髪を引っ張っても離してくれません。「痛い、痛い。禿げるやろ」と雨に濡れながら不敵に笑ってるんです。
そういえば、どうしたわたしの名前を知っているのかしら。
家族のことを調べ上げた時に、覚えたのかしら。
家族……その言葉に、わたしは胸がきりりと痛みました。
頬を流れるのは雨なのか涙なのか、分かりません。
颱風は南方からやってくるというもの。きっとこの温かな水は、颱風の雨なのよ。
お父さまの会社が倒産し、金策に苦労した両親は心労のあまりこの世を去り。遺されたわたしは、この家を担保にするという証書と借用金証書の両方を、銀行からつきつけられたのです。
「大変申し上げにくいことですが。当時よりも地価が下がっておりまして、この家と土地だけでは借金の完済は難しいのです」
当時、銀行から来たという男は、口を鎌の刃のように鋭く歪めて笑いました。
名原と名乗った男性は、天井をあおいでため息をつきます。
仕事。それはこの家を手に入れて、売却すること。それ以外にありません。
「待ってください。せめて今夜だけは。こんな颱風の中に放り出されては、わたし、生きていけません」
「へ?」
「なんでしたら土下座をしますから」
敢えて暴風雨の夜に立ち退かせるなんて。
ああ、こんな舶来の手拭いに心を奪われたわたしは、なんと愚かなのでしょう。
手拭いを頭から外すと、湿った黒髪が顔に張りつきました。
畳の上で土下座なんて、きっと許してはもらえないわ。縁側でも無理。
わたしは重い雨戸を力任せに開き、少し開いた隙間から表へと飛び出しました。
「おいっ。なにしとんねん。早よ入ってき」
背後から聞こえる名原さんの声が、風の音にかき消されます。
強烈に叩きつける雨は痛く、肌がひりひりするほど。
踏み石から降り、わたしは裸足のままで庭に出ます。そして正座しました。
もう、目を開けていられないほどの雨です。前栽の木々は轟轟と恐ろしい音を立てていますし、遠くでは雷の音も聞こえています。
「どうか……どうか、この颱風が去るまでは……後生ですから、この家にいさせてください」
雨の重さと痛さに、自然と頭が下がります。
庭の土が着物をべったりと汚し、そして地面につけたわたしの髪にもひたいにも泥が付着します。
苔のような黴臭いにおい。
ああ、一晩雨風をしのぐために、こんな惨めな思いをしないといけないなんて。
水しぶきをあげる水たまり。指の爪の間に泥が入り込んで、それでも頭を下げないといけないなんて。
「ええから、戻ってき」
「お願いです。約束をしてください、今夜は追い出さないと」
「そんなん気にせんでええから。とにかく戻れって」
「金欠で貧しい小娘の言葉など、聞く耳をお持ちでないかもしれませんが。それでも重ねてお願いします。
「金欠って……そら、そう言うたけど。自分で言いなや」
雨で滲む視界の中、明滅する部屋を背景に名原さんは今にも泣きそうな顔をしていました。
でも、きっとそれは見間違いね。だって退去を迫るヤクザなんですもの。
再び土下座をしていると、ざっざっという音が近づいてきました。
地面に近い位置の視界に、ずぶ濡れのズボンが見えます。
「貴世子ってゆうたな。強情な子ぉやな。入れって言うとうやろ」
「でも、約束がまだ」
「そんな約束、ようせんわ」
ひどい。なんて鬼畜なの。
わたしは唇を噛みしめました。
いつかは出て行かなければならないと覚悟を決めていました。でも、それがこんな野分の夜でなくてもいいではないですか。
どこまで馬鹿にするんですか。返済能力もない娘に対する慈悲など無用なんですね。
「ほんまに困ったお嬢ちゃんやで」
そう言うと名原さんは、わたしをひょいと抱き上げました。
「かっるいなー。ろくなもん食べてへんのやろ」
「離してくださいっ。もうあなたとは話したくもないです」
「はいはい。口はきかんでもええから。中に入ろな、貴世子ちゃん」
どんなに暴れても、彼の髪を引っ張っても離してくれません。「痛い、痛い。禿げるやろ」と雨に濡れながら不敵に笑ってるんです。
そういえば、どうしたわたしの名前を知っているのかしら。
家族のことを調べ上げた時に、覚えたのかしら。
家族……その言葉に、わたしは胸がきりりと痛みました。
頬を流れるのは雨なのか涙なのか、分かりません。
颱風は南方からやってくるというもの。きっとこの温かな水は、颱風の雨なのよ。
お父さまの会社が倒産し、金策に苦労した両親は心労のあまりこの世を去り。遺されたわたしは、この家を担保にするという証書と借用金証書の両方を、銀行からつきつけられたのです。
「大変申し上げにくいことですが。当時よりも地価が下がっておりまして、この家と土地だけでは借金の完済は難しいのです」
当時、銀行から来たという男は、口を鎌の刃のように鋭く歪めて笑いました。
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