【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

文字の大きさ
2 / 247
一章

1、売られてしまいました

 時は、大正。
 わたくし、笠井翠子かさいみどりこは座敷で正座したまま、おろおろと辺りを見回しました。

 瓦葺きの屋根のある大きな門をくぐり、使用人に案内されたのは広い座敷でした。
 床の間には白い葉の半夏生が生けられ、畳の青いにおいが清々しい部屋です。濡れ縁越しに日本庭園と、さらに反対側には中庭まであります。
 
 わたくしは、座布団に正座して、風呂敷包みを抱きかかえました。
 今日、着ているのは小袖の着物です。くせのない黒髪を背中に垂らし、後頭部に近いあたりは藤色のリボンで結んでいます。
 女学生にありがちな姿です。

 女学生ではあるのですが、果たして今までのように学校に通えるのでしょうか。
 持参した風呂敷包みには、大事なものや教科書が入っているのですが。

「わたくしは、この先、お屋敷で下働きとしてこき使われるのですよね。ならば教科書など必要なかったですね」

 それに女学校の友達に会えなくなるのも残念です。
 もっとも女中となったわたくしが、令嬢である友人たちと机を並べるなど有り得ないことですが。

「翠子さんは、もう来ているのか?」
「はい、旦那さま。奥の座敷にいらっしゃいます」

 ふいに、話し声と共に足音が聞こえました。
 旦那さまということは、わたくしを買った方ですね。

(もしかすると、ひと肌脱げば、背中に倶利伽羅紋々くりからもんもんを彫った恐ろしい任侠かもしれません。仕事で粗相そそうでもしたら、いったいどうなることか)

 頭に浮かんだ恐ろしい考えを、無理やり振り払います。
 大丈夫。門を入ってから、強面の若い衆には一人として会っていません。
 
 それに旦那さまがどんな素性であっても、文句は言えません。家族と従業員が路頭に迷わずに済むのなら、それで充分なのですから。

 下働きとしてこき使われても、掃除でも料理でも洗濯でも、なんでもしてみせましょう。

 実家の笠井家は事業が失敗し、多額の借金を抱えこみました。
 そんな折、負債よりも多額の金額でわたくしをもらい受ける申し出があったのです。
 父と母は、泣いてわたくしに頭を下げました。まだ幼い弟は、なんのことか分からずに母の腕にすがっておりました。

 断れるはずがありませんよね。わたくし一人が決意するだけで、多くの人が救えるのですから。

「ようこそ、我が家へ。笠井翠子さん」
「今日からよろしくお願いします。旦那さま、できうる限りの仕事はさせていただきます。掃除でもなんでもお申し付けくださいませ」
 
 わたくしは慌てて頭を下げました。それはもう、畳にひたいがつくほどに。座布団を敷いていなければ、まるで土下座ですね。

「顔を上げなさい、翠子さん。あなたを下働きとして我が家に迎えたわけではないのだから」

 思いもかけずに優しい声で話しかけられ、わたくしは顔を上げました。
 驚くと、人はぽかんと口を開くものですね。
 たいそう間抜けに見えたでしょうが、それくらいびっくりしたのです。

「高瀬先生」

 わたくしの前に立っていたのは、高瀬たかせ欧之丞おうのすけ先生でした。
 数学の教師であり、学級の担任。女性教師の多い女学校では、数少ない男性教師です。
 しかも高瀬先生は帝大卒のエリートだと、皆が噂しておりました。

 先生は大学時代は山岳部に所属していたこともあり、背が高くて引き締まった体躯です。なのに黒髪を撫でつけた姿が理知的だという生徒もいます。
 
「あの、どうして高瀬先生が? 旦那さまはどちらにいらっしゃるんですか?」
「俺がこの家の当主だが。普通に座りなさい、翠子さん」
「先生が?」
「まぁ、これでももう三十歳を過ぎているからな」

 いえ、そういうことが訊きたいのではありません。
 つまりわたくしは先生のお宅で、働くのですね。

 その時、胸中に沸き起こった感覚を、なんと呼べばいいのでしょうか。
 うちの負債と従業員の生活を補って余りある資産家である先生が、相手が生徒と知ってお金で買った。
 その現実に恥辱と惨めさと、悔しさがない交ぜになって。なのに、まったく知らない相手ではないことに、ほんの少しの安心感もあり。
 
 自分の感情に名前が付けられないことなど、初めてでした。

 わたくしの向かいに座布団を敷いて、高瀬先生はお座りになりました。
 自宅だからでしょう、正座ではなく足を崩しておいでです。
 学校では開襟シャツにズボンという姿ですが、今日の先生は着流しに羽織をまとっています。

 ふと、違和感に気付きました。
 学校では先生は、わたくしのことは「笠井さん」と呼んでおられるのに。今は名前で呼ばれております。
「翠子さん」という呼称は、親しい友人が使うものです。
感想 10

あなたにおすすめの小説

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

【完結】女当主は義弟の手で花開く

はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!? 恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。 ※他サイトにも掲載しています。

黒の神官と夜のお世話役

苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました

人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている

井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。 それはもう深く愛していた。 変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。 これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。 全3章、1日1章更新、完結済 ※特に物語と言う物語はありません ※オチもありません ※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。 ※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。