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二章
8、思い出【2】
家に戻り、幼い翠子さんを玄関の上がり框に座らせて、草履を脱がせてやった。
「直る?」
「まぁ、応急処置だけどな。新しい草履だし、履物店に持って行った方がいいだろう」
しかし小さな草履だ。こんなの、俺はつま先も入らないぞ。
適当な布を裂いて、ちまちまと鼻緒を直してやる。
「あらまぁ、お坊ちゃん。言ってくだされば、私がやりますのに」
「お坊ちゃんじゃない」
女中のお清がしゃがみこんで声をかけてくる。まったく大学生にもなった男に「お坊ちゃん」はないだろう。
「お兄ちゃんは、お坊ちゃんなの?」
「違うっ」
「ふぇ」と、翠子さんが泣きべそをかいた。
しまった。俺は顔が怖いというか、表情が険しいから。ついでに声を荒げたのもまずかった。
「あー、えっと。お兄さんは、この家の主なんだよ」
「主って、お父さまのこと? 翠子のお父さまは『笠井家の主だから』ってよく言ってるよ」
「お父さんってほど年は取ってないし、子どももいないんだが。参ったな」
ちまちまと布を拠りながら、俺は頭を掻いた。
するとお清が、俺の手から布と草履を取り上げた。
「参ったのは、こちらですよ。早くお子さまをもうけてくだされば、この高瀬家も安泰ですのに」
「あのな。結婚もしていないのに、子どもができる方が大問題だろうが」
「そもそも恋人もいなければ、お見合いも断ってしまう。お坊ちゃまは結婚なさる気がないのでしょうか」
「別に女性に興味などない」
「また、そんなことを仰る」
高瀬家の主と使用人が言い合っている姿を、翠子さんは興味深そうに眺めていた。
だが、ふと俺の手に目をとめた。
「お兄ちゃん、怪我してる。大丈夫?」
小さな両手が、俺の右手に触れた。手の甲や手首に残る古い傷跡を、細い指がそっと撫でた。
「痛くはないんだ、もう」
「もうってことは、前は痛かったの?」
間近で見上げてくる黒い瞳は、少し陰りを帯びて。心から、俺のことを案じてくれていると分かった。
「叩かれてね。乗馬の鞭って分かるかな」
俺の言葉に、翠子さんは顔をひきつらせた。
「お父さまが持ってるよ。翠子がそれで遊んでた時に、すごく怒られたの。危ないから、痛いからって、取り上げられた」
「そうだな。間違えて人を叩いたりしたら、本当に危険だな」
間違えても痛いのだ。悪意を持って叩き続ければ、子どもの皮膚などすぐに裂けてしまう。
かつて血まみれになった自分の手を、俺は見つめた。
お清の心配そうな視線を感じる。
翠子さんは無言で、俺の手の傷を撫でた。いたわるように、とても優しく。
子どもの頃に母に折檻された傷は、今も引き攣れて醜い。母はすでに亡いし、怪我は治っているが。二十歳を過ぎても女性との交際を考えないほどに、まだ傷は残っている。
「ほら、できましたよ」
「わぁ、ありがとう」
俺の苦い思い出は、翠子さんの明るい声でかき消された。
「じゃあ、俺が家まで送って行こう」
そう告げると、なぜかお清に睨まれた。なぜだ。紳士的な発言だったぞ、今のは。
「今日はおやつにぜんざいを作ったんですよ。翠子さんと仰ったわね、おやつ食べたいですよね?」
「うん。食べたい」
「じゃあ、お清が温かいお茶も淹れてあげましょうね。鼻緒も直せない坊ちゃんは、本当に気が利かないこと。こんな寒い玄関で待たせて、そのまま家に帰すなんてねぇ」
肩越しに振り返ったお清が、ちらっと俺を見る。
さっさといらっしゃい、という意味だろう。
なんで俺は、怒られてるんだ?
「直る?」
「まぁ、応急処置だけどな。新しい草履だし、履物店に持って行った方がいいだろう」
しかし小さな草履だ。こんなの、俺はつま先も入らないぞ。
適当な布を裂いて、ちまちまと鼻緒を直してやる。
「あらまぁ、お坊ちゃん。言ってくだされば、私がやりますのに」
「お坊ちゃんじゃない」
女中のお清がしゃがみこんで声をかけてくる。まったく大学生にもなった男に「お坊ちゃん」はないだろう。
「お兄ちゃんは、お坊ちゃんなの?」
「違うっ」
「ふぇ」と、翠子さんが泣きべそをかいた。
しまった。俺は顔が怖いというか、表情が険しいから。ついでに声を荒げたのもまずかった。
「あー、えっと。お兄さんは、この家の主なんだよ」
「主って、お父さまのこと? 翠子のお父さまは『笠井家の主だから』ってよく言ってるよ」
「お父さんってほど年は取ってないし、子どももいないんだが。参ったな」
ちまちまと布を拠りながら、俺は頭を掻いた。
するとお清が、俺の手から布と草履を取り上げた。
「参ったのは、こちらですよ。早くお子さまをもうけてくだされば、この高瀬家も安泰ですのに」
「あのな。結婚もしていないのに、子どもができる方が大問題だろうが」
「そもそも恋人もいなければ、お見合いも断ってしまう。お坊ちゃまは結婚なさる気がないのでしょうか」
「別に女性に興味などない」
「また、そんなことを仰る」
高瀬家の主と使用人が言い合っている姿を、翠子さんは興味深そうに眺めていた。
だが、ふと俺の手に目をとめた。
「お兄ちゃん、怪我してる。大丈夫?」
小さな両手が、俺の右手に触れた。手の甲や手首に残る古い傷跡を、細い指がそっと撫でた。
「痛くはないんだ、もう」
「もうってことは、前は痛かったの?」
間近で見上げてくる黒い瞳は、少し陰りを帯びて。心から、俺のことを案じてくれていると分かった。
「叩かれてね。乗馬の鞭って分かるかな」
俺の言葉に、翠子さんは顔をひきつらせた。
「お父さまが持ってるよ。翠子がそれで遊んでた時に、すごく怒られたの。危ないから、痛いからって、取り上げられた」
「そうだな。間違えて人を叩いたりしたら、本当に危険だな」
間違えても痛いのだ。悪意を持って叩き続ければ、子どもの皮膚などすぐに裂けてしまう。
かつて血まみれになった自分の手を、俺は見つめた。
お清の心配そうな視線を感じる。
翠子さんは無言で、俺の手の傷を撫でた。いたわるように、とても優しく。
子どもの頃に母に折檻された傷は、今も引き攣れて醜い。母はすでに亡いし、怪我は治っているが。二十歳を過ぎても女性との交際を考えないほどに、まだ傷は残っている。
「ほら、できましたよ」
「わぁ、ありがとう」
俺の苦い思い出は、翠子さんの明るい声でかき消された。
「じゃあ、俺が家まで送って行こう」
そう告げると、なぜかお清に睨まれた。なぜだ。紳士的な発言だったぞ、今のは。
「今日はおやつにぜんざいを作ったんですよ。翠子さんと仰ったわね、おやつ食べたいですよね?」
「うん。食べたい」
「じゃあ、お清が温かいお茶も淹れてあげましょうね。鼻緒も直せない坊ちゃんは、本当に気が利かないこと。こんな寒い玄関で待たせて、そのまま家に帰すなんてねぇ」
肩越しに振り返ったお清が、ちらっと俺を見る。
さっさといらっしゃい、という意味だろう。
なんで俺は、怒られてるんだ?
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