【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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五章

1、お帰りになるまでに

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 梅雨が明け、空がからりと晴れ渡るようになりました。
 学校では相変わらず……と申しますか、むしろ以前よりも高瀬先生は厳しいです。

 わたくしの居残り勉強は、もはや日常となってしまいました。
 なんでも、落第でもしようものなら、その分卒業が延びてしまう。そうなれば結婚も遅れるし、お清が嘆くに決まっていると言われているのですから。

 でも、日々の勉強の甲斐あって、最近は数学の点数が少し上がってきたのです。

「わたくしも、やればできるものですね」

 放課後の教室で、問題に取り組んでいたわたくしは、かたわらに立つ高瀬先生を見上げました。
 わたくしは得意顔なのですが、先生は唇を引き結んで、渋い表情をなさっています。

「ここまで付きっきりでみっちりと指導して、それで成績が上がらないはずがない」
「褒めてくださらないのですか?」
「う……っ」

 先生は口ごもりました。ですが、すぐに見上げるわたくしから視線を逸らせます。

「ああ、もうこんな時間か」

 先生は壁に掛けられた時計を見遣ります。どうやらこれから会議だそうで、わたくしに先に帰宅するように促します。

「一人でも大丈夫だな?」
「はい。帰りますけど」
「何か言いたげだな」

 わたくしは風呂敷にお書物を包みながら、やはり先生をじーっと見つめます。
 もちろん愛想のいい人でないのは重々承知です。けれど、やはり苦手な数学を頑張ったのでご褒美が欲しいのです。
 物でも形でもなく、心が華やぐような言葉一つでいいのです。

 とはいえ、褒め言葉を強要するのは間違っていますよね。

「いえ、何でもありませんよ。先生のご帰宅は遅くなりますか?」
「うーん。議題をさっさと進めれば、たいして時間もかからないはずなんだが。会議というのは無駄な時間が多すぎるし、意味もなく反対する輩もいるし、すぐに話は横にそれるし……」
「要するに、お嫌いなんですね」
「その分、あなたとの時間が減るのが嫌なんだ」

 他に誰もいないとはいえ、ここは教室ですのに。わたくしは、恥ずかしくなりました。思わず風呂敷包みを持ち上げて、顔を隠してしまいました。
 なのに先生は、わたくしの頭に手を置いて撫でてくださいます。

「まぁ、根を上げずに頑張っていると思うぞ。これなら数学は落第することはないだろう」
「本当ですか?」

 待ち焦がれた褒め言葉は、まるで煌めく薔薇水晶を散りばめたかのように、夕方の教室を彩ります。
 自分でも気づかぬ内に、笑みがこぼれていました。
 先生もつられてしまったのか、柔らかに微笑んでいらっしゃいます。

 いつまでも頭を撫でていてもらいたいと思いつつも、先生の会議の時間が迫っているので、わたくしは大きな背中を見送りながら、学校を後にしました。

 梅雨が明けたとはいえ、蒸し暑さは変わりません。海が近いせいで、湿気が多いのでしょうか。
 こんな時は、かつて高原の別荘で夏を過ごしていた頃を思い出します。

 高瀬邸に戻りながら、ふと明日の写生大会で使う絵の具と筆がないことに気づきました。
 教科書と帳面などは高瀬邸に持参していましたし、裁縫道具はお清さんに借りていましたが。

「絵の具は……さすがに先生のお宅にはないですよね」

 実家には画材がそのまま置いてあるのですが。先生に一人で勝手に出かけてはいけないと、初日に命じられていたのを思い出しました。
 それに、今更わたくしが笠井家に顔を出しても、家族も困惑するでしょうし良くないですよね。

「画材屋さんに行って、必要なものだけ買ってきましょう」

 そうと決まれば、早く戻って海岸通りのお店に向かわねばなりません。先生の帰宅を待っていたら、店が閉まってしまいます。
 大丈夫。お清さんに伝言するか、書き置きを残しておけば先生も怒ることはないでしょう。

「お帰りなさいまし。あら、今日は翠子さんだけなんですねぇ」
「ただいま、お清さん。先生は会議なんです」

 帰宅したわたくしを、お清さんが割烹着で手を拭きながら迎えてくれました。
 暑気払いにと、冷やしあめを用意してくれます。

「おやつは、すぐに召し上がりますか? それともお着替えになってから?」
「ありがとう、お清さん。でも、これから画材屋さんに行くんです。絵の具がなくって。今は冷やしあめだけ頂きますね」

「あぁ。会議となればお坊ちゃ……いえ、欧之丞さまの帰宅も遅いでしょうし。お店も閉まってしまいますね」

 うーん、とまるで将棋盤に向かって長考するように、ふっくらしたあごに手をかけていたお清さんは、顔を上げました。

「お一人で出かけるのも危ないですし。そうだ、銀司ぎんじをつけましょうか」
「いえ、でも。銀司さんもお仕事があるのでしょう。わたくしに構っていては、仕事が溜まってしまいます」
「ですけどねぇ。昼間ならいざ知らず、海岸通りにはお酒を出す店もありますから。お清は不安ですよ」
「大丈夫。すぐに戻ってきます」

 お行儀は悪いですが、急いでいるわたくしは冷やしあめを玄関先でいただいて、そのまま家を出ました。
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