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六章
1、週末
土曜日の朝。空は抜けるような青さでした。どこかの家の塀から、まばゆい橙色の花がこぼれるように咲き誇っています。
濃い緑の葉と蔓。それに夏の太陽を凝縮したような花は、まるで南国を思わせます。
「凌霄花です。きれいですね。この花が咲くと夏が来たって気がします」
先生と並んで、わたくしは登校しています。家の前の小路は人通りもほとんどありませんから、こうして一緒に歩くのも可能です。
大通りになれば少し離れなければならないし、先生は先輩方に囲まれたりするので、少し寂しいですが。
我儘はいけませんね。
「そんな名前の花だったのか。翠子さんは花の名前に詳しいんだな」
「先生はご存じないのですか?」
「庭木はあまり。高山植物なら、ある程度は分かるが。学生の頃は週末に山に登ったりしていたからな」
週末。
その単語にわたくしの心臓は飛び跳ねました。
――次の休みの前夜は眠らせないよ。覚悟しておきなさい。
そう先生は仰いました。それって週末のことです。つまり今日なのです。
覚悟って何なのでしょう。まさかまた縛られてしまうのでは。
姿見の鏡台に映った淫らな自分の姿を想像し、わたくしは瞼をきつく閉じました。
「大丈夫?」
「ひゃっ」
急に先生に声をかけられて、心臓どころか体まで飛び跳ねてしまいました。こんな様子で、半日授業を受けられるのでしょうか。
先生は少し考え込むように首をかしげましたが、すぐに「ああ」と何か思いついたようでした。
いや、思いつかないでください。わたくしの頭の中を読まないでください。
後生ですからやめてください。
朝日を背にして先生がわたくしの前に立つので、視界が陰に閉ざされます。
まるでわたくしの周囲だけ、宵が降りてきたような心地でした。
「今夜はあなたの初めてをもらう。いいね」
それだけ仰ると、先生はすぐに歩きはじめました。一瞬の宵は、まるで幻のようでした。
ですが先生の低く囁く声は、今も耳に残っています。
幻などではないのです。
◇◇◇
土曜日なので学校は半日なのですが、何の授業を受けたのかさっぱり覚えていません。
いつもの石垣で座りながら、葉だけになった紫陽花にすっぽりと埋もれて、先生の帰りを待ちます。
確か英語の宿題が出ていたはず、と英和辞典を開くのですが。ぱらぱらとめくっていると「S」の辺りで手が止まり、顔がかーっと熱くなりました。
いえ、偶然なのです。何も破廉恥なことを考えているわけではないのです。
「何度も訊くが。大丈夫か?」
「ひゃ!」
急に声をかけられて、わたくしは膝に置いていた辞書を地面に落としてしまいました。
いつの間にいらしたのでしょう。先生が目の前に立っています。
「そんな緊張しなくとも」
「いえ、緊張なんて。そんな」
先生は辞書を拾って土を払い、手渡してくださいます。その時、指が触れ合いました。少しひんやりとした指です。この指が……。
ああ、また妙なことを考えてしまいました。わたくしは慌てて手を引っ込めます。
「翠子さん。意識しすぎだ」
「は……はい」
「それから今夜と言ったが、あれは前言撤回だ」
あ、今夜は無しということですね。
少しほっとしました。
これまで散々先生に愛されてきたというのに。いざ、本当に枕を交わすとなると緊張しますし、決意もつきかねます。
「よかったです」
「何を誤解しているんだ? 人の話は最後まで聞きなさい」
はい?
「今夜ではなく、午後からに変更だ」
ひゃ……っ。
わたくしの悲鳴は声にはなりませんでした。
「翠子さん?」
先生が覗きこんでくるので、思わず顔を背けてしまいました。
無理です。恥ずかしいです。
頬も耳も首も、全部が熱くて。体が火照ります。
わたくしの顔は、きっと凌霄花のような色に染まっていることでしょう。
お願い。こんな翠子を見ないで。
濃い緑の葉と蔓。それに夏の太陽を凝縮したような花は、まるで南国を思わせます。
「凌霄花です。きれいですね。この花が咲くと夏が来たって気がします」
先生と並んで、わたくしは登校しています。家の前の小路は人通りもほとんどありませんから、こうして一緒に歩くのも可能です。
大通りになれば少し離れなければならないし、先生は先輩方に囲まれたりするので、少し寂しいですが。
我儘はいけませんね。
「そんな名前の花だったのか。翠子さんは花の名前に詳しいんだな」
「先生はご存じないのですか?」
「庭木はあまり。高山植物なら、ある程度は分かるが。学生の頃は週末に山に登ったりしていたからな」
週末。
その単語にわたくしの心臓は飛び跳ねました。
――次の休みの前夜は眠らせないよ。覚悟しておきなさい。
そう先生は仰いました。それって週末のことです。つまり今日なのです。
覚悟って何なのでしょう。まさかまた縛られてしまうのでは。
姿見の鏡台に映った淫らな自分の姿を想像し、わたくしは瞼をきつく閉じました。
「大丈夫?」
「ひゃっ」
急に先生に声をかけられて、心臓どころか体まで飛び跳ねてしまいました。こんな様子で、半日授業を受けられるのでしょうか。
先生は少し考え込むように首をかしげましたが、すぐに「ああ」と何か思いついたようでした。
いや、思いつかないでください。わたくしの頭の中を読まないでください。
後生ですからやめてください。
朝日を背にして先生がわたくしの前に立つので、視界が陰に閉ざされます。
まるでわたくしの周囲だけ、宵が降りてきたような心地でした。
「今夜はあなたの初めてをもらう。いいね」
それだけ仰ると、先生はすぐに歩きはじめました。一瞬の宵は、まるで幻のようでした。
ですが先生の低く囁く声は、今も耳に残っています。
幻などではないのです。
◇◇◇
土曜日なので学校は半日なのですが、何の授業を受けたのかさっぱり覚えていません。
いつもの石垣で座りながら、葉だけになった紫陽花にすっぽりと埋もれて、先生の帰りを待ちます。
確か英語の宿題が出ていたはず、と英和辞典を開くのですが。ぱらぱらとめくっていると「S」の辺りで手が止まり、顔がかーっと熱くなりました。
いえ、偶然なのです。何も破廉恥なことを考えているわけではないのです。
「何度も訊くが。大丈夫か?」
「ひゃ!」
急に声をかけられて、わたくしは膝に置いていた辞書を地面に落としてしまいました。
いつの間にいらしたのでしょう。先生が目の前に立っています。
「そんな緊張しなくとも」
「いえ、緊張なんて。そんな」
先生は辞書を拾って土を払い、手渡してくださいます。その時、指が触れ合いました。少しひんやりとした指です。この指が……。
ああ、また妙なことを考えてしまいました。わたくしは慌てて手を引っ込めます。
「翠子さん。意識しすぎだ」
「は……はい」
「それから今夜と言ったが、あれは前言撤回だ」
あ、今夜は無しということですね。
少しほっとしました。
これまで散々先生に愛されてきたというのに。いざ、本当に枕を交わすとなると緊張しますし、決意もつきかねます。
「よかったです」
「何を誤解しているんだ? 人の話は最後まで聞きなさい」
はい?
「今夜ではなく、午後からに変更だ」
ひゃ……っ。
わたくしの悲鳴は声にはなりませんでした。
「翠子さん?」
先生が覗きこんでくるので、思わず顔を背けてしまいました。
無理です。恥ずかしいです。
頬も耳も首も、全部が熱くて。体が火照ります。
わたくしの顔は、きっと凌霄花のような色に染まっていることでしょう。
お願い。こんな翠子を見ないで。
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