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六章
14、カスタードパイ
森を散策したわたくし達は、開けた道に出ました。
山上にあるいくつかのホテルに車で来られる方のための道です。土を固めた道は森の小道よりも歩きやすいですが、風情に欠けるのは仕方ありませんね。
小さな駅があると思えば、それは架空索道のものだそうです。
空中に金属のロープが渡され、そこに人の乗る箱がぶらりと下がっている様子は、何とも心もとなく恐ろしいです。
だって大勢の人がぎゅう詰めになっているのに、山の斜面の地面まではたいそう距離があるんですもの。見ているだけで足がすくみます。
「帰りは架空索道にするかい?」
「いやです、絶対に無理です。ロープが切れたら、どうするんですか」
「問題ないと思うけどなぁ」
「後生ですから、ケーブルカーでお願いします」
「仕方ないなぁ、翠子さんは」と仰いながら、旦那さまはわたくしの頭を撫でました。
きっと揶揄われています。でも、あんな鉄の箱が空中でぶら下がっているのは、恐ろしくてならないんですもの。
「そこのホテルで、お茶でも飲んでいこう」
旦那さまが指さしたのは、二階建てのグレンダールホテルでした。赤い瓦屋根に白い木の壁のハイカラな建物です。下界のホテルのような重厚さはありませんが、山荘のようで愛らしいです。
グレンダールホテルの中のカフェーは、以前海岸通りで訪れたカフェーとは違い、とてもゆったりとした造りでした。
テーブルとテーブルの間も広く、壁も三面が窓になっているので、日の光に満ち溢れています。
旦那さまが椅子を引いて、わたくしを座らせてくださいました。
旦那さまはコーヒーを、わたくしは紅茶とカスタードパイを注文しました。きつね色に焼けたパイは、フォークを入れるとさっくりとした感触です。
カスタードはしっかりと甘く、パイは何層にもなって美味しいのです。
居留地の異国文化を、そのまま山上のリゾートに持ってきたような、贅沢で不思議な心地です。
「夏休みには避暑がてら、泊りに来てもいいな」
「いいんですか? とても素敵です」
温かな紅茶をいただきながら、わたくしは笑みを浮かべました。
「翠子さんと家にいるのも好きだが、こうして出かけるのも楽しいな」
「あら、旦那さまとご一緒できて楽しいのは、わたくしの方ですよ」
「それは何より」
わたくしは思い立って、カスタードパイのひとかけらを載せたフォークを、旦那さまに差し出しました。
「少し、お召し上がりになります?」
「……お召し上がりになりませんよ。お嬢さま」
おかしいですね。甘い物に慣れた方がいいと、以前仰っていた気がするのですけど。
ふいに旦那さまにフォークを奪われました。
そのままカスタードパイを召し上がるのかと思っていたら、フォークをこちらに向けられます。
「はい、翠子さん。あーん」
「え? あ、あの。ここでですか?」
わたくしは慌てて周囲を見回しました。幸い、わたくし達に注目している人はおりません。
ですが、給仕なさる方というのは、店内にくまなく目を配っておいでのはずです。
見られていないようで、見られているものなのです。
旦那さまは平然としておいでです。
なぜ平気なのですか? 大人の余裕ですか? 余裕綽々ですか?
「早くしないと、余計に恥ずかしいぞ」
急かされて、こくこくと頷くことしかできません。一瞬。そう一瞬であれば、誰にも見られずにカスタードパイを食べることができます。
なむさん。
わたくしは、旦那さまが差し出すパイを、ぱくりと口に含みました。
その時、背後からカツカツと靴が床を叩く音が聞こえました。
うわぁ、どうしましょう。
お客さま、ふざけないでください、と給仕さんに注意されるのでしょうか。
「あら、高瀬先生。こんなところで会うなんて。珍しいこと」
突然声をかけられて、わたくしは振り返りました。背後に立っていらしたのは、女学校で美術を担当なさっている皆月先生でした。
わたくしは声を出すことも、挨拶することもできませんでした。だって担任の先生と生徒が、休日に二人で山上リゾートにお出かけしているなんて、普通はありえないことです。
どう言い訳をすればいいのでしょう。旦那さま……いえ、高瀬先生はどう仰るのでしょう。
紅茶のカップを持つ右手が小刻みに震えて、テーブルに置いたソーサーに当たってカチカチと音を立てます。
「ああ、いいのよ。笠井さん。固まらなくても」
「そうだ、緊張しなくてもいい」
それはどういうことなのでしょう。困惑するわたくしをよそに、皆月先生がわたくし達のテーブルの椅子に腰かけました。
「少しばかりお邪魔させてね。あなたと高瀬先生がそういう関係なのは、分かっているし他言もしません。だから、私には隠す必要がないってことよ」
皆月先生の言葉を受けて、わたくしは恐る恐る旦那さま……いいえ、先生を窺いました。先生は「大丈夫」という風にうなずきます。
山上にあるいくつかのホテルに車で来られる方のための道です。土を固めた道は森の小道よりも歩きやすいですが、風情に欠けるのは仕方ありませんね。
小さな駅があると思えば、それは架空索道のものだそうです。
空中に金属のロープが渡され、そこに人の乗る箱がぶらりと下がっている様子は、何とも心もとなく恐ろしいです。
だって大勢の人がぎゅう詰めになっているのに、山の斜面の地面まではたいそう距離があるんですもの。見ているだけで足がすくみます。
「帰りは架空索道にするかい?」
「いやです、絶対に無理です。ロープが切れたら、どうするんですか」
「問題ないと思うけどなぁ」
「後生ですから、ケーブルカーでお願いします」
「仕方ないなぁ、翠子さんは」と仰いながら、旦那さまはわたくしの頭を撫でました。
きっと揶揄われています。でも、あんな鉄の箱が空中でぶら下がっているのは、恐ろしくてならないんですもの。
「そこのホテルで、お茶でも飲んでいこう」
旦那さまが指さしたのは、二階建てのグレンダールホテルでした。赤い瓦屋根に白い木の壁のハイカラな建物です。下界のホテルのような重厚さはありませんが、山荘のようで愛らしいです。
グレンダールホテルの中のカフェーは、以前海岸通りで訪れたカフェーとは違い、とてもゆったりとした造りでした。
テーブルとテーブルの間も広く、壁も三面が窓になっているので、日の光に満ち溢れています。
旦那さまが椅子を引いて、わたくしを座らせてくださいました。
旦那さまはコーヒーを、わたくしは紅茶とカスタードパイを注文しました。きつね色に焼けたパイは、フォークを入れるとさっくりとした感触です。
カスタードはしっかりと甘く、パイは何層にもなって美味しいのです。
居留地の異国文化を、そのまま山上のリゾートに持ってきたような、贅沢で不思議な心地です。
「夏休みには避暑がてら、泊りに来てもいいな」
「いいんですか? とても素敵です」
温かな紅茶をいただきながら、わたくしは笑みを浮かべました。
「翠子さんと家にいるのも好きだが、こうして出かけるのも楽しいな」
「あら、旦那さまとご一緒できて楽しいのは、わたくしの方ですよ」
「それは何より」
わたくしは思い立って、カスタードパイのひとかけらを載せたフォークを、旦那さまに差し出しました。
「少し、お召し上がりになります?」
「……お召し上がりになりませんよ。お嬢さま」
おかしいですね。甘い物に慣れた方がいいと、以前仰っていた気がするのですけど。
ふいに旦那さまにフォークを奪われました。
そのままカスタードパイを召し上がるのかと思っていたら、フォークをこちらに向けられます。
「はい、翠子さん。あーん」
「え? あ、あの。ここでですか?」
わたくしは慌てて周囲を見回しました。幸い、わたくし達に注目している人はおりません。
ですが、給仕なさる方というのは、店内にくまなく目を配っておいでのはずです。
見られていないようで、見られているものなのです。
旦那さまは平然としておいでです。
なぜ平気なのですか? 大人の余裕ですか? 余裕綽々ですか?
「早くしないと、余計に恥ずかしいぞ」
急かされて、こくこくと頷くことしかできません。一瞬。そう一瞬であれば、誰にも見られずにカスタードパイを食べることができます。
なむさん。
わたくしは、旦那さまが差し出すパイを、ぱくりと口に含みました。
その時、背後からカツカツと靴が床を叩く音が聞こえました。
うわぁ、どうしましょう。
お客さま、ふざけないでください、と給仕さんに注意されるのでしょうか。
「あら、高瀬先生。こんなところで会うなんて。珍しいこと」
突然声をかけられて、わたくしは振り返りました。背後に立っていらしたのは、女学校で美術を担当なさっている皆月先生でした。
わたくしは声を出すことも、挨拶することもできませんでした。だって担任の先生と生徒が、休日に二人で山上リゾートにお出かけしているなんて、普通はありえないことです。
どう言い訳をすればいいのでしょう。旦那さま……いえ、高瀬先生はどう仰るのでしょう。
紅茶のカップを持つ右手が小刻みに震えて、テーブルに置いたソーサーに当たってカチカチと音を立てます。
「ああ、いいのよ。笠井さん。固まらなくても」
「そうだ、緊張しなくてもいい」
それはどういうことなのでしょう。困惑するわたくしをよそに、皆月先生がわたくし達のテーブルの椅子に腰かけました。
「少しばかりお邪魔させてね。あなたと高瀬先生がそういう関係なのは、分かっているし他言もしません。だから、私には隠す必要がないってことよ」
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