100 / 247
七章
10、助けて
しおりを挟む
生垣の葉は、雨を受けてぱたぱたと弾けるような音を立てます。静かにと願うのに、その雨音も消してしまいたいのに。見つかれば、笠井家に引き戻されるのに。
いいえ、それどころか今度こそ置屋に売り飛ばす算段でしょうに。
ああ、どうかわたくしに気づかないで。
おじさまは、わたくしの名を呼びつつ道を行きつ戻りつしています。
枝葉の隙間から覗くと、まるで幽鬼がさまよっているかのようでした。
どうして恐ろしさに震え上がらないことがないでしょう。ぎゅっと両手を握りしめ、心の中で旦那さまを繰り返し呼びます。
ああ、でも今はまだお仕事中。学校にいらっしゃるのですから、この窮地に気づくわけがありません。
「……助けて、旦那さま」
引き結んでいたはずの唇から、耐え切れずにその言葉がこぼれた時、銀司さんがわたくしの肩に手を置いてくださいました。
「大丈夫。ちゃんと旦那さまの元へ戻してあげます」
「銀司さん」
小枝と葉に囲まれた狭い場所でしたが、銀司さんは力強くうなずきました。
そうです。この場はうまくやり過ごして、高瀬家に帰らなければなりません。
雨脚はさらに強くなりましたが、おじさまの不気味な呼び声は絶えることなく聞こえてきます。
「ぼくは旦那さまから、翠子さまを守る使命を帯びている。だからあいつがいなくなるまで、ここで身をひそめているしかないんだ」
体力に自信のある銀司さんなら、おじさまを殴り飛ばして逃げ切ることもできるでしょう。けれどわたくしがいるから……重荷になってしまっているから、銀司さんは動くことができないのです。
心苦しさに、わたくしは睫毛を伏せました。
「間違えないでください、翠子さま。悪いのはあなたではなく、あの叔父だ」
「は、はい」
「うちの旦那さまは性格も悪ければ意地も悪いし、あなたを困らせもする。けれど翠子さまに対する愛情だけは本物だ、でしょう?」
わたくしはうなずきました。
旦那さまのことを罵りながらも、銀司さんの瞳に嫌悪の色は浮かんでいません。むしろ親しいからこその軽口のようにも思えます。
旦那さまの信頼厚い銀司さんにちゃんと守られて、家まで帰ることが彼の仕事を全うすることなのです。
わたくしが自己犠牲でおじさまの前に出て行っても、何の解決にもなりはしません。
「翠子。どこだい?」
地面を叩く雨は激しさを増し、辺りが白く見えるほどです。なのに、おじさまは一向に諦める気配がありません。
もうこれ以上、翠子を利用しないでください。わたくしの縁は笠井家ではなく、高瀬家にあるのです。
旦那さま、旦那さま。欧之丞さん……わたくしの旦那さま。
雨水のつたう双手を胸の前で祈りの形に組んで、わたくしは信ずる人の名を口の中で繰り返しました。
早く旦那さまの元に戻りたいのです。旦那さまの腕に抱きしめられたいのです。
どうか……お願い、助けて。
「ああ、そんなところに隠れていたのか」
生垣を挟んで、充血した目がぎろりとわたくしを捉えていました。
わたくしは声にならない悲鳴を上げ、後ずさります。小枝が折れ、髪に絡まりました。
嫌です。やめて、来ないでください。
わたくしは無我夢中で銀司さんにしがみつきました。
「見ぃつけた」
おじさまのひょろりとした腕が、生垣に突っ込んできます。指先が、わたくしの髪に触れました。
「い、嫌っ」
抵抗しようとしても、髪を引っ張られてそれも叶いません。
いいえ、それどころか今度こそ置屋に売り飛ばす算段でしょうに。
ああ、どうかわたくしに気づかないで。
おじさまは、わたくしの名を呼びつつ道を行きつ戻りつしています。
枝葉の隙間から覗くと、まるで幽鬼がさまよっているかのようでした。
どうして恐ろしさに震え上がらないことがないでしょう。ぎゅっと両手を握りしめ、心の中で旦那さまを繰り返し呼びます。
ああ、でも今はまだお仕事中。学校にいらっしゃるのですから、この窮地に気づくわけがありません。
「……助けて、旦那さま」
引き結んでいたはずの唇から、耐え切れずにその言葉がこぼれた時、銀司さんがわたくしの肩に手を置いてくださいました。
「大丈夫。ちゃんと旦那さまの元へ戻してあげます」
「銀司さん」
小枝と葉に囲まれた狭い場所でしたが、銀司さんは力強くうなずきました。
そうです。この場はうまくやり過ごして、高瀬家に帰らなければなりません。
雨脚はさらに強くなりましたが、おじさまの不気味な呼び声は絶えることなく聞こえてきます。
「ぼくは旦那さまから、翠子さまを守る使命を帯びている。だからあいつがいなくなるまで、ここで身をひそめているしかないんだ」
体力に自信のある銀司さんなら、おじさまを殴り飛ばして逃げ切ることもできるでしょう。けれどわたくしがいるから……重荷になってしまっているから、銀司さんは動くことができないのです。
心苦しさに、わたくしは睫毛を伏せました。
「間違えないでください、翠子さま。悪いのはあなたではなく、あの叔父だ」
「は、はい」
「うちの旦那さまは性格も悪ければ意地も悪いし、あなたを困らせもする。けれど翠子さまに対する愛情だけは本物だ、でしょう?」
わたくしはうなずきました。
旦那さまのことを罵りながらも、銀司さんの瞳に嫌悪の色は浮かんでいません。むしろ親しいからこその軽口のようにも思えます。
旦那さまの信頼厚い銀司さんにちゃんと守られて、家まで帰ることが彼の仕事を全うすることなのです。
わたくしが自己犠牲でおじさまの前に出て行っても、何の解決にもなりはしません。
「翠子。どこだい?」
地面を叩く雨は激しさを増し、辺りが白く見えるほどです。なのに、おじさまは一向に諦める気配がありません。
もうこれ以上、翠子を利用しないでください。わたくしの縁は笠井家ではなく、高瀬家にあるのです。
旦那さま、旦那さま。欧之丞さん……わたくしの旦那さま。
雨水のつたう双手を胸の前で祈りの形に組んで、わたくしは信ずる人の名を口の中で繰り返しました。
早く旦那さまの元に戻りたいのです。旦那さまの腕に抱きしめられたいのです。
どうか……お願い、助けて。
「ああ、そんなところに隠れていたのか」
生垣を挟んで、充血した目がぎろりとわたくしを捉えていました。
わたくしは声にならない悲鳴を上げ、後ずさります。小枝が折れ、髪に絡まりました。
嫌です。やめて、来ないでください。
わたくしは無我夢中で銀司さんにしがみつきました。
「見ぃつけた」
おじさまのひょろりとした腕が、生垣に突っ込んできます。指先が、わたくしの髪に触れました。
「い、嫌っ」
抵抗しようとしても、髪を引っ張られてそれも叶いません。
2
あなたにおすすめの小説
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
虚弱なヤクザの駆け込み寺
菅井群青
恋愛
突然ドアが開いたとおもったらヤクザが抱えられてやってきた。
「今すぐ立てるようにしろ、さもなければ──」
「脅してる場合ですか?」
ギックリ腰ばかりを繰り返すヤクザの組長と、治療の相性が良かったために気に入られ、ヤクザ御用達の鍼灸院と化してしまった院に軟禁されてしまった女の話。
※なろう、カクヨムでも投稿
お隣さんはヤのつくご職業
古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。
残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。
元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。
……え、ちゃんとしたもん食え?
ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!!
ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ
建築基準法と物理法則なんて知りません
登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。
2020/5/26 完結
【完結】女当主は義弟の手で花開く
はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!?
恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。
※他サイトにも掲載しています。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる