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八章
7、宵祭り【5】
わたくしはグラスを握りしめたまま、お店の小僧さんのようにおろおろしてしまいました。
あれほど軽やかだったサイダーの泡は、今はぽつり……と思い出したようにしか上がっていきません。
「そうねぇ。私も先生をお誘いしても、全然だめよ。まぁ、卒業して輿入れするまでのアバンチュールですもの。先生も気楽にお遊びになればよろしいのにね」
「そうそう。ただの教師と本気で恋愛なんてするわけないじゃない」
「あれほど拒否するってことは、もしかして先生は私たちと本気の恋愛につながると考えていらっしゃるのかしら」
それはないわよねー、とお姉さま方はけらけらと楽しげに笑いました。
わたくしは全然楽しくありません。
横に座る旦那さまを見上げると、気にした様子もなく素知らぬ風情で麦酒を召し上がっています。
お店の小僧さんが瓶に入ったジュースとグラスを、お盆に載せて戻ってきました。
「なによ、ぬるいじゃない」
「気が利かないわね。暑いのよ、冷えているのをちょうだいって言ってるじゃない」
「す、すんません」
別にジュースの温度は小僧さんのせいじゃありません。なのに、どうしてきつく責めるのでしょう。
「高瀬先生は堅物よねぇ」
「でも、私たちと結婚できないから、誘いに乗らないのでしょう? 一介の教師としては分をわきまえているわね」
「あんまり誘っても可哀想かしら。夢だけ見せてもねぇ。それに私たちの結婚が決まって、しつこくされても困るわ」
もう、やめて。
わたくしは両手で耳をふさぎました。
もう聞いていられません。聞くに堪えない内容ばかりです。
先生のことを勝手に決めつけて、かわいそうがって、挙句に先生は何もしていないのに迷惑がって。
ですが、ふいに隣に座る旦那さまが、わたくしの肩に軽く手を置きました。
ご自分のことを悪く言われているのに、なぜ?
腹が立たないのですか? 悲しくならないのですか?
先輩たちが立ち去った後、旦那さまは麦酒を一息に飲み干しました。
「ありがとう、翠子さん」
「わたくしは何も」
「俺のために怒ってくれただろう?」
それはそうですけど。ただ怒っただけで、先輩に対して言い返す勇気なんてありませんでした。
ですが旦那さまは「それだけでいいんだ」と仰います。
わたくしは旦那さまの肩にもたれかかりました。
「寂しいことを仰らないでください。お姉さま……いえ、先輩たちは身勝手すぎます。旦那さまこそ、怒っていいんです」
「怒らないよ」
旦那さまの声はとても静かです。怒りを飲み込んでいる風でもありません。穏やかな凪のようで、彼女たちの言葉は旦那さまの心の水面にさざ波すら立たせていません。
「はなから彼女らには何も期待していない。だから裏切られたとも思っていない。興味がないんだよ」
「旦那さま……」
「俺は翠子さんよりも長く生きているからね。ああいうのが珍しくもないと知っている。うん、別段、珍しくないんだよ」
◇◇◇
翠子さんは、手にしたサイダーをじっと見つめている。
正直、申し訳なさはある。誰よりもあなたが俺を愛してくれているのに。公にできないから、学校では距離を取らなければならないことに。
さっきの奴らは、別に相手が俺でなくても構わない。ただ俺が、学校で毎日顔を合わせる男性だからだ。
そもそも俺のことを本当に好いているとして、真後ろにいるのに気づかぬものなのか?
俺は恋愛経験は圧倒的に不足しているが。学校でも休憩時間には、どこかに翠子さんの姿が見えぬかと目の端で探しているというのに。
ほんの少しでも、後ろ姿でも見ることができれば嬉しくて。だがまぁ、それもあって美術の皆月先生にばれたのだが。
恋とは、そういうものなのではないか?
翠子さんはなおも納得できないようで、頬を膨らませている。
「俺は甘やかされてるなぁ」
膨らんだ彼女の頬を指でつついてやると、唇から軽く空気が抜けていった。
なんだ、これ。面白いぞ。
「な、何をなさるんですか。子どもみたいに……」
また頬を膨らませるので、同じようにつついてやる。自覚のない行為だったのか、また口から、ふしゅうーと空気が洩れていく。
「やめてください。外ですよ」
「家の中ならいいのか?」
さすがに三度目はさせぬと考えたのだろう。翠子さんは唇を尖らせた。
はい、残念でした。俺は人差し指と中指で、その唇を挟んでやった。
翠子さんは、言葉にならない文句を口の中でもごもごと呟いている。
「楽しいなぁ」
「楽しくなんてありません。もう、すぐにわたくしのことを虐めるんですから」
「楽しいさ。翠子さんと一緒にいて、あなたが俺のことをかばってくれる。常に俺の味方でいてくれる」
俺は、どれほどあなたに愛してもらっているんだろう。
「さぁ、イカ焼きとラジオ焼きと、あとは綿菓子か。この辺りでは綿飴とは言わんのだな」
翠子さんの顔が、ぱあっと明るくなった。
それでいい。俺のために怒ってくれるのもいいが、あなたには笑顔が良く似合う。
あれほど軽やかだったサイダーの泡は、今はぽつり……と思い出したようにしか上がっていきません。
「そうねぇ。私も先生をお誘いしても、全然だめよ。まぁ、卒業して輿入れするまでのアバンチュールですもの。先生も気楽にお遊びになればよろしいのにね」
「そうそう。ただの教師と本気で恋愛なんてするわけないじゃない」
「あれほど拒否するってことは、もしかして先生は私たちと本気の恋愛につながると考えていらっしゃるのかしら」
それはないわよねー、とお姉さま方はけらけらと楽しげに笑いました。
わたくしは全然楽しくありません。
横に座る旦那さまを見上げると、気にした様子もなく素知らぬ風情で麦酒を召し上がっています。
お店の小僧さんが瓶に入ったジュースとグラスを、お盆に載せて戻ってきました。
「なによ、ぬるいじゃない」
「気が利かないわね。暑いのよ、冷えているのをちょうだいって言ってるじゃない」
「す、すんません」
別にジュースの温度は小僧さんのせいじゃありません。なのに、どうしてきつく責めるのでしょう。
「高瀬先生は堅物よねぇ」
「でも、私たちと結婚できないから、誘いに乗らないのでしょう? 一介の教師としては分をわきまえているわね」
「あんまり誘っても可哀想かしら。夢だけ見せてもねぇ。それに私たちの結婚が決まって、しつこくされても困るわ」
もう、やめて。
わたくしは両手で耳をふさぎました。
もう聞いていられません。聞くに堪えない内容ばかりです。
先生のことを勝手に決めつけて、かわいそうがって、挙句に先生は何もしていないのに迷惑がって。
ですが、ふいに隣に座る旦那さまが、わたくしの肩に軽く手を置きました。
ご自分のことを悪く言われているのに、なぜ?
腹が立たないのですか? 悲しくならないのですか?
先輩たちが立ち去った後、旦那さまは麦酒を一息に飲み干しました。
「ありがとう、翠子さん」
「わたくしは何も」
「俺のために怒ってくれただろう?」
それはそうですけど。ただ怒っただけで、先輩に対して言い返す勇気なんてありませんでした。
ですが旦那さまは「それだけでいいんだ」と仰います。
わたくしは旦那さまの肩にもたれかかりました。
「寂しいことを仰らないでください。お姉さま……いえ、先輩たちは身勝手すぎます。旦那さまこそ、怒っていいんです」
「怒らないよ」
旦那さまの声はとても静かです。怒りを飲み込んでいる風でもありません。穏やかな凪のようで、彼女たちの言葉は旦那さまの心の水面にさざ波すら立たせていません。
「はなから彼女らには何も期待していない。だから裏切られたとも思っていない。興味がないんだよ」
「旦那さま……」
「俺は翠子さんよりも長く生きているからね。ああいうのが珍しくもないと知っている。うん、別段、珍しくないんだよ」
◇◇◇
翠子さんは、手にしたサイダーをじっと見つめている。
正直、申し訳なさはある。誰よりもあなたが俺を愛してくれているのに。公にできないから、学校では距離を取らなければならないことに。
さっきの奴らは、別に相手が俺でなくても構わない。ただ俺が、学校で毎日顔を合わせる男性だからだ。
そもそも俺のことを本当に好いているとして、真後ろにいるのに気づかぬものなのか?
俺は恋愛経験は圧倒的に不足しているが。学校でも休憩時間には、どこかに翠子さんの姿が見えぬかと目の端で探しているというのに。
ほんの少しでも、後ろ姿でも見ることができれば嬉しくて。だがまぁ、それもあって美術の皆月先生にばれたのだが。
恋とは、そういうものなのではないか?
翠子さんはなおも納得できないようで、頬を膨らませている。
「俺は甘やかされてるなぁ」
膨らんだ彼女の頬を指でつついてやると、唇から軽く空気が抜けていった。
なんだ、これ。面白いぞ。
「な、何をなさるんですか。子どもみたいに……」
また頬を膨らませるので、同じようにつついてやる。自覚のない行為だったのか、また口から、ふしゅうーと空気が洩れていく。
「やめてください。外ですよ」
「家の中ならいいのか?」
さすがに三度目はさせぬと考えたのだろう。翠子さんは唇を尖らせた。
はい、残念でした。俺は人差し指と中指で、その唇を挟んでやった。
翠子さんは、言葉にならない文句を口の中でもごもごと呟いている。
「楽しいなぁ」
「楽しくなんてありません。もう、すぐにわたくしのことを虐めるんですから」
「楽しいさ。翠子さんと一緒にいて、あなたが俺のことをかばってくれる。常に俺の味方でいてくれる」
俺は、どれほどあなたに愛してもらっているんだろう。
「さぁ、イカ焼きとラジオ焼きと、あとは綿菓子か。この辺りでは綿飴とは言わんのだな」
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それでいい。俺のために怒ってくれるのもいいが、あなたには笑顔が良く似合う。
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