137 / 247
八章
21、旅館【2】
部屋に入ってきた琥太郎兄さんには、俺たちの姿が見えなかったようだが、すぐに「なんや、寝室か」と納得してこちらにやって来た。
「ありがとう、琥太兄。話はついたのか?」
「ああ、本来なら違約金を出せとうるさいやろけど。あっちもまっとうな商売とちゃうからな。事を大きしたないんやろ、翠子さんの売買の件は問題なしや」
「そうか、よかった」
「あと、三木達比古の件やけど。私が穏便に話をしたら、納得してくれたで。今後一切翠子さんには近づかへんって、一筆書いてもろた」
琥太郎兄さんが見せてくれた紙には、震える文字で誓約書が書かれ、血判が押されている。
「穏便」って「脅す」という意味があったかな? 俺は国語教師じゃないから、分からないのだが。
布団の側に、琥太郎兄さんは腰を下ろした。斉川を連れていないのは、気を利かせたのだろうか。
「この子、大泣きしとったやろ」
「そりゃな、怖かったんだ。当たり前だ」
若頭の前で言うべきことではないと、言葉を選んだが。ヤクザが家に乱入してきて、縄で縛られて平気な少女などいるはずもない。
「原が……車を運転しとった奴な。その原が言うてたけど。翠子さんを縛るとき、泣きも暴れもせずになんと気丈な娘やと思たらしいで。だから驚いとった。あんなに泣くなんて、と」
「……そうか」
「お前に会って緊張の糸が切れたんやろな。欧之丞、あの場にお前がおらず、俺と斉川だけやったら、翠子さんは、泣きもせぇへんかったんやろな」
「ああ、平気そうな顔をしていただろうな」
だが俺は知っている。
翠子さんは、声を上げず涙も出さなかっただけで。心の中では悲鳴を上げて、恐ろしさに泣き叫んでいたことだろう。
俺との約束だから。顔に出さずに我慢していただけなんだ。
「ほんまに優しい目ぇをするようになったんやな」
「え?」
「お前のことや」
琥太郎兄さんが、俺の眉間を指でつついてくる。翠子さんのような細い指ではなく、銃を持つこともある節くれだった指だ。
というか力が強すぎて、非常に痛い。
ああ、翠子さんの攻撃は可愛くてよかったなぁ。一生懸命に俺を虐めようとしても、本質が心優しいから。つい俺にほだされてしまうんだよな。
俺は彼女の寝顔を眺めた。
「まーたまた。にやけちゃって」
さらに琥太郎兄さんの攻撃は続く。眉間がえぐれる、やめてくれ。
「琥太兄。そういうのは彼女相手にやってくれ」
「前のはもう別れた。ふた月ほど付き合ったかな」
「はっや……。何人目だよ」
「うん。何人付き合うたら、私は愛しいと思える相手に出会えるんやろな」
仄明るい行灯に照らされた琥太郎兄さんの横顔は、どこか寂しそうに見えた。
この人は昔から傍らに女性がいて当たり前で、付き合う期間は短いが、ちゃんと恋人をしていたから。だから、気づくことがなかった。
そうか、俺の周りを囲む女学生と琥太兄の彼女たちに、さほどの違いはないのだと。
「俺もそろそろ身を固めようかと思うんやけど」
「まぁ、そうだろうな。琥太兄は三十二なんだし。って、え? 一人で満足できるのか?」
「欧之丞。お前、相当失礼やで」
琥太兄は立ち上がると、寝室にしてある部屋へと視線を向けた。
「せや、原が嬢ちゃんに謝っといてくださいって言うとったで。手荒なことをして、痕が残ってしもたら申し訳ないと」
「伝えておくけど。残ってるよ、縄の痕」
「せやな。あいつは力加減を知らへんから」
それは琥太兄もだろ。
俺はひりつく眉間を手で押さえた。
◇◇◇
わたくしが話し声で目を覚ました時、誰かが立ち去っていく姿が見えました。
「旦那さま。旦那さまっ」
慌てて上体を起こすと、体を抱きとめられました。
「嫌です。行かないで、旦那さま。翠子を一人にしないで」
「翠子さん」
「置いていかないでっ!」
わたくしは声をふり絞って叫びました。
初めて旦那さまを玄関で見送って。それがどんなに心細かったか。どれほど怖かったか。
もう二度とあんな思いはしたくありません。
必死に手を伸ばして、部屋を出ていこうとするその影を求めます。わたくしは拘束から逃れようと必死にもがきますが、その腕の力はますます強くなります。
「離して」
早く追いかけなくては。
今度は芝居じゃなくて、本当におじさまに捕まってしまうかもしれません。
「旦那さまぁっ」
「俺ならここにいるから。もう大丈夫だから」
より一層強く、ぎゅっと抱きしめられました。鼻をかすめるのは檸檬と薄荷が混じった香り。
もしかして、この腕は。まさか……。
わたくしはゆっくりと顔を上げました。
「ありがとう、琥太兄。話はついたのか?」
「ああ、本来なら違約金を出せとうるさいやろけど。あっちもまっとうな商売とちゃうからな。事を大きしたないんやろ、翠子さんの売買の件は問題なしや」
「そうか、よかった」
「あと、三木達比古の件やけど。私が穏便に話をしたら、納得してくれたで。今後一切翠子さんには近づかへんって、一筆書いてもろた」
琥太郎兄さんが見せてくれた紙には、震える文字で誓約書が書かれ、血判が押されている。
「穏便」って「脅す」という意味があったかな? 俺は国語教師じゃないから、分からないのだが。
布団の側に、琥太郎兄さんは腰を下ろした。斉川を連れていないのは、気を利かせたのだろうか。
「この子、大泣きしとったやろ」
「そりゃな、怖かったんだ。当たり前だ」
若頭の前で言うべきことではないと、言葉を選んだが。ヤクザが家に乱入してきて、縄で縛られて平気な少女などいるはずもない。
「原が……車を運転しとった奴な。その原が言うてたけど。翠子さんを縛るとき、泣きも暴れもせずになんと気丈な娘やと思たらしいで。だから驚いとった。あんなに泣くなんて、と」
「……そうか」
「お前に会って緊張の糸が切れたんやろな。欧之丞、あの場にお前がおらず、俺と斉川だけやったら、翠子さんは、泣きもせぇへんかったんやろな」
「ああ、平気そうな顔をしていただろうな」
だが俺は知っている。
翠子さんは、声を上げず涙も出さなかっただけで。心の中では悲鳴を上げて、恐ろしさに泣き叫んでいたことだろう。
俺との約束だから。顔に出さずに我慢していただけなんだ。
「ほんまに優しい目ぇをするようになったんやな」
「え?」
「お前のことや」
琥太郎兄さんが、俺の眉間を指でつついてくる。翠子さんのような細い指ではなく、銃を持つこともある節くれだった指だ。
というか力が強すぎて、非常に痛い。
ああ、翠子さんの攻撃は可愛くてよかったなぁ。一生懸命に俺を虐めようとしても、本質が心優しいから。つい俺にほだされてしまうんだよな。
俺は彼女の寝顔を眺めた。
「まーたまた。にやけちゃって」
さらに琥太郎兄さんの攻撃は続く。眉間がえぐれる、やめてくれ。
「琥太兄。そういうのは彼女相手にやってくれ」
「前のはもう別れた。ふた月ほど付き合ったかな」
「はっや……。何人目だよ」
「うん。何人付き合うたら、私は愛しいと思える相手に出会えるんやろな」
仄明るい行灯に照らされた琥太郎兄さんの横顔は、どこか寂しそうに見えた。
この人は昔から傍らに女性がいて当たり前で、付き合う期間は短いが、ちゃんと恋人をしていたから。だから、気づくことがなかった。
そうか、俺の周りを囲む女学生と琥太兄の彼女たちに、さほどの違いはないのだと。
「俺もそろそろ身を固めようかと思うんやけど」
「まぁ、そうだろうな。琥太兄は三十二なんだし。って、え? 一人で満足できるのか?」
「欧之丞。お前、相当失礼やで」
琥太兄は立ち上がると、寝室にしてある部屋へと視線を向けた。
「せや、原が嬢ちゃんに謝っといてくださいって言うとったで。手荒なことをして、痕が残ってしもたら申し訳ないと」
「伝えておくけど。残ってるよ、縄の痕」
「せやな。あいつは力加減を知らへんから」
それは琥太兄もだろ。
俺はひりつく眉間を手で押さえた。
◇◇◇
わたくしが話し声で目を覚ました時、誰かが立ち去っていく姿が見えました。
「旦那さま。旦那さまっ」
慌てて上体を起こすと、体を抱きとめられました。
「嫌です。行かないで、旦那さま。翠子を一人にしないで」
「翠子さん」
「置いていかないでっ!」
わたくしは声をふり絞って叫びました。
初めて旦那さまを玄関で見送って。それがどんなに心細かったか。どれほど怖かったか。
もう二度とあんな思いはしたくありません。
必死に手を伸ばして、部屋を出ていこうとするその影を求めます。わたくしは拘束から逃れようと必死にもがきますが、その腕の力はますます強くなります。
「離して」
早く追いかけなくては。
今度は芝居じゃなくて、本当におじさまに捕まってしまうかもしれません。
「旦那さまぁっ」
「俺ならここにいるから。もう大丈夫だから」
より一層強く、ぎゅっと抱きしめられました。鼻をかすめるのは檸檬と薄荷が混じった香り。
もしかして、この腕は。まさか……。
わたくしはゆっくりと顔を上げました。
あなたにおすすめの小説
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
【完結】女当主は義弟の手で花開く
はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!?
恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。
※他サイトにも掲載しています。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。