【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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八章

22、旅館【3】

「大丈夫だよ、翠子さん。俺はここにいる」

 耳をくすぐるのは優しくて低い声。とてもよく知っている旦那さまの声です。

「旦那……さま? 本当に?」
「本当だよ。触って確かめてみるかい?」

 そのたくましい手がわたくしの指を掴んで、ご自分の頬に触れさせました。
 まずは指先で凛々しい眉に触れます。そして長めの睫毛にも、すっと通った涼し気な鼻筋にも。少し薄めの唇は、いつものように乾き気味です。

「そういえば、こうして翠子さんにいたずらされたことがあるな」
「旦那さまにいたずらしていいのは、翠子だけです」

 くすっと旦那さまがお笑いになります。
 そうです。旦那さまです。わたくしの大切な欧之丞さまです。

「もっといたずらしても、いいですか?」
「今日は特別だよ。あなたが頑張ったご褒美だ」

 わたくしは膝立ちになり、旦那さまの唇に接吻します。旦那さまの唇の隙間から舌を滑り込ませます。
 旦那さまは一瞬大きく目を見開きましたが、すぐにわたくしの侵入を許してくださいました。

 ですが、残念なことにわたくしは接吻があまり上手くないのです。いたずらを仕掛けたはずですのに、いつの間にか旦那さまに主導権が移ってしまいました。

「ん……、ちが……わたくしが、くちづけを……」
「うん。していいよ」

 旦那さまの舌とわたくしの舌が絡み合います。
 感じているのはわたくしばかりで、旦那さまは平気なご様子。
 どうして、いたずらされているはずの旦那さまの方が余裕があるのでしょう。接吻作戦は失敗です。早々に撤退しなければ。次の手を考えなければ。

「えいっ」とわたくしは旦那さまの両肩を押しました。渾身の力でないと、旦那さまは倒れません。だから思い切りよく。

 不意打ちだったせいでしょうか。存外、簡単に旦那さまは横になってしまいました。

「まさかこの俺が、あなたに押し倒されるとは思わなかった」

 成功です。まさかわたくしが、旦那さまを押し倒すことができるなんて思いもしませんでした。

「で、俺をどうするつもり?」
「え、それはもちろん……」

 わたくしは、はっとしました。
 え、もちろんってなんですか? わたくしが旦那さまを襲うのですか?

「あの、旦那さま。どうすれば旦那さまを襲えるのでしょうか」
「それを俺に訊く?」
「だって、分かりませんもの」

 手始めに旦那さまの脇を、こちょこちょとくすぐってみます。平気ですね。顔色もお変えになりません。

「翠子さん。まさか朝まで俺をくすぐるつもりかい?」
「いえ、効果的な方法が見つかれば、すぐにそちらに移る所存ですよ」
「楽しそうで何より。だが、俺にいたずらをしかけるなら……」

 旦那さまは少し上体を起こして、わたくしの耳に口をお寄せになりました。そして、小さな声で囁きます。
 ええ、思いもかけない言葉を。

「む、むむむ、無理ですっ」

 わたくしは自分の顔が、熱くなるのを感じました。
 なんという破廉恥なことを仰るのでしょう。それでは、わたくしの方が辱められてしまうではないですか。
 全然いたずらになっていません。

「そうかなぁ。難しいことではないよ」

 仰向けになった旦那さまの腰の辺りに、わたくしは座らせられました。ええ、旦那さまをまたぐ格好です。
 わたくしは、ふるふると首を振りました。顔はきっと真っ赤に染まっていることでしょう。

「仕方ないな。じゃあ、翠子さんのいたずらは、もう終わりにするかい?」
「……はい」
「じゃあ、俺にどうしてほしい?」
「きゅっと抱きしめていてください」
「それだけでいいのか? 俺はさっきから、あなたを抱きしめているが」

 それだけでは、駄目です。
 旦那さまは、わたくしの心をちゃんと見抜いておいでです。
 でも……でも。

「言葉にしないと分からないよ」
「わたくしがするのではなく……旦那さまがなさってください」

 わたくしは今にも消え入りそうな声で、そうお願いしました。
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