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八章
27、朝の汽車
昨夜咲いたのでしょうか。道の端に沿って、檸檬色の月見草の花が風に揺れています。道も建物も、工場の煙のせいで煤けており、息をすると喉が少し痛いです。
でもそんな灰色っぽい風景の中でも、月見草の色は清々しく見えます。
ちょうど今は出勤時間なのでしょう。工場へと向かう男性が道を歩いています。
わたくし達は駅へ向かうので、人の流れと反対を進んでおります。作業服(ナッパ服というのだそうです)を着た人たちは、わたくしをふり返ってまで見ます。
きっと場違いな娘が歩いていると、思われているのでしょう。
「人目が気になるな」
「済みません。女学生なんてつれて歩いていたら恥ずかしいですよね。わたくし、少し離れて歩きますから」
「いや、そうじゃない」
旦那さまはわたくしの手を握り、ぐいっと引っ張りました。
◇◇◇
俺は翠子さんの手をしっかりと握りしめた。しかも振り返ってまで彼女を眺める工員に、よく見える位置に彼女とつないだ手を持ってくる。
翠子さんに興味を示していた男どもは「なんだ。男連れか」とでも言いたげな表情を浮かべて、肩をすくめる。
そう、俺の許嫁で恋人です。残念でしたね。と軽く舌を出してやる。
大人げないけどな。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
翠子さんの前では俺は大人なので、何食わぬ顔をしておこう。
今日は、俺は事前に休みを取っていた。翠子さんも欠席する旨を出席簿に書いておいた。
こういう時は、俺が担任で良かったと思う。誰にも余計な詮索をされずに済むのだから。
俺と翠子さんは、駅から帰りの汽車に乗り込んだ。乗客は少なく車内は空いているので、四人掛けの席に対面で座る。まだ午前中だというのに、木製の座席が熱せられた匂いがこもっていた。
昨夜、車に揺られた翠子さんは進行方向を向いて座った方がいいだろう。その方が酔いにくいはずだ。
窓から流れる景色を、翠子さんは眺めている。煙突や工場が並んているだけだから、綺麗なわけでもないのだが。これまで見たことがないせいで、とても興味深いのだろう。
瞬きすら忘れるほどに凝視している。
「楽しいかい?」
「ええ、とても」
「旦那さまはご覧にならないんですか?」
「俺は翠子さんを見ているよ」
対面する翠子さんの膝に当たらないように、少し足を斜めにして組む。
「わたくしなんてご覧になっても、つまらないですよ」
「つまらないなんて、言うものではない」
俺は指で、翠子さんの額を軽く弾く。彼女が体を跳ねさせて、緩く編んだ二本の三つ編みが揺れる。翠子さんは「なぜ?」と額を押さえながら首をかしげた。
「痛いですよ」
「仕返ししていいよ」
「ほら」と俺は翠子さんの方に顔を向けた。翠子さんは右手の親指と中指を輪にして、俺の額に添える。
「い、行きますよ。きっととても痛いですよ。謝るなら今のうちです」
「だから、どうぞって言ってるんだけど」
あなたの力では何をしても痛くないと思うんだが。
「旦那さまが『翠子さん、ごめんなさい』って仰ったら、この手を外しますけど。いいんですね?」
「いいよ」
「泣くほど痛いですよ」
「うん。構わないよ」
「今ならまだ間に合いますよ? わたくしは本気ですよ」
いつまでも謝らない俺に焦れて、翠子さんはとうとう俺にいわゆる「でこぴん」を食らわせた。
しかもやっている本人が、きつく瞼を閉じている状態だ。さらにその指は小刻みに震えているではないか。
良心の呵責に苛まれるくらいなら、やらなければいいのに。
「ご……ごめんなさい。やってしまいました」
うん、全然痛くなかったけどな。
でも、翠子さんは俺に謝らせるつもりだったんじゃなかったっけ? あなたの方が謝ってどうするんだ。
ああ、もう。ここが汽車の中でなければ、いや、車内に乗客がいなければ、ぎゅっと抱きしめてしまいそうだ。
「あの、怒っていらっしゃいません?」
「怒ってないよ」
「どうして笑っていらっしゃるの?」
「だから、言っただろう? 俺はあなたを見ていても飽きることがないんだ。何時間でも眺めていられるし、これっぽっちも退屈しないんだよ」
でもそんな灰色っぽい風景の中でも、月見草の色は清々しく見えます。
ちょうど今は出勤時間なのでしょう。工場へと向かう男性が道を歩いています。
わたくし達は駅へ向かうので、人の流れと反対を進んでおります。作業服(ナッパ服というのだそうです)を着た人たちは、わたくしをふり返ってまで見ます。
きっと場違いな娘が歩いていると、思われているのでしょう。
「人目が気になるな」
「済みません。女学生なんてつれて歩いていたら恥ずかしいですよね。わたくし、少し離れて歩きますから」
「いや、そうじゃない」
旦那さまはわたくしの手を握り、ぐいっと引っ張りました。
◇◇◇
俺は翠子さんの手をしっかりと握りしめた。しかも振り返ってまで彼女を眺める工員に、よく見える位置に彼女とつないだ手を持ってくる。
翠子さんに興味を示していた男どもは「なんだ。男連れか」とでも言いたげな表情を浮かべて、肩をすくめる。
そう、俺の許嫁で恋人です。残念でしたね。と軽く舌を出してやる。
大人げないけどな。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない」
翠子さんの前では俺は大人なので、何食わぬ顔をしておこう。
今日は、俺は事前に休みを取っていた。翠子さんも欠席する旨を出席簿に書いておいた。
こういう時は、俺が担任で良かったと思う。誰にも余計な詮索をされずに済むのだから。
俺と翠子さんは、駅から帰りの汽車に乗り込んだ。乗客は少なく車内は空いているので、四人掛けの席に対面で座る。まだ午前中だというのに、木製の座席が熱せられた匂いがこもっていた。
昨夜、車に揺られた翠子さんは進行方向を向いて座った方がいいだろう。その方が酔いにくいはずだ。
窓から流れる景色を、翠子さんは眺めている。煙突や工場が並んているだけだから、綺麗なわけでもないのだが。これまで見たことがないせいで、とても興味深いのだろう。
瞬きすら忘れるほどに凝視している。
「楽しいかい?」
「ええ、とても」
「旦那さまはご覧にならないんですか?」
「俺は翠子さんを見ているよ」
対面する翠子さんの膝に当たらないように、少し足を斜めにして組む。
「わたくしなんてご覧になっても、つまらないですよ」
「つまらないなんて、言うものではない」
俺は指で、翠子さんの額を軽く弾く。彼女が体を跳ねさせて、緩く編んだ二本の三つ編みが揺れる。翠子さんは「なぜ?」と額を押さえながら首をかしげた。
「痛いですよ」
「仕返ししていいよ」
「ほら」と俺は翠子さんの方に顔を向けた。翠子さんは右手の親指と中指を輪にして、俺の額に添える。
「い、行きますよ。きっととても痛いですよ。謝るなら今のうちです」
「だから、どうぞって言ってるんだけど」
あなたの力では何をしても痛くないと思うんだが。
「旦那さまが『翠子さん、ごめんなさい』って仰ったら、この手を外しますけど。いいんですね?」
「いいよ」
「泣くほど痛いですよ」
「うん。構わないよ」
「今ならまだ間に合いますよ? わたくしは本気ですよ」
いつまでも謝らない俺に焦れて、翠子さんはとうとう俺にいわゆる「でこぴん」を食らわせた。
しかもやっている本人が、きつく瞼を閉じている状態だ。さらにその指は小刻みに震えているではないか。
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「ご……ごめんなさい。やってしまいました」
うん、全然痛くなかったけどな。
でも、翠子さんは俺に謝らせるつもりだったんじゃなかったっけ? あなたの方が謝ってどうするんだ。
ああ、もう。ここが汽車の中でなければ、いや、車内に乗客がいなければ、ぎゅっと抱きしめてしまいそうだ。
「あの、怒っていらっしゃいません?」
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