【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十章

1、出勤【1】

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 夏休みが始まりましたが、旦那さまは当たり前ですけど出勤です。
 
「翠子さん、今日の予定は?」
「今日は、文子さんとお買い物に行くんです。それから、まぁいろいろですね」
「そうか……予定が入っているんだな」

 廊下を歩きながら、旦那さまは、少し肩を落とされました。
 まぁ、どうしましょう。そんな切なそうな顔をなさらないで。まるで翠子が意地悪をしているみたいじゃないですか。

「女学生二人でふらふらと出歩くのは、危ないからな。ちゃんと門限を守るんだぞ。銀司に迎えに行ってもらおうか?」
「いえいえ、大丈夫ですよ。夕暮れ前には帰りますから」
「夕暮れ?」

 旦那さまが革靴を履きながら、片方の眉を上げます。
 わたくし、何かおかしなことを言ったでしょうか?

「この頃の夕暮れは午後七時半くらいだ。翠子さん、門限は何時だった?」
「……五時と仰いました」
「うん、ちゃんと覚えているな」

 わたくしから鞄を受け取りながら、旦那さまがうなずきます。

「行き先は? 深山さんの家なのか? もし何なら、うちに来てもらってもいいぞ。彼女にはもう俺たちのことは知られているし」
「そうですね……考えておきます」

「翠子さん」

 三和土たたきに下りていらっしゃる旦那さまが、わたくしにぐいっと顔をお寄せになります。わたくしは上がりかまちにいるので、いつもよりも旦那さまの顔の位置が近いです。

「考えておくというのは、前向きに検討する方の意味? それとも、話しをはぐらかす方の意味かな?」
「こ、怖いです。旦那さま」
「当たり前だ。いいか、今から夕方まであなたを一人にするんだぞ。どれほど俺が心配か。ああ、もう夏季休暇などなければいいのに。どうして教師は学生と一緒に休んではいけないんだ」

 無茶を仰らないでください。すでに、愚痴も入ってますよ。
 ですが旦那さまは、わたくしの顔をじーっと覗きこんできます。
 もう、困るんです。眉間に皺を刻んでいるのに、少し……ええ、至近距離でようやく気づくほどに眉を下げて。ああ、わたくし寂しげな軍用犬にとても弱いんです。
 
 もうっ。内緒になんてできません。だって良心がちくちくと痛むんですもの。
 翠子にこんな思いをさせるのは、旦那さまだけですよ。

「お買い物の後で、学校に行こうと思っているんです」
「学校に?」

 突然、旦那さまの表情が輝きました。
 電燈でも灯ったのかしらと思うくらいに。

 旦那さまはよく「俺は翠子さんに甘い」と仰いますけど。わたくしも同じなんです。本当に旦那さまに甘いんですよ。

「ええ。海岸通りでお昼も買って。学校で夏休みの宿題をしましょうという約束なんです」
「何時に来るんだ?」

 ええー? そんなの分かりませんよ。
 なんて言ったら、きっと予定表を提出とかさせられるのでしょう。
 困りました。だって、女の子同士の外出ですよ。用事だけを済ませるなんてないですよ。

「お昼には、学校に着けたらと思いますけど……」
「じゃあ、昼食を一緒にとろう」
「え? 文子さんもですか?」
「俺は担任だから、問題なかろう」

 大ありだと思いますよ。だって文子さんは、高瀬先生のことが苦手でいらっしゃるもの。
 ああ、でも琥太郎さんから恋文をもらっていたのですから。強面の人や怖い人(旦那さまのことを怖いなんて申し上げたら、失礼ですけれど)に、慣れておいた方がいいかもしれませんね。

 旦那さまは、見た目と表情が怖いだけですけど。琥太郎さんは、中身が怖そうですもの。

 わたくしは草履を履いて、旦那さまを門まで見送りました。
 お庭には、朝顔が綺麗に咲いています。
 青い朝顔は清々しく、ハイカラな濃いピンクの朝顔は、とても愛らしいです。花弁がひゅるひゅるとよじれた朝顔もありますが、これは江戸時代に品種改良されたものだと、旦那さまが教えてくださいました。

 どれも銀司さんが丁寧に育てている鉢です。

 門の外には人が歩いているのか、話し声が聞こえます。旦那さまはその前で振り返って、わたくしの手を取りました。

 まぁ! もしかしたら騎士のように、手の甲にくちづけてくださるのかしら。
とりどりの朝顔が咲き乱れる中で、それはロマンティックです。

 そう予想したのですが。なぜか旦那さまは、わたくしのてのひらを、ご自分の頬にあてました。すりすりと、旦那さまの頬を撫でるように、わたくしの手は動かされます。

「はーぁ、仕事に行きたくない」

 出勤拒否ですか。
 あの、ロマンティックの欠片もございませんよ。
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