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十章
12、こちらも夕立【1】 ※文子視点
翠子さんと高瀬先生と校門で別れたわたしは、早足で家路を急いでいたの。
だって西の空が真っ黒なんだもの。これはすぐに夕立が来るわ。
うちまでは徒歩で二十分以上かかるから、急がないと雨に打たれてしまう。
湿った土の匂いが強くなったと思うと、地面にぽたっと大きな雨の一粒が落ちて、しみこんでいった。
「まずいって、これは」
鼻の頭にも雨が落ちて「ああ、鼻ぺちゃではなくてよかった」なんて、安心している場合ではなくて。
次の瞬間には、視界が真っ白になるほどに雨が一斉に落ちてきたの。
辺りの色が消し飛ぶほどの、激しい稲光。続いて鼓膜が震える雷鳴に、わたしは石橋の真ん中でしゃがみこんだ。
雷の音は空気まで振動させているし、あまりにも雨が強すぎて、橋を渡り切って、どこかの軒先まで歩くことすらできなかったの。
「だめ……無理よ、こんなの」
翠子さんは高瀬先生と一緒だから、きっと安全だろうけど。わたしは一人だもの。家にばあやや使用人もいるけれど、何時に帰るって伝えていないから、迎えも期待できない。
「夕立だもの。待っていれば、きっとやむわ」
微かなわたしの声なんて、雨の音にすぐにかき消されてしまう。
怖い……助けて。誰か。
でも、こんな驟雨の中を歩いている人なんて誰もいないし。
そう、わたし一人なんだわ。
頭や肩、そして全身を打つ痛いほどの雨にずぶ濡れになったまま、わたしは橋の上で座り込んでいた。
毛の先からしたたる雨が目に入って、視界が滲む。
また雷が鳴って、わたしは身をすくませたの。
「大丈夫か? こんなとこにしゃがみこんどったら、あかんで」
体を打つ雨が途切れて、わたしは顔を上げた。どこかの紳士なのかしら、栗色の髪の男性が、わたしに蝙蝠傘をさしかけてくれていたの。脱いだ背広を腕にかけて、とても気障に見えたわ。
「こんな遮るもんのない橋の上におったら、危ないで。ほら、おいで」
「え、でも」
「『でも』やあらへん」
その人はわたしの手を引いて、歩き出したわ。わたしに傘の半分以上をさしかけているせいで、自分の肩は濡れてしまっているというのに。
「あの、わたしよりもご自分の方にさしてください。わたしはもう、濡れてしまっているので。あなたまで濡れてしまいます」
「可愛いこと言いよるわ」
ぼそっと呟いたその人の言葉が、妙に耳に残って。わたしは、ただおとなしくついていったの。
何かしら、紳士的で優しい態度なのに。背筋がぞくりとするような、その一言に寒気を感じて。
わたしは身を震わせた。
「どないしたん。寒いんか?」
「いえ、大丈夫です」
大きな傘の中で、背の高いその人がわたしを見下ろす。こんな風に男性と同じ傘に入ったことなんてないし、寄り添うほどに近づいたこともない。
得体のしれない紳士に対する不安と、慣れない男性との距離、それに濡れた服が体に張りついて。緊張しているんだか、寒いんだか、怖いんだか、自分でも分からないのよ。
「これでも着とき」
男性は自分の背広を、わたしの肩にかけてくれたの。ずっしりと重くて、でも温かくて、いい香りのする背広。手で触れると、とても滑らかな生地だって分かったわ。
「ああ、あかんな。ちょっと待っとき」
そう言うと男性は、背広の内ポケットから黒いものを取りだして、鞄にしまったの。何かは分からないけれど、硬くて重そうなもの。
待って。この背広、すごく高いんじゃないかしら。濡らしちゃったら、まずいのでは?
「あの、平気ですから。背広が悪くなってしまいます」
「はぁ? 何言うとん。背広なんかどうでもええ。それよりも、文子さんの体調が悪なる方があかんやろ」
え? わたしの足が止まった。
二人の間に沈黙が下りて、雨が川面を叩く音だけがやけにうるさく聞こえたの。
不思議。雨の水が川の水に吸い込まれていくだけなのに。なぜこんなにも激しい音がするのかしら。
「どうしてわたしの名前をご存じなんですか?」
「さぁ、なんでやろな」
「気になります。教えてください」
「ふふん、気になるんか。ええことや」
その人は笑みを浮かべたわ。大人なのに、いたずらっ子のような微笑み。
何かしら? わたし、この感覚を知っている気がするの。
だって西の空が真っ黒なんだもの。これはすぐに夕立が来るわ。
うちまでは徒歩で二十分以上かかるから、急がないと雨に打たれてしまう。
湿った土の匂いが強くなったと思うと、地面にぽたっと大きな雨の一粒が落ちて、しみこんでいった。
「まずいって、これは」
鼻の頭にも雨が落ちて「ああ、鼻ぺちゃではなくてよかった」なんて、安心している場合ではなくて。
次の瞬間には、視界が真っ白になるほどに雨が一斉に落ちてきたの。
辺りの色が消し飛ぶほどの、激しい稲光。続いて鼓膜が震える雷鳴に、わたしは石橋の真ん中でしゃがみこんだ。
雷の音は空気まで振動させているし、あまりにも雨が強すぎて、橋を渡り切って、どこかの軒先まで歩くことすらできなかったの。
「だめ……無理よ、こんなの」
翠子さんは高瀬先生と一緒だから、きっと安全だろうけど。わたしは一人だもの。家にばあやや使用人もいるけれど、何時に帰るって伝えていないから、迎えも期待できない。
「夕立だもの。待っていれば、きっとやむわ」
微かなわたしの声なんて、雨の音にすぐにかき消されてしまう。
怖い……助けて。誰か。
でも、こんな驟雨の中を歩いている人なんて誰もいないし。
そう、わたし一人なんだわ。
頭や肩、そして全身を打つ痛いほどの雨にずぶ濡れになったまま、わたしは橋の上で座り込んでいた。
毛の先からしたたる雨が目に入って、視界が滲む。
また雷が鳴って、わたしは身をすくませたの。
「大丈夫か? こんなとこにしゃがみこんどったら、あかんで」
体を打つ雨が途切れて、わたしは顔を上げた。どこかの紳士なのかしら、栗色の髪の男性が、わたしに蝙蝠傘をさしかけてくれていたの。脱いだ背広を腕にかけて、とても気障に見えたわ。
「こんな遮るもんのない橋の上におったら、危ないで。ほら、おいで」
「え、でも」
「『でも』やあらへん」
その人はわたしの手を引いて、歩き出したわ。わたしに傘の半分以上をさしかけているせいで、自分の肩は濡れてしまっているというのに。
「あの、わたしよりもご自分の方にさしてください。わたしはもう、濡れてしまっているので。あなたまで濡れてしまいます」
「可愛いこと言いよるわ」
ぼそっと呟いたその人の言葉が、妙に耳に残って。わたしは、ただおとなしくついていったの。
何かしら、紳士的で優しい態度なのに。背筋がぞくりとするような、その一言に寒気を感じて。
わたしは身を震わせた。
「どないしたん。寒いんか?」
「いえ、大丈夫です」
大きな傘の中で、背の高いその人がわたしを見下ろす。こんな風に男性と同じ傘に入ったことなんてないし、寄り添うほどに近づいたこともない。
得体のしれない紳士に対する不安と、慣れない男性との距離、それに濡れた服が体に張りついて。緊張しているんだか、寒いんだか、怖いんだか、自分でも分からないのよ。
「これでも着とき」
男性は自分の背広を、わたしの肩にかけてくれたの。ずっしりと重くて、でも温かくて、いい香りのする背広。手で触れると、とても滑らかな生地だって分かったわ。
「ああ、あかんな。ちょっと待っとき」
そう言うと男性は、背広の内ポケットから黒いものを取りだして、鞄にしまったの。何かは分からないけれど、硬くて重そうなもの。
待って。この背広、すごく高いんじゃないかしら。濡らしちゃったら、まずいのでは?
「あの、平気ですから。背広が悪くなってしまいます」
「はぁ? 何言うとん。背広なんかどうでもええ。それよりも、文子さんの体調が悪なる方があかんやろ」
え? わたしの足が止まった。
二人の間に沈黙が下りて、雨が川面を叩く音だけがやけにうるさく聞こえたの。
不思議。雨の水が川の水に吸い込まれていくだけなのに。なぜこんなにも激しい音がするのかしら。
「どうしてわたしの名前をご存じなんですか?」
「さぁ、なんでやろな」
「気になります。教えてください」
「ふふん、気になるんか。ええことや」
その人は笑みを浮かべたわ。大人なのに、いたずらっ子のような微笑み。
何かしら? わたし、この感覚を知っている気がするの。
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