【第一部】没落令嬢は今宵も甘く調教される

真風月花

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十一章

2、爽快な朝なのに【2】

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 いかん。暑苦しいおっさんに迫られている俺を見て、翠子さんが引いている。
 俺は、ぎゅうぎゅうと握りしめてくる波多野の手を振り払おうとした。
 
 だが、さすがは組長の右腕と言われた男。年は俺よりも三十近く上だろうが、まーぁ力が強い強い。
 腕相撲大会があるのなら、参加したら間違いなく優勝だな。
 
「離せってば、波多野」
「ああ、坊。この波多野を蹴り飛ばしてくださってもええんですよ。昔みたいに、癇癪を起こしたらわしを踏みつけてもええんです」
「踏んでないっ!」
「またまたぁ。坊は蹴りを入れると、ちゃんと肝臓を狙ってくる。その緻密さ、正確さは、なんも算術なんかに生かさんでもええやないですか。どうせあれでしょ。学校でそろばんを弾いとんのやろ」

 こら、その暑苦しい顔をすり寄せるな。無精ひげが頬に当たって痛いんだ。そういうのは孫にやってくれ。
 あと、女学校でそろばんなんか教えてない。

「あらまぁ。波多野さんは、坊ちゃんのことを息子のように可愛がっていらしたものねぇ」
 
 割烹着で手を拭きながら、しみじみと感じ入った様子でお清が言う。
 確かに、三條組の庭の木の枝から落っこちた俺を、抱えて家まで連れ帰ってくれたのは、若き波多野だった。
 あれは、カブトムシを捕まえた時だったろうか。それとも柿の木をもいだときだったろうか。
 どっちもだったかな? なにしろ、地面に激突しそうになった俺の下敷きに、波多野がしばしばなっていたからな。
 あれを愛と言うのならば、そうなのだろうが。
 
 ちなみに琥太兄は木登りなんてしないので、そもそも木から落ちることもなかった。

「だが、息子みたいに可愛がる相手には、拳銃の使い方なんぞ教えないだろ。あまつさえ、誕生日の贈り物、高校進学と大学進学の祝いや餞別、こいつは何度拳銃を俺に送ろうとしたことか」
「坊。気ぃつきませんで。ドスの方がよかったんですか?」
「どっちもいらん」

 俺は今わかった。
 かつて猫を飼っていた時に、俺が徹底的に嫌われた理由が。
 今の波多野は、かつて猫を溺愛しすぎた俺だ。
 そりゃ、好きになるはずがない。むしろ嫌われない方が不思議だ。

 今回、エリスを預かることになったが。絶対に暑苦しい愛情をぶつけたりしないぞ。
 俺は学んだのだからな。
 愛に必要なのは掛け算ではなくて、引き算だ。

 そして、俺ははっとした。
 翠子さんに対する俺の愛情は、もしかして波多野並みにうっとうしくはないだろうか。

 ちらっと彼女を一瞥すると、かごの中の猫を指でそっと撫でている。その優しい触れ方が心地よいのか、エリスの方もまんざらではなさそうだ。小さくあくびをして、また眠っている。

 見ているだけで心癒される光景だ。もっとも、そのエリスが入っているかごを抱えているのが琥太郎兄さんで、彼女が兄さんに密着する形になっているのが、非常に面白くはないが。

 俺がエリスの入ったかごを抱えて、翠子さんが柔らかく微笑みながら、撫でてあげる。
 それこそが理想であり現実的な光景なのではなかろうか。
 うむ。そうあるべきである。
 
「せや、欧之丞。今日も仕事やろ、遅れたらあかんし。はよ、学校行き」
「そうですよ、お坊ちゃん。遅刻はいけませんよ」

 琥太兄とお清が、嬉しくないことを言いだした。

「坊。なんやったら、道すがら一緒に行きましょか。懐かしい話をもっとしたいし」

 波多野が、もっと嬉しくないことを言いだした。

「旦那さま、お気をつけて。早く帰ってきてくださいね」

 翠子さん、君は俺が嫌いなのか?

 だがまぁ、分かってはいるんだ。猫を連れて学校には行けないことも。猫を家に置いて翠子さんを連れていけば、お清の仕事が増えてしまうことも。
 我慢しろ、俺。
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