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十一章
8、猫が好き【1】
家に帰った俺たちを出迎えてくれたのは、銀司だった。
「あの、どうかなさったんですか?」
「え? 何がだ」
銀司は俺と翠子さんの顔をじーっと見比べている。そしてもの言いたげな瞳をした。
「いえ、大体の察しはつきますが」
「ど、どういうことですか?」
口を開いたのは翠子さんだった。問いかける声は微かに震えている。まったく可哀想に。だから俺にお仕置きしようなどと考えなければいいのに。
こんな穢れた大人相手に、いたずらを仕掛けてはいけないよ。足下をすくわれるからね。
「えーと、その。旦那さまがすっきりにやにやという表情で、翠子さまが悔しそうに顔を赤くしてらっしゃるから。帰り道で意地悪されたんですよね」
「そうです。そうなんです」
翠子さんは、感極まったように銀司に飛びつこうとした。
おい、相手を間違ってやしないか? あなたが抱きつくのは、隣に立つ俺だろうに。
銀司も心得たもので、突進してくる翠子さんのひたいを手で押さえた。さすがは俺が見込んだ男。
片手だけで、翠子さんの抱擁を封じ込めた。
俺は、そんな残酷なこと生涯することはないだろうが。
だが、分かったね。翠子さん。こうして拒絶する銀司は正しいんだよ。普通の男は、あなたが飛びつこうとしたらぎゅううと抱きしめて、挙句の果てに押し倒してしまうからね。充分に気をつけなさい。
「あ、すんません。つい」
「う……うぅ。銀司さんの意地悪」
ひたいを銀司のてのひらで押さえつけられた翠子さんは、それ以上前進できずに立ち尽くしている。
「いや、ぼくも我が身がかわいいんで。非常時でもないのに翠子さまを抱きとめたりしたら、後で旦那さまに八つ裂きにされます」
うん、その通りだ。分かっているじゃないか。
「ほら、翠子さんももう諦めて」
俺は両腕を広げたが、さすがに翠子さんはいつものように抱きついてはくれない。
少々虐めすぎたかな?
「そうだ、猫。エリスを見せてくれないか?」
「……いいですけど」
「あなたがいないと、俺はきっとエリスに嫌われてしまうからな。一緒に来てくれるかい」
俺が懇願すると、翠子さんはあごを上げた。銀司の力がよほど強かったのか、彼女のひたいは丸く赤くなっている。
駄目だろ、そんな目いっぱい銀司に飛びつこうとしては。
「いいですよ。わたくしに任せてください」
翠子さんは胸を張った。
君は本当にちょろいね。おじさん、時々心配になるよ。
傘立てに傘を置いて、俺たちは玄関を入った。翠子さんはそのまま部屋に向かおうとしたが、お清に呼び止められた。
「あら、欧之丞坊ちゃん。お帰りなさいませ。翠子さん、おやつの用意がありますよ」
「ありがとう、お清さん。後でいただきます」
廊下を小走りに駆ける翠子さんの腕を、台所から出てきたお清が、はっしと掴む。
「いけません。時間をずらすとお夕飯が入らなくなります。さぁ、先に召し上がってください」
「え、でも」と珍しく翠子さんが、甘味に飛びつかない。
これはかなり手ごわい敵だな、猫。
ちなみに今日のおやつは夏みかんのゼリーだ。夏みかんの果肉部分をくり抜いて、その中に果汁で作ったゼリーが流し込んである。近くの店の名物だ。
「あの、お清さん。お部屋でいただいては、いけないかしら」
「なりません。エリスが跳びかかってきますよ」
お清に一喝された翠子さんは「そうですよね」と肩を落としながら、テーブルに着いた。匙でゼリーをひとすくい。
ぷるんとした淡い黄色のゼリーを見ると、やはり気持ちは甘味に囚われてしまったようで、翠子さんは瞳をきらめかせている。
さっきまで、心ここにあらずだったのにな。
ゼリーを口に含むと、それはもうとろけるような笑顔を浮かべる。
だが、すぐにエリスのことを思い出したのか、廊下へと視線を向ける。
なかなかに忙しそうだ。
「翠子さん。落ち着いて食べなさい。猫は逃げないだろう?」
「そうですけど」
俺はゼリーの代わりに麦茶を飲んでいる。そういえば翠子さんがうちに来るまで、この家ではおやつの習慣はなかったなと思いながら。
今では休日に家にいる時などは、ともすれば「お十時」という午前のおやつも出てくるし、夕食の後にはデザートの果物も出る。
お清はいそいそと菓子を作り、銀司もこれまたいそいそと菓子を買うお遣いに出かけている。
俺も例外じゃないしな。
皆、あなたの笑顔が見たいんだよな。
「あの、どうかなさったんですか?」
「え? 何がだ」
銀司は俺と翠子さんの顔をじーっと見比べている。そしてもの言いたげな瞳をした。
「いえ、大体の察しはつきますが」
「ど、どういうことですか?」
口を開いたのは翠子さんだった。問いかける声は微かに震えている。まったく可哀想に。だから俺にお仕置きしようなどと考えなければいいのに。
こんな穢れた大人相手に、いたずらを仕掛けてはいけないよ。足下をすくわれるからね。
「えーと、その。旦那さまがすっきりにやにやという表情で、翠子さまが悔しそうに顔を赤くしてらっしゃるから。帰り道で意地悪されたんですよね」
「そうです。そうなんです」
翠子さんは、感極まったように銀司に飛びつこうとした。
おい、相手を間違ってやしないか? あなたが抱きつくのは、隣に立つ俺だろうに。
銀司も心得たもので、突進してくる翠子さんのひたいを手で押さえた。さすがは俺が見込んだ男。
片手だけで、翠子さんの抱擁を封じ込めた。
俺は、そんな残酷なこと生涯することはないだろうが。
だが、分かったね。翠子さん。こうして拒絶する銀司は正しいんだよ。普通の男は、あなたが飛びつこうとしたらぎゅううと抱きしめて、挙句の果てに押し倒してしまうからね。充分に気をつけなさい。
「あ、すんません。つい」
「う……うぅ。銀司さんの意地悪」
ひたいを銀司のてのひらで押さえつけられた翠子さんは、それ以上前進できずに立ち尽くしている。
「いや、ぼくも我が身がかわいいんで。非常時でもないのに翠子さまを抱きとめたりしたら、後で旦那さまに八つ裂きにされます」
うん、その通りだ。分かっているじゃないか。
「ほら、翠子さんももう諦めて」
俺は両腕を広げたが、さすがに翠子さんはいつものように抱きついてはくれない。
少々虐めすぎたかな?
「そうだ、猫。エリスを見せてくれないか?」
「……いいですけど」
「あなたがいないと、俺はきっとエリスに嫌われてしまうからな。一緒に来てくれるかい」
俺が懇願すると、翠子さんはあごを上げた。銀司の力がよほど強かったのか、彼女のひたいは丸く赤くなっている。
駄目だろ、そんな目いっぱい銀司に飛びつこうとしては。
「いいですよ。わたくしに任せてください」
翠子さんは胸を張った。
君は本当にちょろいね。おじさん、時々心配になるよ。
傘立てに傘を置いて、俺たちは玄関を入った。翠子さんはそのまま部屋に向かおうとしたが、お清に呼び止められた。
「あら、欧之丞坊ちゃん。お帰りなさいませ。翠子さん、おやつの用意がありますよ」
「ありがとう、お清さん。後でいただきます」
廊下を小走りに駆ける翠子さんの腕を、台所から出てきたお清が、はっしと掴む。
「いけません。時間をずらすとお夕飯が入らなくなります。さぁ、先に召し上がってください」
「え、でも」と珍しく翠子さんが、甘味に飛びつかない。
これはかなり手ごわい敵だな、猫。
ちなみに今日のおやつは夏みかんのゼリーだ。夏みかんの果肉部分をくり抜いて、その中に果汁で作ったゼリーが流し込んである。近くの店の名物だ。
「あの、お清さん。お部屋でいただいては、いけないかしら」
「なりません。エリスが跳びかかってきますよ」
お清に一喝された翠子さんは「そうですよね」と肩を落としながら、テーブルに着いた。匙でゼリーをひとすくい。
ぷるんとした淡い黄色のゼリーを見ると、やはり気持ちは甘味に囚われてしまったようで、翠子さんは瞳をきらめかせている。
さっきまで、心ここにあらずだったのにな。
ゼリーを口に含むと、それはもうとろけるような笑顔を浮かべる。
だが、すぐにエリスのことを思い出したのか、廊下へと視線を向ける。
なかなかに忙しそうだ。
「翠子さん。落ち着いて食べなさい。猫は逃げないだろう?」
「そうですけど」
俺はゼリーの代わりに麦茶を飲んでいる。そういえば翠子さんがうちに来るまで、この家ではおやつの習慣はなかったなと思いながら。
今では休日に家にいる時などは、ともすれば「お十時」という午前のおやつも出てくるし、夕食の後にはデザートの果物も出る。
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俺も例外じゃないしな。
皆、あなたの笑顔が見たいんだよな。
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