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十一章
15、いい加減にしろ
柴田は、なおも国語科の先生に訴えている。しかも涙声で。
女ってやっぱり怖いな。
「でも、でも。わたくしの輿入れが決まったからといって、急に高瀬先生が激昂して……」
「おめでとう。君、結婚するのか」
純粋に祝福しただけなのに、柴田は俺を睨みつけた。こいつ、とことん失礼だな。
あと、妙な茶番は早くやめてくれないかな。
仕事が片付かなければ、家に帰るのが遅くなるじゃないか。
「えーと、柴田とやら。よく考えてもみろ。学校で騒ぎを起こして、あんたに何の得があるんだ? 俺を陥れて免職させたいほどに憎んでいるのなら、分からないでもないが。俺はあんたに憎まれるほどに近い関係でもない」
「なっ……」
おやおや、さっきまで泣いていた柴田なのに、今は怒りの表情を浮かべている。
「むしろ無関心だ。あんたのことは、好きや嫌いの範疇に入らない。そんな俺を陥れることに全力を傾ける必要などないだろう。無用なことに情熱を傾けるより、花嫁修業でもした方が建設的だろう?」
「わ、私は先生のことが好きで……」
「俺のことが好きで、俺を陥れて窮地に立たせようとした?」
彼女の言葉を拾い上げて、その先を示してやる。
自分の考えを他人から聞かされることによって、柴田は初めて己の矛盾に気づいたようだ。
「それとも俺があんたを襲ったと周囲に誤認させて、嫁ぎ先を俺に変更しようとした?」
「それは……」
「とことん舐められたもんだな。もういい、これ以上議論するつもりもない。婚約者とお幸せに」
柴田は両の眉を下げて、今度こそ本当に泣き出しそうな顔になった。
むき出しの腕をだらりと下げて、一歩を踏み出してくる。
「私をお見捨てになるの?」
「そもそも見守ってもいない」
「何年も、先生と一緒にいてあげたのに」
一緒にいてあげた? 校内で俺の行く先々で取りまいていたことか。
「……ああ、とても邪魔だったよ。歩きづらいし、うるさいし。あと、押しつけがましい」
俺はもう柴田の方を振り返らずに、職員室に入った。
廊下からは癇癪を起したような泣き声が聞こえてくる。
今日は翠子さんが家にいてよかった。こんなつまらないことで、あの人の心を煩わせたくはないからな。
「とんだ災難でしたわね。高瀬先生」
自分の席に着いた俺に声をかけてきたのは、皆月先生だった。
「何なんですか、あれは」
「あーぁ、そうね。今、私が柴田の絵を描いているでしょ」
皆月先生は、まだ出勤していない教師の机から椅子を引いて勝手に座った。手に持ったぽってりとしたカップからは、コーヒーの香りがしている。給湯室で湯をもらって淹れたのだろう。
「その絵の依頼主が、柴田の婚約者でね。ま、お金とお腹の肉がたっぷりとあるおじさんなのよ」
「で? その結婚が嫌だから、俺に乗り換えると? 短絡的すぎませんか」
「笑っちゃうわよね」
いや、笑えないぞ。人気のない場所だったら、完全に犯罪者扱いじゃないか。
「既成事実なんてなくてもいいのよ。柴田が傷物にされたと噂が立つだけで、相手は結婚を断るでしょ。両親は、高瀬先生に責任を取れと詰め寄るわよね」
「だしにして、利用もするわけですね。俺のことを」
「あら、柴田にしてみれば美しい自分が、結婚してあげるんだもの。高瀬先生には感謝されてもいいくらいには、思ってるんじゃなくて?」
訳の分からない思考回路に、背筋が寒くなる。
比喩ではなく、本当に鳥肌が立った。
俺が渋い表情を浮かべていると「まぁ、犬に噛まれたと思って」と、皆月先生がカップを差し出してきた。
「まだ口をつけてないのよ。全部さしあげるわ。どうぞ」
「そりゃどうも」
熱いコーヒーをひと口飲むと、自分で淹れるものよりも相当苦い。
まぁ、コーヒーの苦さは嫌いではないが。
「で、皆月先生は柴田の絵をこれからも描くわけですね」
「依頼された仕事ですもの。放り出すことはできないわ」
皆月先生のカップは独創的だ。店で売っているような端正な形ではなく、いびつに歪んだ、飲み物に合わなさそうな真っ青な色……味があると言えば聞こえはいいが、自分で作ったものだろうか。
「何をなさっているの? 間接キスよ! 破廉恥だわ!」
突然、けたたましい声が聞こえて、俺と皆月先生は顔を見合わせた。職員室の入り口には、鬼の形相をした柴田が立っていた。
俺は何を言われたのか分からずに、自分の手にしたカップを眺めた。
ああ、確かに。遠目でも皆月先生の物だとすぐに分かるな。
「別に回し飲みなどしていないが。というか、するはずないだろ。君、どういう思考回路をしているんだ?」
「むしろ間接キスだなんて連想するあなたの方が、破廉恥なんじゃないかしら。あと、高瀬先生には恋人がいらっしゃるから、あなたの出る幕はないわよ」
俺と皆月先生の反論に、柴田は顔を真っ赤にした。まるで赤鬼だ。
いくら髪を巻いて綺麗にしていても、こんな癇癪もちの娘を妻にする紳士に同情した。
「柴田さん。結婚というくじが、当たりでなくて残念だったわね。でも、あなたは職業婦人を目指そうともしていない。それなら、両親の勧めに従うしかないんじゃなくて? お相手が気に入らないからといって、当たり散らさないでちょうだい」
女ってやっぱり怖いな。
「でも、でも。わたくしの輿入れが決まったからといって、急に高瀬先生が激昂して……」
「おめでとう。君、結婚するのか」
純粋に祝福しただけなのに、柴田は俺を睨みつけた。こいつ、とことん失礼だな。
あと、妙な茶番は早くやめてくれないかな。
仕事が片付かなければ、家に帰るのが遅くなるじゃないか。
「えーと、柴田とやら。よく考えてもみろ。学校で騒ぎを起こして、あんたに何の得があるんだ? 俺を陥れて免職させたいほどに憎んでいるのなら、分からないでもないが。俺はあんたに憎まれるほどに近い関係でもない」
「なっ……」
おやおや、さっきまで泣いていた柴田なのに、今は怒りの表情を浮かべている。
「むしろ無関心だ。あんたのことは、好きや嫌いの範疇に入らない。そんな俺を陥れることに全力を傾ける必要などないだろう。無用なことに情熱を傾けるより、花嫁修業でもした方が建設的だろう?」
「わ、私は先生のことが好きで……」
「俺のことが好きで、俺を陥れて窮地に立たせようとした?」
彼女の言葉を拾い上げて、その先を示してやる。
自分の考えを他人から聞かされることによって、柴田は初めて己の矛盾に気づいたようだ。
「それとも俺があんたを襲ったと周囲に誤認させて、嫁ぎ先を俺に変更しようとした?」
「それは……」
「とことん舐められたもんだな。もういい、これ以上議論するつもりもない。婚約者とお幸せに」
柴田は両の眉を下げて、今度こそ本当に泣き出しそうな顔になった。
むき出しの腕をだらりと下げて、一歩を踏み出してくる。
「私をお見捨てになるの?」
「そもそも見守ってもいない」
「何年も、先生と一緒にいてあげたのに」
一緒にいてあげた? 校内で俺の行く先々で取りまいていたことか。
「……ああ、とても邪魔だったよ。歩きづらいし、うるさいし。あと、押しつけがましい」
俺はもう柴田の方を振り返らずに、職員室に入った。
廊下からは癇癪を起したような泣き声が聞こえてくる。
今日は翠子さんが家にいてよかった。こんなつまらないことで、あの人の心を煩わせたくはないからな。
「とんだ災難でしたわね。高瀬先生」
自分の席に着いた俺に声をかけてきたのは、皆月先生だった。
「何なんですか、あれは」
「あーぁ、そうね。今、私が柴田の絵を描いているでしょ」
皆月先生は、まだ出勤していない教師の机から椅子を引いて勝手に座った。手に持ったぽってりとしたカップからは、コーヒーの香りがしている。給湯室で湯をもらって淹れたのだろう。
「その絵の依頼主が、柴田の婚約者でね。ま、お金とお腹の肉がたっぷりとあるおじさんなのよ」
「で? その結婚が嫌だから、俺に乗り換えると? 短絡的すぎませんか」
「笑っちゃうわよね」
いや、笑えないぞ。人気のない場所だったら、完全に犯罪者扱いじゃないか。
「既成事実なんてなくてもいいのよ。柴田が傷物にされたと噂が立つだけで、相手は結婚を断るでしょ。両親は、高瀬先生に責任を取れと詰め寄るわよね」
「だしにして、利用もするわけですね。俺のことを」
「あら、柴田にしてみれば美しい自分が、結婚してあげるんだもの。高瀬先生には感謝されてもいいくらいには、思ってるんじゃなくて?」
訳の分からない思考回路に、背筋が寒くなる。
比喩ではなく、本当に鳥肌が立った。
俺が渋い表情を浮かべていると「まぁ、犬に噛まれたと思って」と、皆月先生がカップを差し出してきた。
「まだ口をつけてないのよ。全部さしあげるわ。どうぞ」
「そりゃどうも」
熱いコーヒーをひと口飲むと、自分で淹れるものよりも相当苦い。
まぁ、コーヒーの苦さは嫌いではないが。
「で、皆月先生は柴田の絵をこれからも描くわけですね」
「依頼された仕事ですもの。放り出すことはできないわ」
皆月先生のカップは独創的だ。店で売っているような端正な形ではなく、いびつに歪んだ、飲み物に合わなさそうな真っ青な色……味があると言えば聞こえはいいが、自分で作ったものだろうか。
「何をなさっているの? 間接キスよ! 破廉恥だわ!」
突然、けたたましい声が聞こえて、俺と皆月先生は顔を見合わせた。職員室の入り口には、鬼の形相をした柴田が立っていた。
俺は何を言われたのか分からずに、自分の手にしたカップを眺めた。
ああ、確かに。遠目でも皆月先生の物だとすぐに分かるな。
「別に回し飲みなどしていないが。というか、するはずないだろ。君、どういう思考回路をしているんだ?」
「むしろ間接キスだなんて連想するあなたの方が、破廉恥なんじゃないかしら。あと、高瀬先生には恋人がいらっしゃるから、あなたの出る幕はないわよ」
俺と皆月先生の反論に、柴田は顔を真っ赤にした。まるで赤鬼だ。
いくら髪を巻いて綺麗にしていても、こんな癇癪もちの娘を妻にする紳士に同情した。
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