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三章
2、餌でしかない
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長い口づけの後、空蝉は満足そうに息をついた。唇を舌で舐め、緋色の目を細める。
彼の瞳に映っている自分の姿を見るのが、螢は嫌いだった。
時にすがりつき、時に触れてほしくないと思う。
そんな揺れ動く螢の心が、空蝉の目に映っているようで。
「いいぞ。もっと春見を恋しく思うがいい。決して実らぬ希望は、甘露のようだ」
「考えてなんて……いないわ」
「ふん。嘘をついてもすぐに分かる」
「な、なんでよ!」
春の空蝉は嫌い。
自分には空蝉しかいないと、ずっと螢は言い続けているのに。すぐ春見のことを恋慕していると言うのだから。
それはまるで螢を煽っているかのようでもある。
「恋じゃないのよ。だって春見は弟も同然だもの」
「理屈などどうでもよい。春見を好ましく思う気持ちに、変わりはないのだからな。秋杜に感謝せねばならぬな。このような美味い食い物を与えてくれたのだから」
あの日、切られたままの短い螢の髪を、空蝉は愛おしそうに手で梳いた。
結局、十年一緒にいても螢は食べ物以上になれないのだ。
◇◇◇
夜半、空には細い月が浮かんでいる。
坑道跡から出た螢は、今が盛りの山桜を見上げた。桜自身が灯りをともしているかのように、ぼんやりと薄紅に光って見える。
湿った風はまだ肌寒くて、螢は身を震わせた。
「おい、夜風に当たると風邪をひくぞ。風邪をひけば、そなたの味が落ちるではないか」
空蝉が背後から螢を抱きしめる。
「食べることばかりなのね」
「美食家だからな。以前の依代は、たいそうまずかった。口にしたいとも思わなかったな」
「どうして、おいしくなかったの?」
「ふんっ。絶望にひたり、悲劇を嘆くばかりの依代の味など、ただ苦くて渋いばかりだ。たとえそいつが枯れなかったとしても、とうてい食えたものではなかった」
苦いというからには、鮎の腸みたいなのだろうか。渋さならば、渋柿? その両方を備えた味は、たしかに勘弁してほしい。
空蝉に口づけられたとして、顔をしかめる彼を想像し、螢は「ふふっ」と肩を揺らした。
「ようやく笑ったな。その方が愛らしい」
「なっ。別に愛らしいなんて、思ってほしくないわ。それより、その依代はどうなったの?」
自分を餌としかみなしていないくせに、よくも白々しいことが言えるものだ。
「知りたいのか? なるほど、私が他の依代のことを考えるのが、嫌なのだな」
「どうして、そうなるのよ」
「嫉妬だな」
まさか。わたしが空蝉に?
螢は即座に首を振った。
「空蝉が誰を思おうが、慕おうが、わたしには関係ないことよ」
「寂しいことを言うものではない」
螢の肩ごしに、空蝉がそっと囁く。
「私には、螢が誰かを慕うことは大いに関係がある」
「え?」
それって、まさか。
嫉妬しているのは、空蝉の方だというの?
「十年たっても未だに純粋に春見を慕い続けるその心。片思いというのか? そのような甘美で切ない蜜は初めてだ」
「なんだ……」
はは、と力なく螢は笑う。
空蝉はなぜ螢が笑うのか、理解できなかったようだ。
それでいい。どうせ分かり合えるはずもない。
ほんの少しでも好かれているのかも、と期待した自分が愚かなのだ。
螢は彼の腕から逃れた。
自分はまるで養鶏場の鶏のようだ。春見の優しさと思い出をついばんで、日々卵を産み、それを空蝉が拾い集める。
思い出という餌すらも、自給自足というのが情けないけれど。
その夜は、螢は夢を見た。
彼の瞳に映っている自分の姿を見るのが、螢は嫌いだった。
時にすがりつき、時に触れてほしくないと思う。
そんな揺れ動く螢の心が、空蝉の目に映っているようで。
「いいぞ。もっと春見を恋しく思うがいい。決して実らぬ希望は、甘露のようだ」
「考えてなんて……いないわ」
「ふん。嘘をついてもすぐに分かる」
「な、なんでよ!」
春の空蝉は嫌い。
自分には空蝉しかいないと、ずっと螢は言い続けているのに。すぐ春見のことを恋慕していると言うのだから。
それはまるで螢を煽っているかのようでもある。
「恋じゃないのよ。だって春見は弟も同然だもの」
「理屈などどうでもよい。春見を好ましく思う気持ちに、変わりはないのだからな。秋杜に感謝せねばならぬな。このような美味い食い物を与えてくれたのだから」
あの日、切られたままの短い螢の髪を、空蝉は愛おしそうに手で梳いた。
結局、十年一緒にいても螢は食べ物以上になれないのだ。
◇◇◇
夜半、空には細い月が浮かんでいる。
坑道跡から出た螢は、今が盛りの山桜を見上げた。桜自身が灯りをともしているかのように、ぼんやりと薄紅に光って見える。
湿った風はまだ肌寒くて、螢は身を震わせた。
「おい、夜風に当たると風邪をひくぞ。風邪をひけば、そなたの味が落ちるではないか」
空蝉が背後から螢を抱きしめる。
「食べることばかりなのね」
「美食家だからな。以前の依代は、たいそうまずかった。口にしたいとも思わなかったな」
「どうして、おいしくなかったの?」
「ふんっ。絶望にひたり、悲劇を嘆くばかりの依代の味など、ただ苦くて渋いばかりだ。たとえそいつが枯れなかったとしても、とうてい食えたものではなかった」
苦いというからには、鮎の腸みたいなのだろうか。渋さならば、渋柿? その両方を備えた味は、たしかに勘弁してほしい。
空蝉に口づけられたとして、顔をしかめる彼を想像し、螢は「ふふっ」と肩を揺らした。
「ようやく笑ったな。その方が愛らしい」
「なっ。別に愛らしいなんて、思ってほしくないわ。それより、その依代はどうなったの?」
自分を餌としかみなしていないくせに、よくも白々しいことが言えるものだ。
「知りたいのか? なるほど、私が他の依代のことを考えるのが、嫌なのだな」
「どうして、そうなるのよ」
「嫉妬だな」
まさか。わたしが空蝉に?
螢は即座に首を振った。
「空蝉が誰を思おうが、慕おうが、わたしには関係ないことよ」
「寂しいことを言うものではない」
螢の肩ごしに、空蝉がそっと囁く。
「私には、螢が誰かを慕うことは大いに関係がある」
「え?」
それって、まさか。
嫉妬しているのは、空蝉の方だというの?
「十年たっても未だに純粋に春見を慕い続けるその心。片思いというのか? そのような甘美で切ない蜜は初めてだ」
「なんだ……」
はは、と力なく螢は笑う。
空蝉はなぜ螢が笑うのか、理解できなかったようだ。
それでいい。どうせ分かり合えるはずもない。
ほんの少しでも好かれているのかも、と期待した自分が愚かなのだ。
螢は彼の腕から逃れた。
自分はまるで養鶏場の鶏のようだ。春見の優しさと思い出をついばんで、日々卵を産み、それを空蝉が拾い集める。
思い出という餌すらも、自給自足というのが情けないけれど。
その夜は、螢は夢を見た。
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