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三章

5、湯浴み

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 螢は久しぶりに街に出ることにした。

 山では空蝉が動物を捕ってくれる。ただし、彼が触れるから、ウサギだろうが猪だろうが、鹿だろうが、すべて干し肉になってしまうけれど。
 あとは川で釣った魚や山菜、季節ごとの果物で過ごしている。

「別にわざわざ山を下りることもないだろうに。嫌な思いをするだけだぞ」
「あら、だってわらびを採りに来ていた人が、明日は華やかな婚礼があるって話しているのが聞こえたわ。見てみたいじゃない」

 服を脱いで湯浴ゆあみみしながら、螢は答えた。

 夏なら、川の水をそのまま使ってもいいのだけれど。さすがに春なので、それは無理だ。
 拾い物の一斗缶で湯を沸かし、木を彫った柄杓で体や髪に湯をかける。
 洗面器ほどの大きさはないから、頭にかかる湯は少量だ。
 
「こっちを見ないでよ」

 螢は濡れた髪をかきあげながら、空蝉に命じた。

「見るも何も。私はそなたに憑き、中に入ることも可能なのだぞ。今更だ」

 空蝉の言いように、螢は顔を赤らめた。
 何という言い方をするのだろう。
 
「何を恥じらっているのだ?」
「う、空蝉が、変なことを言うから」
「どこがおかしいのか、説明してみろ」
「な……中に入るとか、言わないでよ」

 勇気を出して訴えたのに、空蝉はただ首を傾げるだけだ。

「憑依するとは、中に入ることではないのか? 螢は違う見解を持っているのか? ならば、私に分かるように示すべきだ」
「違わない。一緒だから」

「では、私がそなたの湯浴みを眺めていても、何も問題はない」
「う……うぅ」

 デリカシーという言葉をご存じでしょうか? それとも平安時代生まれのあなたには、難しすぎるかもしれませんね。
 螢は、がくっと肩を落とした。

 とりあえず空蝉に背中を向けて、螢は石鹸を泡立てた。
 これは以前、街で買ったものだ。
 螢が作っている木彫りの柄杓は、案外いい値で売れるので、それで買い物をしている。

「石鹸を貸してみろ。背中を洗ってやる」

 螢の肩ごしに、空蝉が手を伸ばしてきた。
 
 ふいに、ひんやりとした手が螢の背に触れた。
 空蝉はよく螢の顔や首に触れるけれど、それはいつも服を着たままで。
 こんな風に素肌に触れられることは滅多にない。

「そなたはいつまで経っても若いままだな」
「空蝉から離れたら、ちゃんと年をとれるわ」
「それは困るな」
「なによ、若い方が好きってこと? 男の人って、そういう傾向があるらしいわね」
「そうなのか?」

 背後から顔を覗きこまれて、螢は頬を赤くした。

「べつに螢が若かろうが、年寄りだろうが構わぬが。そなたがいなくなるのは、なんというか非常に困る気がする」
「そ、そりゃそうよね。だって食糧だものね」
「……食事くらいなら、男のことを考えて、ぽわんとのぼせ上がっている娘を食えばいいだけだ。海に魚がいるように、村や町には恋する娘がたくさんいる。干上がってしまっても、甘い気持ちは残っているだろう」

「なら、別にわたしでなくても」
「ふむ。確かに、そうなのだが」

 石鹸の泡ですべらかになった螢の背を撫でながら、空蝉はうなずいた。

 彼の長い指が、肩甲骨の辺りに触れる。
 まるで螢の背中の形をたどるように、そっと優しく。
 
 出会ってすぐの頃は、空蝉に触れられると、寒気がした。
 なのに、今では平気だ。

 そもそも穢れた神に、石鹸や水で清めてもらうなんて変な話だ。
 きっと十年の間に、鈍感になってしまったのだろう。
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