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一章
20、助けるから【2】
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「あんたは子殺しなんか、たいしたことないと思とるやろ。けどなぁ、欧之丞はうちが……三條家の養子として迎えるつもりやったんや」
「養子……なんで、こんな子を?」
父さんの言葉が意外すぎたのか、欧之丞の母親は血走った眼を見開いた。
「あんたには不要でも、俺ら夫婦と息子にとっては欧之丞は可愛い子ぉやからや。それがどういう意味を持つか分かるか?」
父さんの説明は続いた。脱衣所にいる使用人は、誰もが固唾をのんで父さんを見守っている。
「あんたは自分の子やのうて、他人の子を殺すところやったんやで? 欧之丞が死んだら、あんたは死罪や。けど、欧之丞が死なんでも、俺らはあんたのしとうことを見てしもた。どうする? 目撃した使用人とヤクザの組長を殺して、口封じするか?」
返事はない。白眼を真っ赤にした母親は、ぎりっと唇を噛みしめた。
元はきれいな人やったんかもしれへん。せやのに、かさついたぼさぼさの黒髪と落ち窪んだ目やから、幽霊にしか見えへんかった。
「醜聞やなぁ。地主の嫁が息子を殺そうとしてるやなんて。しかも旦那は遊び歩いて、外に女を囲っとんのやろ」
「う、うるさい、うるさい、うるさいっ!」
髪を振り乱して母親は叫んだ。
その甲高い声が、風呂場に反響して耳が痛い。
「なぁ、あんたはどうしたい? こんな嫁を縛り付ける家を出て、自由になりたいんとちゃうか?」
突然、父さんは声音を変えた。
ちょっと聞くと優しそうな。でも、優しいからこそその裏にとてつもなく怖いものを感じた。
ぼくがこれまで知らん父さんやった。
「欧之丞をこっちに渡してくれたら、あんたの望みを叶えたるで。あんたの旦那に見つからんように、この街を出さしたるわ」
「自由……私を?」
「せやで。表向きには死んだことにして名前も変えて自由に生きれるようにしたろ。心配はいらん、あんたが乗った舟が沈んだって偽ればええだけや。せやな、対価は欧之丞を渡してくれたらそれでええ」
今まさに、欧之丞を殺そうとしとったのに。父さんが提案する未来に、女は顔を輝かせた。
親が決めた結婚やったから、夫に相手にされへんかったから、家に縛りつけられとったから。
そんなの、欧之丞を殺してええ理由になんかならへんのに。
亡霊みたいやった顔は生気を取り戻して、そして母親は欧之丞から手を離して立ち上がった。
げほっ、ごほっと欧之丞は咳き込みながら背を丸くする。
咳と咳の間に、苦しそうに息を吸ってる。
「欧之丞」
「に……い、ちゃ……」
「しゃべらんでええから。ぼくと父さんが来たから、もう大丈夫やで」
唇の端からも、背中からも血を流して。しかも首には絞められた痣がくっきりと残ってる。
「ぼくがおるからな。ずっと欧之丞を守ったるから」
「おにい……ちゃん」
ぼろぼろと涙を流しながら、欧之丞はぼくにしがみついてきた。
父さんが欧之丞を抱き上げて、長い廊下を進んでいく。
「波多野。三條の家に、若先生を呼んどいて。切り傷で出血がひどいんと、首を絞められて呼吸が困難や。そう伝えといてくれ」
波多野は「畏まりました」と言うと、先に進んで玄関を出て行った。
家って、もっと明るくて温かいもんやと思とった。
この家は暗くてじめじめしとって、すごく息苦しい。
「父さん。ほんまにあの人逃がしたるん? 欧之丞をこんな目に遭わせたんやで?」
なんで欧之丞を助けるためとはいえ、ひどいことをした母親の望みを叶えたらなあかんの?
そんなんやったら、無茶して人を追い詰める奴の方が、幸せになれるやんか。
「……そんなわけないやろ」
「けど……」
「ええか、琥太郎。親が子を殺すんは、残念ながらほとんど罪に問われへんのや。けどな、お上があの女を裁かんでも、それで許されるわけがない……許したらあかんのや」
父さんの声はとても低くて、まるで地の底から聞こえてくるかのようだった。
ああ、欧之丞の母親は死ぬんやな。ぼくは直感した。
誰が手を下すんかは知らんけど。
子どもを殺そうとしたことすら、きれいさっぱり忘れて。新天地で自由に生きようと一歩踏み出したその時。
きっとあの人は絶望を知るんや。
母親が欧之丞をほんまに殺さへんかったんは、何も優しさが残っとったからやない。
いつまでもいたぶって、鬱憤を晴らすためだけなんや。
「養子……なんで、こんな子を?」
父さんの言葉が意外すぎたのか、欧之丞の母親は血走った眼を見開いた。
「あんたには不要でも、俺ら夫婦と息子にとっては欧之丞は可愛い子ぉやからや。それがどういう意味を持つか分かるか?」
父さんの説明は続いた。脱衣所にいる使用人は、誰もが固唾をのんで父さんを見守っている。
「あんたは自分の子やのうて、他人の子を殺すところやったんやで? 欧之丞が死んだら、あんたは死罪や。けど、欧之丞が死なんでも、俺らはあんたのしとうことを見てしもた。どうする? 目撃した使用人とヤクザの組長を殺して、口封じするか?」
返事はない。白眼を真っ赤にした母親は、ぎりっと唇を噛みしめた。
元はきれいな人やったんかもしれへん。せやのに、かさついたぼさぼさの黒髪と落ち窪んだ目やから、幽霊にしか見えへんかった。
「醜聞やなぁ。地主の嫁が息子を殺そうとしてるやなんて。しかも旦那は遊び歩いて、外に女を囲っとんのやろ」
「う、うるさい、うるさい、うるさいっ!」
髪を振り乱して母親は叫んだ。
その甲高い声が、風呂場に反響して耳が痛い。
「なぁ、あんたはどうしたい? こんな嫁を縛り付ける家を出て、自由になりたいんとちゃうか?」
突然、父さんは声音を変えた。
ちょっと聞くと優しそうな。でも、優しいからこそその裏にとてつもなく怖いものを感じた。
ぼくがこれまで知らん父さんやった。
「欧之丞をこっちに渡してくれたら、あんたの望みを叶えたるで。あんたの旦那に見つからんように、この街を出さしたるわ」
「自由……私を?」
「せやで。表向きには死んだことにして名前も変えて自由に生きれるようにしたろ。心配はいらん、あんたが乗った舟が沈んだって偽ればええだけや。せやな、対価は欧之丞を渡してくれたらそれでええ」
今まさに、欧之丞を殺そうとしとったのに。父さんが提案する未来に、女は顔を輝かせた。
親が決めた結婚やったから、夫に相手にされへんかったから、家に縛りつけられとったから。
そんなの、欧之丞を殺してええ理由になんかならへんのに。
亡霊みたいやった顔は生気を取り戻して、そして母親は欧之丞から手を離して立ち上がった。
げほっ、ごほっと欧之丞は咳き込みながら背を丸くする。
咳と咳の間に、苦しそうに息を吸ってる。
「欧之丞」
「に……い、ちゃ……」
「しゃべらんでええから。ぼくと父さんが来たから、もう大丈夫やで」
唇の端からも、背中からも血を流して。しかも首には絞められた痣がくっきりと残ってる。
「ぼくがおるからな。ずっと欧之丞を守ったるから」
「おにい……ちゃん」
ぼろぼろと涙を流しながら、欧之丞はぼくにしがみついてきた。
父さんが欧之丞を抱き上げて、長い廊下を進んでいく。
「波多野。三條の家に、若先生を呼んどいて。切り傷で出血がひどいんと、首を絞められて呼吸が困難や。そう伝えといてくれ」
波多野は「畏まりました」と言うと、先に進んで玄関を出て行った。
家って、もっと明るくて温かいもんやと思とった。
この家は暗くてじめじめしとって、すごく息苦しい。
「父さん。ほんまにあの人逃がしたるん? 欧之丞をこんな目に遭わせたんやで?」
なんで欧之丞を助けるためとはいえ、ひどいことをした母親の望みを叶えたらなあかんの?
そんなんやったら、無茶して人を追い詰める奴の方が、幸せになれるやんか。
「……そんなわけないやろ」
「けど……」
「ええか、琥太郎。親が子を殺すんは、残念ながらほとんど罪に問われへんのや。けどな、お上があの女を裁かんでも、それで許されるわけがない……許したらあかんのや」
父さんの声はとても低くて、まるで地の底から聞こえてくるかのようだった。
ああ、欧之丞の母親は死ぬんやな。ぼくは直感した。
誰が手を下すんかは知らんけど。
子どもを殺そうとしたことすら、きれいさっぱり忘れて。新天地で自由に生きようと一歩踏み出したその時。
きっとあの人は絶望を知るんや。
母親が欧之丞をほんまに殺さへんかったんは、何も優しさが残っとったからやない。
いつまでもいたぶって、鬱憤を晴らすためだけなんや。
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