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五章

8、眠れない夜【2】※蒼一郎視点

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 外は音がひっそりと鳴りやんどう。
 いつの間にか颱風の目に入ったみたいや。ぽた、ぽたぽたとひっきりなしに軒から水のしたたる音ばかりがする。
 今は雨も降りやんでるみたいやな。

 俺の腕の中で、絲さんは健やかな寝息を立てている。束の間、雲も晴れてるからやろか。雨戸の隙間から、仄白い月明りがごく細く射しこんで、畳の目を一本の糸の光が静かに照らしとう。

 淡く微かな光に彩られた絲さんの寝顔は、とてもきれいやった。睫毛が長くて、細いのに頬はぎすぎすしてなくてふわっと柔らかい。
 ああ、ええなぁ。絲さんはほんまに羽二重餅か真珠麿ましゅまろみたいや。
 本人も琥太郎も颱風は怖くてしゃあないやろけど。俺としては、絲さんを堂々と独り占めできるし、颱風も悪ないなぁ。

 寝ようと思っても、自然と頬がゆるんでしもて寝られへん。ああ、灯りもつけてない夜でよかった。
 顔がにやけてるのが、誰にも見られへんから。

「だいじょうぶ……ですから、ね」

 小さな小さな寝言が、俺の寝間着の胸の辺りに吸い込まれていく。微かに感じるのは絲さんの息の温もり。

 ほんまになぁ、俺の腕の中におるから、恐ろしさに震えんで済んでるんやで。けど、ちゃんとお母さんをやっとうやんか。
 琥太郎が生まれる頃の絲さんは、生きていてくれたらそれでええというくらい、体が弱かったのになぁ。

 柔らかく癖のある絲さんの髪を、そっと撫でる。
 ああ、ええ匂いやなぁ。絲さんは甘い花のような匂いがするなぁ。

 俺の武骨な手に包まれた絲さんの指は、力を入れたら折れてしまいそうに細い。
 
 ほんのひとときだけの静かな夜。俺は、腕の中で眠る絲さんの頬にそっとくちづけた。
 その時、静寂の中で布団がめくれる音が聞こえた。

 え? 見られた? 子どもらに見られてしもた?
 いや、でも大丈夫や。口に接吻したわけやない。ひたいにちょーっと唇がかすめただけや。

 動いたらあかん、寝たふりをするんや、と己に言い聞かせるのに。頭の下で蕎麦殻が騒々しく音を立てる。

「へいきみたい」

 明らかにひそひそ声というか、内緒話の音量の欧之丞の声が聞こえた。ほんまに小さい声なんやろけど、今は辺りが静かやからよう聞こえる。

「父さんも母さんも寝てる?」
「うん。ねてるよ」

 うわ、あかんあかん。ちゃんと寝たふりせんと。
 狸寝入りをしようと思えば思うほど、体が動かせへんのが気になったり、息が不自然にならへんか考えてしまう。

 人の気配が近くでした。
 あかん、寝るんや。俺。
 その気配は、しばらく動かずに俺の様子をうかがってるみたいやった。圧迫感がすごいんやけど?

「おじさん、寝てるよ」
「しーっ。二人とも起きてまうやろ。見つかったら、しかられるで」

 なるほど。俺を覗きこんでるんは欧之丞か。お前なー、もうちょっと気配を消さんとあかんで。小さいのに存在感がありすぎるねん。
 それから琥太郎。お前は声をもっと潜めなさい。

 欧之丞の寝間着の袖が、俺の顔をふわぁっと撫でる。
 柔らかな生地がもそもそして、くすぐったくて。もう少しで声を上げそうになった。
 あかん、出るな。くしゃみ。
 鼻の奥がつーんとするのを、なんとかこらえた。

 起きて「離れなさい」と、注意するわけにもいかへんから、俺はじーっと耐えた。

 多分やけど。二人して颱風の目を見に行くんやろな。雨戸のない窓もあるから、そこから眺めたいんやろ。

 もし絲さんが起きてたら反対するか、或いは子どもらの気持ちを慮って、一緒についていくと言うやろな。
 あかん、あかん。
 夜更かしなんかさせたら、絲さんの具合が悪なるやん。

 うん、平気や、子どもらだけで。屋内やからな。
 
「いくで」と囁く声が聞こえて、襖が一度がたっと音を立てた。

「あかんやん。もっと静かに開けな」
「ごめんなさい」

 そーっと薄目を開けて廊下の方を見てみると、しゅんとうなだれながら頭を下げる欧之丞の姿が確認できた。心なしか寝間着の帯もしょげている。
 ああ、そんな気にせんでええんやで。琥太郎は厳しいところがあるからなぁ。

 起きて欧之丞を慰めてあげたいけど。そんなんしたら子どもらの計画が台無しやし、絲さんも起きてしまう。
 我慢やで、我慢。
 兄弟っていうんは、弟は割を食うことが多いんや。
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