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31、鏡花さん
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神社は杜が深くて、蝉の声があちらこちらから一斉に降りそそぐ。蝉しぐれというよりも、蝉どしゃ降りって感じ。
「先生ー。早く」
「お、おう」
伊吹先生の返事は、心なしか震えている。
「……こんな大事なことを失念していたなんて」
ぶつぶつと呟く声。
そうか。この淡の海神社って、山の上にあるから石段が長いんだ。
石段の左右に茂る木々の向こうには、静かに水をたたえた瑠璃湖が広がっていて、対岸の建物まで、はっきりと分かる。
「伊吹先生。後ろを向かなければ、大丈夫だよ。怖かったら手すりを持てばいいし」
「はは、何を言ってるんだ? 沙雪。寝言は寝て言うものだ」
強がっちゃって。先生、笑顔が引きつってるよ。余裕があった、さっきの先生はどこへ行っちゃったの?
「お待ちしていましたよ、青柳先生」
境内にいたのは、ひょろりとした三十歳前半くらいの男性だった。准教授の笹原先生というらしい。
「おお! 君が噂の。会いたかったんですよ」
わたしが挨拶をすると、笹原さんは、わたしの両手を握りしめてぶんぶんと振りまわすような握手をした。
「それくらいで離してもらえますか?」
なぜか伊吹先生が、わたしと笹原さんの間に割って入る。どうしたのかな?
「ここ、緑が多いんですね」
「神社には古くからの杜がそのまま残っているからね。ほら、あの木。注連縄と紙垂が掛けられてるだろ。栢槇っていうんだけど、天然記念物になることが多い木なんだ。栢槇には別名があるんだよ、分かるかい?」
「いえ」
ねじれたような太い幹と、針状の葉を持つ大木は、どうやら神木のようだった。
くくく、と笹原さんが含み笑いをする。
「伊吹、っていう木なんだよ。でも青柳先生は、ご神木には程遠いよね」
伊吹先生は、スナイパーのような眼光鋭い顔つきで、笹原さんを手招きした。
なんだか二人で、ひそひそと話しこんでいる。
学問とか、研究についてなのかな。難しい話は、分からないよ。
わたしは境内を散策した。
「元気になったみたいね」
突然、背後から声をかけられた。ふり返ったわたしは、言葉を失った。
(なんで、この人が……)
腰に手を当てて、立っていたのは鏡花さんだった。
しゃわしゃわと暴力的な蝉の雨に、鏡花さんの姿がぼやけて見えそうになる。
「ちょっと見せてみなさいよ」
鏡花さんはわたしの帽子をひったくると、おでこのガーゼをめくろうとした。
まだ傷は完全にはふさがっていない。お風呂に入る時だって、防水のフィルムを貼っているくらいだ。
「や、やめてください!」
わたしは後ずさった。その時、右足の踵に痛みが走った。
「なによ、心配してあげてるのにぃ」
口をとがらせて、つまらなさそうな表情を浮かべる。無邪気で悪意がないから、余計に怖い。
「あなた、誰なんですか?」
思い切って尋ねると、鏡花さんはにこりと微笑んだ。その口元が、まるで鎌のように見えた。
ふと足元に目を向けると、向かい合わせに立つ二人に対し、影は一つしかなかった。
「秋山のお姉さんって嘘ですよね」
「やだ。ばれちゃった」
「あー、あれですか。お金を払うって言って、木の葉を渡すのは化け狸でしたっけ」
声の震えを悟られないように、わたしは力を込めて言い放った。
鏡花さんの顔が、赤く染まる。
「なによ。鏡花は狸なんかじゃないわ。馬鹿にしないでちょうだい」
「じゃあ、何なんですか」
「鏡花はねぇ……」
彼女が口にしかけた時、伊吹先生がわたしを呼んだ。
「沙雪、中に入るぞ」
ひらひらと手を振りながら、鏡花さんの姿は杜の中に消えていった。
まるで深い緑に溶けるように。
「先生ー。早く」
「お、おう」
伊吹先生の返事は、心なしか震えている。
「……こんな大事なことを失念していたなんて」
ぶつぶつと呟く声。
そうか。この淡の海神社って、山の上にあるから石段が長いんだ。
石段の左右に茂る木々の向こうには、静かに水をたたえた瑠璃湖が広がっていて、対岸の建物まで、はっきりと分かる。
「伊吹先生。後ろを向かなければ、大丈夫だよ。怖かったら手すりを持てばいいし」
「はは、何を言ってるんだ? 沙雪。寝言は寝て言うものだ」
強がっちゃって。先生、笑顔が引きつってるよ。余裕があった、さっきの先生はどこへ行っちゃったの?
「お待ちしていましたよ、青柳先生」
境内にいたのは、ひょろりとした三十歳前半くらいの男性だった。准教授の笹原先生というらしい。
「おお! 君が噂の。会いたかったんですよ」
わたしが挨拶をすると、笹原さんは、わたしの両手を握りしめてぶんぶんと振りまわすような握手をした。
「それくらいで離してもらえますか?」
なぜか伊吹先生が、わたしと笹原さんの間に割って入る。どうしたのかな?
「ここ、緑が多いんですね」
「神社には古くからの杜がそのまま残っているからね。ほら、あの木。注連縄と紙垂が掛けられてるだろ。栢槇っていうんだけど、天然記念物になることが多い木なんだ。栢槇には別名があるんだよ、分かるかい?」
「いえ」
ねじれたような太い幹と、針状の葉を持つ大木は、どうやら神木のようだった。
くくく、と笹原さんが含み笑いをする。
「伊吹、っていう木なんだよ。でも青柳先生は、ご神木には程遠いよね」
伊吹先生は、スナイパーのような眼光鋭い顔つきで、笹原さんを手招きした。
なんだか二人で、ひそひそと話しこんでいる。
学問とか、研究についてなのかな。難しい話は、分からないよ。
わたしは境内を散策した。
「元気になったみたいね」
突然、背後から声をかけられた。ふり返ったわたしは、言葉を失った。
(なんで、この人が……)
腰に手を当てて、立っていたのは鏡花さんだった。
しゃわしゃわと暴力的な蝉の雨に、鏡花さんの姿がぼやけて見えそうになる。
「ちょっと見せてみなさいよ」
鏡花さんはわたしの帽子をひったくると、おでこのガーゼをめくろうとした。
まだ傷は完全にはふさがっていない。お風呂に入る時だって、防水のフィルムを貼っているくらいだ。
「や、やめてください!」
わたしは後ずさった。その時、右足の踵に痛みが走った。
「なによ、心配してあげてるのにぃ」
口をとがらせて、つまらなさそうな表情を浮かべる。無邪気で悪意がないから、余計に怖い。
「あなた、誰なんですか?」
思い切って尋ねると、鏡花さんはにこりと微笑んだ。その口元が、まるで鎌のように見えた。
ふと足元に目を向けると、向かい合わせに立つ二人に対し、影は一つしかなかった。
「秋山のお姉さんって嘘ですよね」
「やだ。ばれちゃった」
「あー、あれですか。お金を払うって言って、木の葉を渡すのは化け狸でしたっけ」
声の震えを悟られないように、わたしは力を込めて言い放った。
鏡花さんの顔が、赤く染まる。
「なによ。鏡花は狸なんかじゃないわ。馬鹿にしないでちょうだい」
「じゃあ、何なんですか」
「鏡花はねぇ……」
彼女が口にしかけた時、伊吹先生がわたしを呼んだ。
「沙雪、中に入るぞ」
ひらひらと手を振りながら、鏡花さんの姿は杜の中に消えていった。
まるで深い緑に溶けるように。
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