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一章
3、別荘へ【3】
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途中、わたくしたちはホテルのカフェーで、休憩を取りました。
温泉地と林間学舎のある、山間の町です。汽車の停車場からは、湯治客でしょうか、大きな荷物を持った人たちが出てくるのが見えました。
車寄せからホテルに入る途中、吹く風に硫黄の匂いが混じっていました。
ゆで卵に似た、慣れないにおいですけど。体によさそうでもあります。
「温泉ですか、いいですねぇ」
初めて車に揺られたお清さんは、もうここで滞在したいと本音をこぼしていらっしゃいます。
でも、温泉もいいですね。わたくしも入ってみたいです。
銀司さんは車での移動が楽しいらしく、運転手さんにいろいろと質問をしておられたそうです。そして革張りの座席が、いかに座り心地がいいかを熱弁しています。
「島育ちだからな。船に慣れているから、車酔いもしないんだろ。それに以前も別荘の掃除に行ってもらったしな」
わたくしの隣に座る旦那さまは、それぞれの好みを聞いて、ウェイターに注文なさっています。
窓の外では、虫捕り網を持った少年たちが、浴衣姿に麦わら帽子をかぶって、元気よく走っているのが見えます。
林間学舎に滞在している子どもでしょうね。とても楽しそうです。
運ばれてきたグラスに、ウェイターがサイダーを注いでくれます。しゅわしゅわと弾ける泡が、ときおり手の甲に触れました。
そしてレモンのスライスと、缶詰の愛らしいさくらんぼを載せてくれるんです。
お清さんも同じものを注文したので、二人で美しいたたずまいのサイダーを夢中で眺めました。
「乙女に戻ってしまいますねぇ」
「きれいで、飲むのがもったいないですね」
「いや、炭酸が抜けるから。早く飲んだ方がいいんじゃないか?」
もう、旦那さまったら。すぐに風情のないことを仰るんですから。
旦那さまはいつものようにコーヒーを、銀司さんはオレンジジュースを頼んでいらっしゃいます。
銀司さんのジュースも、さくらんぼで彩られているのですけど。「ぼくには似合いませんよ」と、わたくしにさくらんぼをくださいました。
不思議です。夏休みにソシアルダンスの練習も、礼儀作法のおさらいもしなくていいなんて。それに、没落していた実家にいた頃のように、一日中家事に追われずに、サイダーを飲んでもいいなんて。さらに、おまけのさくらんぼまでいただいて。
なんという贅沢な夏休みなんでしょう。
わたくしはかごに入ったエリスに、持参した小皿にお水を入れて飲ませてあげました。
ホテルやカフェーでは、外に出してあげられないのが残念です。
◇◇◇
休憩を終えて、わたくしたちは再び車に分乗しました。
発車した時、後部座席の隣に座る旦那さまの手が、わたくしの指に触れました。
ちょっと近寄りすぎたみたいです。そんなに狭くないんですもの、窮屈に座ることはないですよね。
そう思って、体をずらした時。
旦那さまが、わたくしの手をしっかりと握りしめました。
「あ、あの?」
「このままでいてくれないか?」
お膝に乗せたエリスが、わたくしの顔を見上げています。運転手さんはお仕事中なので、そ知らぬ顔をなさっていますけど。ミラー越しに見えたりしないのかしら。
わたくしの手を取ると、旦那さまは手の甲にくちづけをなさいました。
これ、絶対に見られてますよ。
なのに、手の甲どころか指先にも唇を触れてきます。
は、恥ずかしい……です。
わたくしは顔が赤くなるのを感じました。なのに、さらに手をぐいっと引っ張られて、旦那さまにもたれかかる格好になってしまいます。
これではまるで、わたくしが甘えてしなだれかかっているようではありませんか。
違うの。違うんです。ああ、でも運転手さんに尋ねられてもいないのに、弁解するなんておかしいです。
ちらっと視線を向けると、旦那さまはにやにやとなさっています。
もう、意地悪ばかりなさって。嫌な人。
「そんなに頬を膨らまさないで。フグみたいだよ」
「翠子はフグなので、毒があるんです」
「甘美な毒なら、当たりたいなぁ」
「死に至る毒ですっ」
「翠子さんと心中かぁ。それもまた倒錯的でそそられるね。今つないでいる手を、一緒に赤い紐で結ぶかい?」
いやっ! 変態。
◇◇◇
しばらく走っていると、車窓から見える光景が、左右とも緑に包まれました。ええ、まだ手はつないだままで、離してもらえないんです。
標高が高くなったからなのか、耳の奥がつんとしました。開いた窓から入る風も涼しさを感じます。気温はやはり少し低いですね。
それまでつらなっていた木々が途切れると、突然、視界が開けました。
見渡す限り、一面の草原です。
風が吹いて、みどり、さみどりの草がさわさわとなびいています。まるで海に軽やかなさざ波が立つように。
「まぁ。すごいです。なんて綺麗なんでしょう」
そして、なだらかな斜面には薄紅の花が咲いています。それに薄紫の愛らしい花も。
「旦那さま、あの花はなんですか? こちらのは?」
「どれ?」
わたくしの方の窓に旦那さまが顔を寄せた時には、その花はもう見えなくなっていました。
「急ぐことはない。散歩のときに教えてあげるよ。まぁ、あなたの機嫌が直って何よりだ」
そうでした。旦那さまに、無理矢理密着させられて、ちょっぴり怒っていたんです。忘れていました。
「高原の別荘なんですね」
「立地としてはな」
旦那さまは、不思議な言い回しをなさいました。もう、勿体ぶっても駄目ですよ。ちゃんと素敵な高原だってことは、分かっているんですから。
温泉地と林間学舎のある、山間の町です。汽車の停車場からは、湯治客でしょうか、大きな荷物を持った人たちが出てくるのが見えました。
車寄せからホテルに入る途中、吹く風に硫黄の匂いが混じっていました。
ゆで卵に似た、慣れないにおいですけど。体によさそうでもあります。
「温泉ですか、いいですねぇ」
初めて車に揺られたお清さんは、もうここで滞在したいと本音をこぼしていらっしゃいます。
でも、温泉もいいですね。わたくしも入ってみたいです。
銀司さんは車での移動が楽しいらしく、運転手さんにいろいろと質問をしておられたそうです。そして革張りの座席が、いかに座り心地がいいかを熱弁しています。
「島育ちだからな。船に慣れているから、車酔いもしないんだろ。それに以前も別荘の掃除に行ってもらったしな」
わたくしの隣に座る旦那さまは、それぞれの好みを聞いて、ウェイターに注文なさっています。
窓の外では、虫捕り網を持った少年たちが、浴衣姿に麦わら帽子をかぶって、元気よく走っているのが見えます。
林間学舎に滞在している子どもでしょうね。とても楽しそうです。
運ばれてきたグラスに、ウェイターがサイダーを注いでくれます。しゅわしゅわと弾ける泡が、ときおり手の甲に触れました。
そしてレモンのスライスと、缶詰の愛らしいさくらんぼを載せてくれるんです。
お清さんも同じものを注文したので、二人で美しいたたずまいのサイダーを夢中で眺めました。
「乙女に戻ってしまいますねぇ」
「きれいで、飲むのがもったいないですね」
「いや、炭酸が抜けるから。早く飲んだ方がいいんじゃないか?」
もう、旦那さまったら。すぐに風情のないことを仰るんですから。
旦那さまはいつものようにコーヒーを、銀司さんはオレンジジュースを頼んでいらっしゃいます。
銀司さんのジュースも、さくらんぼで彩られているのですけど。「ぼくには似合いませんよ」と、わたくしにさくらんぼをくださいました。
不思議です。夏休みにソシアルダンスの練習も、礼儀作法のおさらいもしなくていいなんて。それに、没落していた実家にいた頃のように、一日中家事に追われずに、サイダーを飲んでもいいなんて。さらに、おまけのさくらんぼまでいただいて。
なんという贅沢な夏休みなんでしょう。
わたくしはかごに入ったエリスに、持参した小皿にお水を入れて飲ませてあげました。
ホテルやカフェーでは、外に出してあげられないのが残念です。
◇◇◇
休憩を終えて、わたくしたちは再び車に分乗しました。
発車した時、後部座席の隣に座る旦那さまの手が、わたくしの指に触れました。
ちょっと近寄りすぎたみたいです。そんなに狭くないんですもの、窮屈に座ることはないですよね。
そう思って、体をずらした時。
旦那さまが、わたくしの手をしっかりと握りしめました。
「あ、あの?」
「このままでいてくれないか?」
お膝に乗せたエリスが、わたくしの顔を見上げています。運転手さんはお仕事中なので、そ知らぬ顔をなさっていますけど。ミラー越しに見えたりしないのかしら。
わたくしの手を取ると、旦那さまは手の甲にくちづけをなさいました。
これ、絶対に見られてますよ。
なのに、手の甲どころか指先にも唇を触れてきます。
は、恥ずかしい……です。
わたくしは顔が赤くなるのを感じました。なのに、さらに手をぐいっと引っ張られて、旦那さまにもたれかかる格好になってしまいます。
これではまるで、わたくしが甘えてしなだれかかっているようではありませんか。
違うの。違うんです。ああ、でも運転手さんに尋ねられてもいないのに、弁解するなんておかしいです。
ちらっと視線を向けると、旦那さまはにやにやとなさっています。
もう、意地悪ばかりなさって。嫌な人。
「そんなに頬を膨らまさないで。フグみたいだよ」
「翠子はフグなので、毒があるんです」
「甘美な毒なら、当たりたいなぁ」
「死に至る毒ですっ」
「翠子さんと心中かぁ。それもまた倒錯的でそそられるね。今つないでいる手を、一緒に赤い紐で結ぶかい?」
いやっ! 変態。
◇◇◇
しばらく走っていると、車窓から見える光景が、左右とも緑に包まれました。ええ、まだ手はつないだままで、離してもらえないんです。
標高が高くなったからなのか、耳の奥がつんとしました。開いた窓から入る風も涼しさを感じます。気温はやはり少し低いですね。
それまでつらなっていた木々が途切れると、突然、視界が開けました。
見渡す限り、一面の草原です。
風が吹いて、みどり、さみどりの草がさわさわとなびいています。まるで海に軽やかなさざ波が立つように。
「まぁ。すごいです。なんて綺麗なんでしょう」
そして、なだらかな斜面には薄紅の花が咲いています。それに薄紫の愛らしい花も。
「旦那さま、あの花はなんですか? こちらのは?」
「どれ?」
わたくしの方の窓に旦那さまが顔を寄せた時には、その花はもう見えなくなっていました。
「急ぐことはない。散歩のときに教えてあげるよ。まぁ、あなたの機嫌が直って何よりだ」
そうでした。旦那さまに、無理矢理密着させられて、ちょっぴり怒っていたんです。忘れていました。
「高原の別荘なんですね」
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