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二章
36、高瀬家の夜【1】
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困ったことに、今夜の翠子さんは気もそぞろだ。
ドイツ料理店で夕食を食べている時は、割と普通だったのに。
ほろほろになるまで煮込まれた牛のすね肉を、頬を手で押さえながら「美味しいですねぇ」と目を細めていたのだが。
しかも俺が飲んでいるエールを少し口に含んでは、苦さに顔をしかめてもいた。
だが、別荘に帰って来てからの翠子さんは、物思いに耽ったり、急に立ち上がったりと忙しない。
まぁ、想像はつく。深山さんの身を案じているのだろう。
琥太兄は無茶なことはしないと思うぞ。何もしないとも思わないが。
相手は女学生で、しかも初心な深山さんだ。俺だって別に最初から無茶をしたわけじゃないからな。
「翠子さん。ほら」
寝椅子に座って腕を広げると、翠子さんはちらっとホテルの方角に目を向けた。
再度促すと、ようやく俺の隣に座ってくれたが。
うーん、心ここにあらずなんだよな。
「そうでした。わたくし、お買い物をし忘れた物があったかも」
「もうどこの店も閉まっているよ」
「ホテルの売店なら、まだ開いているかもしれません」
うわー、見え透いた嘘を。
立ち上がろうとした翠子さんの腕を掴み、そのまま肩を引き寄せる。
力のない彼女は抗うこともできずに、そのまま俺の胸に倒れ込んだ。さらりとした黒髪がなびき、スカートの裾がひらめく。
うーっ、と恨みがましそうな目で見上げられたが。俺は知りませーん。
側卓に置いたウィスケのグラスを手に取り、琥珀色の液体をひとくち飲む。
「で、何が買いたいって? あまり物を欲しがらない翠子さんが、それほど急に要るものって、教えてくれないか?」
「そ、それは殿方には言えないものです」
ふーん。俺は片方の眉を上げた。
「生活に必要な物は、すべて持ってきているはずだが? 笠井さんは、別荘に来る前にちゃんと荷造りをしていなかったのかな? それは確認を怠ったと捉えるが。間違いないね?」
突然、俺が担任教師の顔を出したから。翠子さんは、顔をこわばらせた。
静かで暗い森と、仄明るい焚き火のはずの背景が、瞬時に女学校の教室へと変化する。
そう、残念なことにこれほど互いのことを知り、仲が良くなっても数学教師としての俺はあまり愛されていない。
ああ、切ないなぁ。
俺は、婚約者としてのあなたも、生徒としてのあなたも全て等しく愛しているというのに。
「せ、先生。わたくし、文子さんのことが心配なんです。だから、彼女の顔を見たくて」
「先生」と、きたか。
俺は木々の枝の向こうに広がる星空を仰いだ。
翠子さんは、とても正直に高瀬先生に事情を話してくれる。
というか本人としては、白状させられている感じかもしれない。
困ったものだ。担任としては、深山さんを放っておくわけにもいかず。さりとて琥太兄の友人としては、放っておくべきだし。
それに、今は勤務中じゃないからな。
「他人のことよりも、自分のことを心配しなさい」
「え?」
俺は翠子さんの体を抱え上げて、膝に座らせた。横座りではなく、膝をまたがらせる格好だ。
それが何を意味するのか、翠子さんはすぐに察したようだ。
俺の肩に手を掛けて、なんとか逃れようとしている。
うん、こういう時だけ察しが良くても困るんだが。
「あの、先生?」
「学校じゃないから、元の呼び名に戻してもらえるかな?」
ドイツ料理店で夕食を食べている時は、割と普通だったのに。
ほろほろになるまで煮込まれた牛のすね肉を、頬を手で押さえながら「美味しいですねぇ」と目を細めていたのだが。
しかも俺が飲んでいるエールを少し口に含んでは、苦さに顔をしかめてもいた。
だが、別荘に帰って来てからの翠子さんは、物思いに耽ったり、急に立ち上がったりと忙しない。
まぁ、想像はつく。深山さんの身を案じているのだろう。
琥太兄は無茶なことはしないと思うぞ。何もしないとも思わないが。
相手は女学生で、しかも初心な深山さんだ。俺だって別に最初から無茶をしたわけじゃないからな。
「翠子さん。ほら」
寝椅子に座って腕を広げると、翠子さんはちらっとホテルの方角に目を向けた。
再度促すと、ようやく俺の隣に座ってくれたが。
うーん、心ここにあらずなんだよな。
「そうでした。わたくし、お買い物をし忘れた物があったかも」
「もうどこの店も閉まっているよ」
「ホテルの売店なら、まだ開いているかもしれません」
うわー、見え透いた嘘を。
立ち上がろうとした翠子さんの腕を掴み、そのまま肩を引き寄せる。
力のない彼女は抗うこともできずに、そのまま俺の胸に倒れ込んだ。さらりとした黒髪がなびき、スカートの裾がひらめく。
うーっ、と恨みがましそうな目で見上げられたが。俺は知りませーん。
側卓に置いたウィスケのグラスを手に取り、琥珀色の液体をひとくち飲む。
「で、何が買いたいって? あまり物を欲しがらない翠子さんが、それほど急に要るものって、教えてくれないか?」
「そ、それは殿方には言えないものです」
ふーん。俺は片方の眉を上げた。
「生活に必要な物は、すべて持ってきているはずだが? 笠井さんは、別荘に来る前にちゃんと荷造りをしていなかったのかな? それは確認を怠ったと捉えるが。間違いないね?」
突然、俺が担任教師の顔を出したから。翠子さんは、顔をこわばらせた。
静かで暗い森と、仄明るい焚き火のはずの背景が、瞬時に女学校の教室へと変化する。
そう、残念なことにこれほど互いのことを知り、仲が良くなっても数学教師としての俺はあまり愛されていない。
ああ、切ないなぁ。
俺は、婚約者としてのあなたも、生徒としてのあなたも全て等しく愛しているというのに。
「せ、先生。わたくし、文子さんのことが心配なんです。だから、彼女の顔を見たくて」
「先生」と、きたか。
俺は木々の枝の向こうに広がる星空を仰いだ。
翠子さんは、とても正直に高瀬先生に事情を話してくれる。
というか本人としては、白状させられている感じかもしれない。
困ったものだ。担任としては、深山さんを放っておくわけにもいかず。さりとて琥太兄の友人としては、放っておくべきだし。
それに、今は勤務中じゃないからな。
「他人のことよりも、自分のことを心配しなさい」
「え?」
俺は翠子さんの体を抱え上げて、膝に座らせた。横座りではなく、膝をまたがらせる格好だ。
それが何を意味するのか、翠子さんはすぐに察したようだ。
俺の肩に手を掛けて、なんとか逃れようとしている。
うん、こういう時だけ察しが良くても困るんだが。
「あの、先生?」
「学校じゃないから、元の呼び名に戻してもらえるかな?」
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