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四章
38、下宿時代の思い出【1】
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俺は階段を上がり、寝室の扉を開いた。
そのまま、整えられた寝台に腰を下ろす。そして小さく息をついた。
「いかんな。今度から翠子さんが包丁やナイフを使う時は、エリスを閉じ込めておかないと」
そんなに危なっかしい手つきではなかった。だが、それは何も邪魔をするものがない場合だ。
通常、ナイフを使っている時に猫は跳びかかってはこないだろ。
ともすれば、つまさきで床をトントンと叩いてしまう。
いかん、貧乏ゆすりは。
床を打つたびに、膝から小銭がチャリンチャリンと落ちていくと教えられたことがある。
ん? それって本当か?
そもそも琥太兄の言葉だぞ。信憑性に乏しいな。
そういえば、お清は俺が梨を器用に剥いたことに、さほど驚かなかった。
まぁ、それはそうだろうな。
高等学校を卒業し、住み慣れた町を出て下宿生活を始めた俺が四年間でずいぶんと大人になったことを思い出したのだろう。
下宿のおかみさんの食事はついているが、部屋の掃除や片づけは自分でしないといけないし。
食事も日曜日は休みだったから、必然的に自分で家事をすることになる。
大学での四年間……正確には三年間はなかなかに厳しかった。
それもこれも、さっきまで電話の邪魔をしていた奴の所為だ。
思考が次々に高速で浮かんでくるのは、翠子さんが心配だからだ。
◇◇◇
「なーあ、欧之丞。見て見て、林檎買うてきてん」
あれは俺と琥太兄が大学生の頃だった。何故か知らんが琥太兄が俺の下宿の隣の部屋に越してきた。(いや、理由は知っている。きっと一人が寂しかったんだ)
あの人は可愛がられて育ったからな。
「なぁ、剥いて」
「はーぁ? なんでだよ。そのまま食えよ」
母親に似て色の白い琥太兄は、寒さに頬を林檎色に染めていた。
「だって皮が口の中に残るのって嫌やん」
「果物ナイフはここにないぞ。おかみさんに借りてこないと。そういう面倒なのは嫌だ」
はっきりと俺は断ったはずなのに。
窓辺に置いた文机に、二つ並べて林檎が置かれた。
「あるで、ナイフ。どうせ使うことないし、ちょうどええやん」
冷えきった外套を脱ぎ、黒い学生服のポケットから琥太兄は懐剣を取り出した。
「それ、ナイフじゃないだろ」
「まぁまぁ。いざという時のために、父さんに持たされてん。ほら、寝込みを襲われるかもしれへんやろ?」
「敵に? こんなところに対立する組もないだろ」
林檎を手に取りながら尋ねると、琥太兄は噴き出した。
「嫌やわぁ、欧之丞は。もっと色っぽい話もあるやろ」
「へ?」
「琥太郎兄ちゃんはもてもてやから。殺して自分のものにしたいって女性もおるかもしれへんやん」
けろっとした口調で言うが。そういえば、時々下宿の外で女性のもめる声が聞こえるよな。
この間も玄関前で女性が言い争いをしていたから。(多分、カフェーの女給と職業婦人だと思うが)俺は彼女たちが退くまで、じーっと待っていたのだ。
雪が降る中を、顔を真っ赤にして相手を罵り合う女二人。甲高い声が耳障りだった。
ああ、もう鬱陶しいな。
琥太兄も、本気じゃないのなら素っ気なくすればいいのに。
というか、さっさと本命を見つけてくれ。
どれほどあんた達が美人だろうが、琥太兄を独占することはできないぞ。
あれは水みたいなもので、掴めやしないんだ。
結局、俺が芯から冷える寒さの中で立ち尽くしている間に、琥太兄が帰ってきて。
そして、彼に縋りつこうとする彼女たちに冷たく言い放ったんだ。
――早よ、帰って。私がまだ笑顔の内に。欧之丞に風邪でも引かせたら、許さへんで。
普段はへらへらしているのに。
あの時の琥太兄は凍てついた氷に閉ざされた湖のような、何事もを許さない厳しい目つきだった。
そのまま、整えられた寝台に腰を下ろす。そして小さく息をついた。
「いかんな。今度から翠子さんが包丁やナイフを使う時は、エリスを閉じ込めておかないと」
そんなに危なっかしい手つきではなかった。だが、それは何も邪魔をするものがない場合だ。
通常、ナイフを使っている時に猫は跳びかかってはこないだろ。
ともすれば、つまさきで床をトントンと叩いてしまう。
いかん、貧乏ゆすりは。
床を打つたびに、膝から小銭がチャリンチャリンと落ちていくと教えられたことがある。
ん? それって本当か?
そもそも琥太兄の言葉だぞ。信憑性に乏しいな。
そういえば、お清は俺が梨を器用に剥いたことに、さほど驚かなかった。
まぁ、それはそうだろうな。
高等学校を卒業し、住み慣れた町を出て下宿生活を始めた俺が四年間でずいぶんと大人になったことを思い出したのだろう。
下宿のおかみさんの食事はついているが、部屋の掃除や片づけは自分でしないといけないし。
食事も日曜日は休みだったから、必然的に自分で家事をすることになる。
大学での四年間……正確には三年間はなかなかに厳しかった。
それもこれも、さっきまで電話の邪魔をしていた奴の所為だ。
思考が次々に高速で浮かんでくるのは、翠子さんが心配だからだ。
◇◇◇
「なーあ、欧之丞。見て見て、林檎買うてきてん」
あれは俺と琥太兄が大学生の頃だった。何故か知らんが琥太兄が俺の下宿の隣の部屋に越してきた。(いや、理由は知っている。きっと一人が寂しかったんだ)
あの人は可愛がられて育ったからな。
「なぁ、剥いて」
「はーぁ? なんでだよ。そのまま食えよ」
母親に似て色の白い琥太兄は、寒さに頬を林檎色に染めていた。
「だって皮が口の中に残るのって嫌やん」
「果物ナイフはここにないぞ。おかみさんに借りてこないと。そういう面倒なのは嫌だ」
はっきりと俺は断ったはずなのに。
窓辺に置いた文机に、二つ並べて林檎が置かれた。
「あるで、ナイフ。どうせ使うことないし、ちょうどええやん」
冷えきった外套を脱ぎ、黒い学生服のポケットから琥太兄は懐剣を取り出した。
「それ、ナイフじゃないだろ」
「まぁまぁ。いざという時のために、父さんに持たされてん。ほら、寝込みを襲われるかもしれへんやろ?」
「敵に? こんなところに対立する組もないだろ」
林檎を手に取りながら尋ねると、琥太兄は噴き出した。
「嫌やわぁ、欧之丞は。もっと色っぽい話もあるやろ」
「へ?」
「琥太郎兄ちゃんはもてもてやから。殺して自分のものにしたいって女性もおるかもしれへんやん」
けろっとした口調で言うが。そういえば、時々下宿の外で女性のもめる声が聞こえるよな。
この間も玄関前で女性が言い争いをしていたから。(多分、カフェーの女給と職業婦人だと思うが)俺は彼女たちが退くまで、じーっと待っていたのだ。
雪が降る中を、顔を真っ赤にして相手を罵り合う女二人。甲高い声が耳障りだった。
ああ、もう鬱陶しいな。
琥太兄も、本気じゃないのなら素っ気なくすればいいのに。
というか、さっさと本命を見つけてくれ。
どれほどあんた達が美人だろうが、琥太兄を独占することはできないぞ。
あれは水みたいなもので、掴めやしないんだ。
結局、俺が芯から冷える寒さの中で立ち尽くしている間に、琥太兄が帰ってきて。
そして、彼に縋りつこうとする彼女たちに冷たく言い放ったんだ。
――早よ、帰って。私がまだ笑顔の内に。欧之丞に風邪でも引かせたら、許さへんで。
普段はへらへらしているのに。
あの時の琥太兄は凍てついた氷に閉ざされた湖のような、何事もを許さない厳しい目つきだった。
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